二人の帰り道
新学期が始まって、もう一週間が経とうとしている。
午後三時半。八月だとまだ昼間同様の明るさの空も、九月ともなると鮮やかな青空が少し黄色っぽく見えてくる。
オレンジ色の太陽光が照らす校舎。そこでは、ちょうど、終業のホームルームの終わりを示すチャイムが鳴り響いていた。
「亜留君、今帰り?」
帰り支度を済ませ、教室から出てきた彦野亜留に声をかけたのは、隣のクラスの船出重菜だった。
「ああ、ちょうど今終わったところ。重菜も?」
「うん。部活とかやってないから」
亜留が重菜に話しかけると、ちょうど後ろから重菜の友達と思われる女生徒が「またね」と重菜に手を振っていた。
重菜もそれに応えるように手を振り返す。手を挙げたとき、肩にかかっていた重菜の茶色く長い髪がふわりと落ちた。
これから家路に向かう生徒、あるいは部活動に向かう生徒たちで賑わう廊下を、亜留と重菜は一階の玄関に向かって歩いた。
亜留と重菜、それぞれの友達とすれ違い、お互い「また明日」と挨拶をかわしながら、教室のある三階から玄関のある一階まで階段を降りていく。
「あ、そうだ。ちょうど重菜に聞きたいことがあったんだけど、明、今日どうしたの? 風邪でもやってくるようなあいつが、学校に来てなかったけど」
亜留はクラスメイトの佐渡明が来ていないことについて、重菜に尋ねた。明と重菜は中学からの友人だったため、亜留よりも事情が詳しいと思ったからだ。
「うん、昨日、明君の従妹の子が、遠足の途中で転落して亡くなったんだって。それで、朝ホームルームが始まる前に電話がかかってきて、今日は休むって」
「ああ、忌引きだったんだ。うちの担任、ただ欠席ってだけしか言わなかったからな」
ひどい担任だよ、と亜留がつぶやくと、重菜は口に手を当ててクスリと笑った。
「明君、相当ショックだったみたいよ。何しろ、小さいころから妹みたいにかわいがってた子だったからって」
「そうか。ああ見えて、結構繊細なところがあるんだな」
しゃべりながら歩いているうちに、気がつけば玄関のある一階にたどり着いていた。
そこでも、亜留と重菜は部活に向かう友人たち数人に、「またね」と手を振りながら別れを告げる。
「明君は、ああ見えても落ち込みやすいのよ。中学の時だって、文化祭で大した失敗でもないのに、自分のせいだってしばらく教室の隅っこで落ち込んでたんだから」
「へぇ、あの明がねぇ。意外だな」
亜留は靴箱にあるスニーカーを取り出し、代わりに上履きを入れると、素早くスニーカーに履き替える。
一方の重菜は、反対側の靴箱から靴を取り出すと、丁寧に靴紐をほどいて靴を履いた。
「人は見かけによらないものよ。元気な人がいつも元気とは限らないんだから」
重菜はそういいながら、トントン、と靴を地面に軽くたたきつける。
「そっか。とりあえず今日は家に行かない方がいいかな。ちょっと用事があったんだけど」
「うん、その方がいいよ。多分明日くらいまで、ずっと落ち込んだままだと思うから」
「明日まで、ねぇ。まあ、仕方ないか」
亜留は重菜が靴を履き替えたのを確認すると、ゆっくりと玄関から外に出た。
暑さの厳しさは和らいできたものの、まだ九月前半の外気は、容赦なく半そで制服から露出した肌の温度を上げていく。
しかし、それを相殺するように、涼しい風が吹き抜ける。中途半端な感触が、夏が終わっていく途中経過を表していくようだ。
「いい加減、涼しくなってくれないかな」
と亜留がつぶやくと、
「まだ九月が始まったばかりだからね」
と重菜が返す。
「でもさ」
校門を抜ける直前で、重菜がつぶやくように言った。
「そう考えると、亜留君って、強いよね」
「僕が? どうして?」
「だって」
重菜が言いかけると、ふとその場に立ち止った。亜留がつられて立ち止ったとき、汗を引かせるような強い風が二人の髪と木々を揺らす。
「幼馴染が事故で死んでから二か月しか経ってないのに、そうやっていつも通りに過ごすことができるんだから」
亜留の小さい時からの幼馴染である天川沙織は、二か月前の七月六日、家の前にある海岸沿いの道路で交通事故にあった。
直後に車のブレーキ音を聞いた住民から通報を受け、沙織は病院に運ばれたが、当たり所が悪く、ほぼ即死だったらしい。
さすがにこのときばかりは亜留もショックを隠せず、何日もわたって家に引きこもっていた。
「僕だって、沙織が死んだあとはショックで何もする気が起こらなかったさ。でも、ずっと落ち込んでても沙織が生き返るわけじゃないし、自分のためにもならない。だから、早く立ち直ろうって思っただけだよ」
手提げかばんを肩にかけ、亜留は風に揺れる青葉を見つめた。
「確かにそうだけど、私だって、沙織が死んだって聞いたときは、二週間くらいは立ち直れなかったのよ。でも、亜留君は私よりも立ち直るのが早かったじゃない」
「立ち直りの早さなんて関係ない。それよりもさ、沙織がいなくなった分まで、僕らがしっかり生きていくことが大切だと思ったんだ」
そういうと、亜留は止まっていた足を動かした。追いかけるように、重菜も後に続く。
「そうだね、私も、もっと強くならなくちゃ」
夏の最後の残照を振り絞るような太陽光、それを遮るように青葉が生い茂った木々のトンネル。その下のアスファルトを踏みしめながら、二人は自転車置き場へと向かった。
二人の家はここ私立星海高校よりも離れた場所にあるため、二人とも自転車通学である。
「あ、亜留君、今から買い物付き合ってくれないかな。明君の家に行かないなら、時間あるでしょ?」
亜留が自転車の鍵を外し、スタンドを上げた時、重菜が亜留に言った。
「買い物?」
「うん。ちょっと、男の子の意見も聞きたいなって思って。どうかな」
「そうだなぁ……」
今日の予定では、放課後明の家に行くことくらいしかなく、それがなくなったとなれば時間が空く。
が、ふと今までの会話を思い出し、あることに気が付いた。
「あ、ごめん、今日やることがあったんだ。また今度誘ってね」
「そっか。じゃあ、また今度ね」
少し残念そうな顔をしながら、重菜は自分の自転車を取り出す。
亜留は先に自転車にまたがり、「じゃあ、また明日」とそのまま自転車置き場を後にした。
風を切りながら住宅街を進み、そこを抜けると海岸沿いの道に出る。
山から海に抜ける風を受けながら、亜留はそれに負けじとペダルを漕ぐ。
にじみ出る汗が薄手の夏服にしみこみ、それが肌にまとわりついて少し気持ち悪い。が、その汗も風が吹くたびに少しずつ引いていく気がした。
「そうか、もう二か月も経つんだな」
自転車を漕ぎながら、亜留は沙織の事故のことを思い出していた。
あの時はショックで何もできなかった。大切な人を守ることができない無力さを感じながら、事故というどうしようもない運命に何とか抗えなかったのか。
そんな思いでどこにもぶつけようがない感情が、亜留を追い込んでいった。
しかし、そればかりでは先に進めないことも知っている。だからこそ、こうして今の自分があるのだ。
そう思って今日まで生きてきた。何故なら沙織は――
『まったく、せっかくの女の子の誘いを断るなんて、やっぱり亜留君は女の子をえっちの対象としかみてないんですね』
――まだ亜留の体の中にいるのである。