07. ダブル・スタンダード、失敗――跳ねっ返りお嬢様の反撃
キリヒトのメンタルブロウはガクから完全無視された。情報の共有が済んだあとは、今後の調査予定やユイを発見した場合に備えての段取り、それから、カナンの依頼を断る方法などを打ち合わせた。その中でガクから経緯の説明を求められたので、キリヒトはやむを得ずこれまでの流れを説明した。
「はぁ!? 前報酬は現物支給でもうもらっているから返せないだァ!?」
「だって、カナンが……そう言ったから」
「おまえさん、俺のことを偉そうにヒモ呼ばわりできる立場と違うやん。何でも屋よりソッチ方面で稼ぐほうが、よっぽどいろんな意味で潤うんと違う?」
「……皮肉はいいから、俺が何をすればいいのかを教えてよ」
「うーん、せやなあ……。キリちゃんは今、どっかに定住してるん?」
「へ? 定住すると身バレすると思ってネカフェを転々としているけど、なんで?」
「もしかして、そのバックパックの中身が全財産、ってこと?」
「そう、だけど」
「はぁ……カナンちゃんがパトロンを申し出るわけやな」
「パトロンって言うな。依頼人だ」
「元、な。そこンとこ、きっちり固めておきや」
「う……はい」
「取り敢えず明日は買い物に付き合うこと。おまえさんの生活用品を一通り揃えようや」
「は?」
「店番のバイト料を前払いで現物支給、三食ねぐら風呂付ってことでどうや。ここに二年ほど棲み付いとるけど、いまだに足がついとらんさかい、安心やで?」
「はいィ!?」
「その代わり、当面ほかの依頼はストップ。つくばに潜り込む言うたら、これまでおまえさんがして来たぬるい案件とは違うさかいな。キリちゃんに店番を任せられるんやったら、こっちも調査に専念できて楽やし。悪い条件ではないと思うで? どうや?」
ゆるい口調だが反論は許さない、といった口振りだった。それに、何も考えていないようで頭の回転が早い。
「……お世話に、なります」
と答えたキリヒトの声音は不本意を露骨に表していた。
「うっし、素直でよろしい。子供は素直が一番やでえ」
ガクは満足げに頷くと、キリヒトの身の置き所やカナンへの対応を一通り説明し、翌日にはテナントビルの一室をキリヒトの個室として調えた。レンタルショップの運営に関するノウハウもキリヒトへ引き継ぎ、ユイの所在を調べるからと言って、早々に店をキリヒトに丸投げして出掛けるようになってしまった。
「カナンちゃんには、俺とタッグを組んでユイの保護に当たるから報酬は不要、もらった分はあとで返すとかなんとか、テキトーに伝えとき」
と言われたが。
「そんなんでカナンが納得するわけないじゃん」
閑古鳥のレンタルショップで店番をしながら、キリヒトは誰も聞く人のない店内で一人ごちた。
最後にカナンと連絡を取ってから、気付けば一週間が過ぎていた。しかし、キリヒトはスパムかと呆れてしまうほど頻繁に送られてくるカナンからのメールに返信を送れないでいた。
そんなカナンが業を煮やし、メッセージではなく通話のほうへ直接コールして来たのは、最後に連絡を取ってから十日ほどが過ぎたころ。
『もしもし、こちら依頼をした者ですが、クロネコさんのコールナンバーで合っていますか?』
久し振りに聞いたカナンの声は、思いのほか穏やかで落ち着いていた。
(よかった。怒ってない)
これなら取り敢えず謝罪をすれば、カナンを煙に巻く作戦――ガクと打ち合わせたとおり、セカンドが再生されている可能性があることを伏せた上で“ガクが握っている情報を聞き出す調査中ということにしよう”作戦を実行できると踏んだ。
「カナン? 連絡が遅れてスミマ」
『よかった! 無事だったのね!』
キリヒトの応答をほんの少し聞いた途端、カナンの悲鳴に近い声がキリヒトの鼓膜をつんざく勢いで轟いた。
『何か事件に巻き込まれているんじゃないかって心配してたのよ! 今どこにいるのよ!』
怒髪天を衝く勢いでまくしたてられ、カナンの怒りの度合いを思い知る。
「えっと……っていうか、あれ? カナンこそ今どこにいるんだよ。バックがすごくうるさい」
『S区よ!』
(な、んだと……っ!?)
自分でも血の気が引いていくのが嫌というほど分かった。S区は安全圏のほうが少ない。見た目だけは如何にも金持ちの娘風なカナンが、こんな物騒な繁華街をうろついていたらどうなるか、なんてことは容易に想像がつく。また前回のネットカフェのときのように、何かしらの事件に巻き込まれる可能性が高い。
キリヒトのそんな焦りも知らず、カナンがさらにまくし立てる。
『三日と間を空けなかったのに急に音信不通になるから、何か事件に巻き込まれたんじゃないかと思ってずっと探しているんじゃないの! 今どこにいるのよ!』
「あんたこそ何やってんだよ! 襲われ掛けたのを忘れたのかよ、学習しろってば!」
思わずキリヒトが怒鳴り返したあとに、異様な雰囲気の沈黙が数秒。
『無事なら連絡をくれればいいじゃないの』
しおらしい声がキリヒトの罪悪感を刺激した。
「……ごめん」
『何を偉そうにお説教なんかしてるのよ! 誰のせいであんないかがわしい繁華街を練り歩いていたと思ってるの!?』
カナンのその怒声を最後に、ブツッと鈍い音がした。そのあとに虚しいトーン信号の音を数回ほど聞かされた。
ブチ切れられた。頭の血管も通話回線も。キリヒトの中に湧いた罪悪感も一瞬で消し飛んだ。
「探してくれなんて頼んだ覚えないっつうの」
腹立たしく思いながらも、どこかくすぐったい。それでいて妙にズキズキと胸の真ん中辺りが痛んだ。
キロン、とモバイルからメッセージ着信の通知音が慎ましく響いた。キリヒトが慌てて画面を開くと、カナンのSNSアプリのアカウントから『S区駅前で待ってます』というメッセージが届いていた。
「……今すぐかよ」
一人ごちるくせに、キリヒトの手は二階の居住フロアへ通じるドアノブを回していた。いそいそと報告書をまとめ、それらをバックパックの中へ詰め込む。窓の外を見れば、午後の陽射しが室内を明るく照らしている。だが澄んだ青空は、とても寒そうだ。
少し悩んだ末、キリヒトはカナンの買ってくれたオレンジ色のコートではなく、ガクが見繕ってくれた黒の革ジャンを羽織って部屋を出た。
キリヒトがS区の駅前に辿り着き、カナンの姿を探し始めて間もないうちに、不意に背後から腕を軽く掴まれた。
「キリちゃん、ここよ」
(え……?)
振り返って腕を掴んで来た相手を見るなり、キリヒトは言葉を失くして茫然と立ち尽くした。
パステルピンクのダッフルコートに、亜麻色の髪がよく映える。コートの裾から覗くこげ茶色のプリーツスカートが、その下に伸びる白い太腿の瑞々しさを強調させている。ミニスカートと同系色のブーツには、コートの襟と同じオフホワイトのボアがほどこされ、生脚が見えるようでいて、わずかしか見えない。下品な見せ方でないことが、却ってその美しさを際立たせていた。
「どうしたの?」
と問われ、我に返った。
「あ、えと……私服姿って、ほとんど見ないから、人違いかな、とか」
言っていて自分でも矛盾していると思った。何を今さらなことを言っているのだろうとか、私服姿を初めて見るわけでもあるまいし、とか――ただ。
(カナンって、こんな子だったっけ?)
なぜか今日に限って、ブーツとスカートの隙間からわずかに覗く彼女の生脚にどきりとした。
「何それ。何が哀しくて休みの日まで制服を着なくちゃいけないのよ。というか、キリちゃんは私を制服だけで私だと記号化で認識していたということ?」
「そういうわけじゃ」
「桐之院女子には、好きで通っているわけじゃない、って前にも言ったでしょう。うちはお母様が帰化人なの。日本の文化に馴染めなくて苦労したからって、私に桐之院女子への入学を強要しただけよ。お嬢様でもないのに」
「あ……そう、なんだ」
「そんなことより、どうしたの、その服」
と問い質すカナンの声が、なぜか尖っていた。顔も露骨に不愉快をかたどっている。
「あー……っと、ガクが調達してくれた。ほら、俺、寒がりだから。風邪をうつされたら困る、って」
そう答えるのに後ろめたさを感じた。また黒一色の恰好だったから。
それを煽るように、カナンが問い詰める。
「餌に釣られてガクに鞍替え?」
と問う彼女の声が途端に弱々しくなった。眉尻を吊り上げて怒っているくせに、瞳が幾分か潤み出している。
(卑怯……)
カナンのそんな表情を見たら、シミュレートしていたごまかし作戦を実行に移せなくなった。まっすぐ本心をぶつけて来るカナンに嘘をつくことが、キリヒトに異様なほどの罪悪感を覚えさせた。
「ガクがシロだと判ったから。あいつはあいつで、ユイさんを探していたようなんだ。情報の共有もできた。結論としてはガクとタッグを組むことにしたんだけど」
キリヒトはカナンを安心させる目的も兼ねて、まずはガクとの共同調査に関する簡単な説明をした。
「そう……今はガクの家にいるのね。一週間様子を見た限り、姉様がいた痕跡もない、と」
「うん。だからガクの線は消えた。ほかの手掛かりを今ガクが調査中なんだけど、ここで話すのもなんだし」
「そうね。でも、その前に買い物を済ませましょ。キリちゃんに革ジャンなんて似合わないわ。見立てておいたコートやセーターがあるの。それに、ジーンズだって寒いでしょ。保温繊維のチノパンのほうが冷え性のキリちゃんには着心地がいいはずよ」
カナンはそう言ったかと思うと、キリヒトの返事も待たずに腕を取って交差点に向かい始めた。
「あ、や、服は、もういいや。ガクに一揃え買ってもらったし」
慌ててそう返し、彼女の腕から腕を抜く。振り返ったカナンは眉間に深い皺を寄せながら、
「だから、そんなファッションだと、またキャラ的に痛々しく見えるだけだってば」
と哀しげな顔をして自分の主張をごり押しした。
(……そんな顔しても、ダメだし)
カナンを遠ざけないと、彼女を巻き込むから。キリヒトは自身へそう諭し、自分の主張を貫いた。
「でも、もったいないから。それより早く報告したい。少しだけカナンにとっての朗報もあるし」
そう言ってごまかすと、彼女はしばらくキリヒトの思惑を探るようにじっと瞳を凝視して来た。だが、やがて深い溜息をついて、
「私、お腹空いちゃった。お勧めのスープ屋さんがあるの。そこでランチを摂りながら話しましょ」
と引き下がった。
オーダーを済ませてから資料とともに経過報告をした。まずはユイの大体の所在と無事が判った、という朗報と、それを調査したのがガクであるということから。先によい報せを伝えたのは、少しでもカナンの憂い顔を明るいモノにしたかったからだ。だが、テーブルに届けられたメインディッシュの具だくさんスープがそれぞれの前に置かれたころには、カナンがユイの居場所に関する資料まで読み進めていた。
「姉様が、つくば学術研究区に?」
一方の手で資料を繰りながら、具だくさんスープに口を付けようとしたカナンの手が止まった。
「どういうことなの? あそこは許可証がないと出入りができない特別区のはずでしょう? 姉様に通行許可証なんて発行されていないはず」
「つくばの在籍教授の名簿にトウコ先生があったんだ。多分、あの人が絡んでいると、思う」
とキリヒトが伝えるのと、カナンが次のページをめくって当該資料に視線を落とすのが、ほぼ同時だった。
「まさか、あの眼鏡女が生きていたなんて……どうして」
「あの事件のとき、ガクもあの場所で飼われていたそうなんだ。ガクですら逃げ延びれた、ということは……」
「あの区域のトップだった女が、逃げ道を確保していないわけがなかった、という、ことね」
「うん……ガクに詰めが甘いって、叱られた」
ごめん、と詫びる口調が、いつもカナンから小言を食らうたびに返す挨拶のようなそれとは別物になった。
「キリちゃんが謝る謂れなんて、ないわ。一度にいろんな事実を突き付けられた上に、当時はまだ十五歳だったのよ。セカンドくんもいなくなってしまった中で、そんな冷静な判断なんて、きっと私がキリちゃんの立場でもできていない。キミが罪悪感を持つことじゃないでしょう? あの女がすべての発端じゃないの」
カナンはキリヒトの立ち位置に寄り添い、そう言ってくれた。セカンドの瞳を介して視た光景が、彼女にある意味で偏った受け止め方をさせているのだろう。それに感謝しつつも、やはり自分の過失だと思う。自分の甘えがユイを危機に陥らせた結果は覆せない。
「カナンがそう思ってくれているなら、ちょっと、救われる」
慰めでなく本気で自分の肩を持ってくれたカナンに、それだけを言うにとどめて話題を変えた。
「で、そっちは? ご両親はまだ捜索願を出したまま?」
キリヒトがそう問いながら口に運んだ、鶏腿肉と冬野菜のポタージュ。カナンが美味しいと勧めてくれた品にも関わらず、何も味を感じることができなかった。
「ううん。姉様から連絡が入るようになったから取り下げたみたい。今では両親も警察と同じことを言い出しちゃって、通信が入るたびにお母様が一方的にお説教をまくし立てている感じ」
そんな応答を頭の中で復唱しつつ、機械的にスープを口に運ぶ。
「ユイさんの反応がない、異変を感じる、という意味?」
「ううん、暖簾に腕押し、というのかしら。いつも“いくつになっても、娘は娘なのよ。お嫁入り前に何ヶ月も帰って来ないなんて”とか言い始めるのだけど、お母様が言い出すと通信を切られちゃうみたいなの」
「あ、それはメンドクサイ。お母さんの心配は解るけど、ちょっとレトロな価値観かもな」
「でしょう? 毎回同じことの繰り返しよ。そのあと必ず私にとばっちりがくるし、ヤんなっちゃう」
「とばっちり?」
「“あなたはユイのようなことをしちゃだめよ”ですって。こうなるまでは、ずっと姉様を見習えとか、姉様は落ち着きがあるのにとか、そんなお説教ばかりだったのに、勝手よね」
と愚痴こぼすカナンに苦笑を返す。これが他愛のない愚痴話で終われるならよかったのだが。
「そっか……でも、ユイさんの対応は、正解だと思う。この案件、多分ヤバいから」
スープを平らげ、パンで器をすくっていたカナンの手が再び止まった。
「ヤバい、って?」
少しでも隠し事をしようものなら見抜いてやる、と言わんばかりの瞳で射抜く彼女の強い視線に怯み、まとまりのつかない返しになった。
「下手に色々と知ってしまえば、カナンたちの両親にも火の粉が降りかかるかもしれない、というか」
「どういうこと?」
「つくば学術研究区は治外法権の区域だし、仮にトウコ先生がクロだとしたら、正攻法で取り返せるとは思えないし。だから、ガクと二人で潜入捜査をしよう、っていう計画を立てている。ガクが今その根回しをしているところ。俺はアシスタントしかできないだろうけど、ユイさんの軟禁場所を確認して、可能であればその場で取り返して来よう、って話になっているんだ」
「どうしてわざわざ治外法権の区域に入るなんて危ないことをするの? キリちゃんはあの女に顔や能力を知られているじゃないの。それに不正コード」
「カナン、声が大きい」
興奮から次第に声が大きくなって来たカナンを慌てて制した。彼女もはっとした顔をして肩をすくめたが、諦めるという概念はないらしい。テーブルの中央に向かって頭を寄せたかと思うと、キリヒトの襟首をくいと掴んで引き寄せた。
「ちょ」
「キミだって、不正コードの上に、S以下の個体識別コードしか持っていないでしょう? ガクだってそれを知っているでしょうに。本当に彼を信用していいの?」
ガクへの信用回復作戦、失敗――と諦めてしまえば次へ進めないので、抗ってみる。
「信用できるだけの物証はある。ただ、カナンには関わらせたくないから、資料は一部だけだったり、画像も加工してあったりはするけれど、俺が現物を見て信用できると判断した。だから俺を信用してよ」
「キリちゃんを信用しないなんて言ってないわ。どうせガクは姉様の遠隔通信を盗んでいるのよ? それを使えばコンタクトが取れるじゃないの。行くならガクが一人で勝手に行けば済む話とも言えるわ。なのにキリちゃんまで危険に晒そうとする、その理由が私には考え付けない。きっとあの眼鏡女とグルに決まっているわ」
「あ、いや、それはカナンの誤解だったんだ」
「誤解? 何が」
「うー……なんつうか、聞いてて“はいはい”って話なんだけど」
その手の話は、苦手だ。キリヒトはつかえながらも、どうにかガクがまだユイに能力模倣を発動させていない旨を言葉にした。ぶっちゃけた話の流れも話さないと、ラーニングしていない、という一言だけでは信用しそうになかったから。
「ガクのお芝居、ということはないの?」
「もしそうなら、俺が店に立ち寄った段階でトウコ先生にリークして、今俺はここになんていないと思う」
本当は、ガクがなぜつくばに潜り込めるのかなど、腑に落ちない点があるけれど。今はカナンに話すと余計に付いて来てしまいそうなので、その不安を押し殺してカナンの懐柔に専念した。
「……ねえ、キリちゃん。何かガクに弱みでも握られたの?」
何を思ったのか、それとも自分の言動に手落ちがあったのか。カナンは突然そんな問いをぶつけて来た。
「どうして?」
「だって」
と言ったきり今度は黙り込む。テンプレートな女の子と違い、個性の強いカナンの考えることは今一つ分からなくて、そのたびに不安が押し寄せる。
カナンはしばらく考え込むように視線を逸らして俯いていたが、突然背筋をピンと伸ばし、
「私は依頼人よ。キミはこの件に関することすべてについて、私に報告する義務があるわ。私はキミに危険を冒してもらうほどの報酬を渡してはいないもの。危険な調査をするくらいなら、今手元にあるこの物証と情報だけで充分。あとはお母様からお父様に伝えてもらえば、お父様がそれなりの対応をしてくれるでしょうし。とにかくガクの家から出なさい。何か企んでいそうで、なんか、イヤ」
と、支離滅裂な命令を下して来た。
「イヤ、って……。っていうか、カナンは両親にその資料をどうやって手に入れたのか、って訊かれたとき、どう答えるつもりなんだ?」
「それは」
と言ったきり、また黙り込む。何がカナンをそこまでムキにさせているのかが理解できず、キリヒトは彼女の出方を待とうと沈黙を守った。その間にも、カトラリーがスープ皿をこする小さな音や、キリヒトがスープをすするかすかな音、カナンがパンのちぎる音まで聞こえる気がした。
(も、ギブ)
彼女をこの件に介入させず、なおかつ彼女の機嫌を損ねることなく納得してもらえる術が見つからない。
「カナン、心配してくれて、ありがとう」
率直にカナンを切る意思があることを伝えるしかない。そんな諦めが力のない声に出た。キリヒトはカナンの顔を見ることができなくて、視線がパンで皿を拭う自分の手元に集中した。
「こうやって一緒に飯を食ってさ、普通にしゃべったりもして。でも俺とカナンは、住んでいる世界が違うから。俺らは……友達じゃない、からさ」
カナンから見て危なく見えることも、自分の過ごして来た中では当たり前のこと。依頼人が請負人の安否を気遣う義理も責任もない。
「依頼人に介入されて何かあったら、俺の今後の仕事に響くから。ガクと連絡を取るから、このあとガクの店まで付き合ってよ」
キリヒトはそんな冷たい言葉でカナンの厚意を切り捨てた。
そのあとガクと連絡を取って事情を伝え、ガクの店で二人を引き合わせた。二人のやり取りを直接見るのは初めてだったが、カナンがガクへ悪態を述べるときに比べれば、実際の接し方は至って普通だった。
「カナンちゃーん、久し振りやなー。最後に会うたんはいつやったっけ。去年?」
「……そうね」
「そのころよりもめっちゃイイ女になってるやん。彼氏でもできた?」
「あなたみたいな人を知ってから、もっとそういうことに関心を抱けなくなったわ」
「……相変わらずキツいっすね」
「どうも」
仏頂面で答えているものの、不器用な甘え方しかできない妹と、それを解った上でいじり倒されているダメ兄貴、という構図にしか見えない。
「それで、ガクは何を企んでいるの? キリちゃんが不正コードしか持っていないのを知っていてつくばに潜入するそうね。そんな危険を冒すくらいなら、私が姉様を迎えに行くわ。ガクは大久保家がSコード所持世帯ということを姉様から聞いているはずよね。許可証さえ取れれば、私がつくばへ赴くほうがキリちゃんよりよっぽど自然だわ」
大久保家がSコード所持世帯!? という批判混じりの問いがキリヒトの口を突いて出る。
「そんな話はこれまで一度も聞いてないぞ!」
だがキリヒトのそれは華麗にスルーされた。
「何を企んでいるのか知らないけれど、それにキリちゃんを巻き込まないで。あなただけは信用できない」
「ちょ、キリちゃん!? 話と違う! カナンちゃん、まだ全力で俺を疑うてるやん!」
俺も知らねえよ、と言いたいのを堪えるつもりが、結局語気が荒くなった。
「ちゃんと話したよ! カナン、ガクはシロだって言ったじゃん」
「キリちゃんは何かしらの理由でガクに利用されているのよ。だってこの人、誰にでもこういう愛想のいい態度で相手の警戒心を削ぐのが得意なんですもの」
「だから、ガクのほうがつくばの地理や情報に詳しいから利害の一致を見た、ってことで、共同戦線を張るだけだって説明したじゃん。それより、どうしてSコードを持っているって教えてくれなかったんだよ。コードを貸してくれたらもっと楽に潜入できるのに」
「どうせ私に被害届を出させるつもりでしょ? キリちゃんが違法行為をしようとしているのが判っていて教えるわけがないでしょう」
「あんたは俺のおふくろか。余計なお世話だ」
そんなやり取りに終始してしまい、結局カナンからの「介入しない」という言質は取れなかった。
キリヒトがユイの案件に専念することになったからか、基本的にガクの店のカウンターにいる生活になると、毎日のようにカナンが店へ顔を出しに来た。
「それにしても、暇ね。いっそ店じまいしてしまえばいいのに」
「いや、店番をしてみて初めて知ったけれど、意外と開店早々に年配のお客で溢れ返るんだよ」
「うそ。どうして? 新作なんて全然ないのに」
「この店は古典映画が多いだろう。古き良き二十世紀代の映画を知っているマニアって、年代を問わずにいるんだよな。俺も古典映画のほうが断然好きなんだけど、年配の人たちは俺の好きな年代のものよりもっと古い作品を好んで借りていく、という感じ」
「キリちゃんは古典映画が好きなんだ」
「うん。ネカフェ生活の暇つぶしでたまたま見つけた映画が、なんか泣ける映画で」
「どんなの? この店にもある?」
「ある。確かディスクタイプであったと思う」
キリヒトはパソコンでデータをソートし、内容も含めて当該作品をもう一度確認した。
(うん。多分カナンは恋愛ジャンルが好きだろうし、そこまでのグロ表現もないから見せても大丈夫そうだな)
キリヒトはカナンにカウンターを預け、フロアからケースごとその作品を取り出した。
「Sommersby?」
カナンにジャケットを見せると、彼女は愛らしく小首を傾げてキリヒトに説明を求めた。
「人名がタイトルの映画で、当時の日本では“ジャック・サマースビー”という邦題でヒットした恋愛映画なんだって」
その当時は役者のホログラフによる合成の演技ではなく、実際に役者同士が向き合って触れ合いながら映画作品を撮影していたなどの薀蓄を簡単に語った。
「カナンは恋愛映画が好きそうだと思ったからこれをチョイスしてみたけど、どうする?」
ジャケットのあらすじを読みながらキリヒトの説明を聞いていたカナンが顔を上げた。
「これがいいわ。見たい」
どこか少し哀しげな、でも少し頬を赤らめて、カナンはキリヒトのセレクトを受け容れた。
それから数時間後。
「か、カナン、その……だいじょう、ぶ?」
カウンター席の奥にあるモニターで一緒に鑑賞していたキリヒトは、カナンの想定外な反応におろおろしながら、ティッシュを箱ごと彼女の前に置いた。
「だ、じょ、ぶじゃ、ないわよ! 何これ切な過ぎ……うぇぇぇ……ッ」
吐いたのかと慄くほどの号泣。声というより音に近い。
「や、あの、ごめん。そこまで感情移入するとは思わなくて。古典だし」
「だっで……っ、ジャッグが……ローレルは、ジャッグじゃなぐでも、生ぎで、いで、欲じがった、だろう、に……ばがァァァッ!!」
(ジャッグじゃない、ジャックだ――というツッコミはしないほうがよさそうだな)
キリヒトは初めて見る女の子の号泣にどう対処していいのか分からないまま、彼女の隣に座る度胸もなく、モニターを睨みながら鼻をかんでいるグシャグシャの横顔を遠巻きに見守ることしかできなかった。
「ローレルも、なんで、最後の最後で、ジャッグの願いを、聞いで、夫だなんて、裁判で、証言なんかじぢゃうのよォォォ!!」
カナンのその叫びが、キリヒトの胸に裂かれるような痛みを覚えさせた。
ジャック・サマースビー、という作品の内容は、悲恋もののサスペンスだ。
冷酷で暴力的だった夫・ジャックが戦地から妻であるローレルの元へ帰って来たが、なぜか彼はローレルに深い愛情を注ぐ温厚で誠実な人柄に変わっていた。実はジャックと瓜二つの別人ではないかと疑いが膨らんでゆく中、戦地へ赴く前に犯した罪を裁く裁判で、彼はあくまでも自分はローレルの夫、ジャックであると主張する。妻のローレルはそれを裁判で否定し続けたが、ラストで「過去の自分には戻りたくない」という彼の心情を覚り、自分の夫であると証言する。そしてジャックは処刑の有罪判決を受ける。
カナンはジャックの中にセカンドを見たのではないかと思った。大切な人を守るために死を選んだセカンド。その“大切な人”が誰なのか、彼女は恐らく誤解している。カナン自身ではなく、キリヒトだと思い込んでいる。
「……きっとジャックは、ローレルのことが本当に好きだったんだよ。ローレルの他人でしかない何者かであるよりも、ローレルの中で永遠の夫でいることを望んだから……だからジャックを貫いたのだと思うよ」
セカンドがカナンの中で“人”でありたかったように。カナンが悲しまなくても済むよう、キリヒトへ事後を託すかのように逝ったのは、彼もまたカナンを好きだったからだ。そんな想いをこめて、カナンを諭す。その声が意図せず消沈した。
「だからカナン、これはメリー・バット・エンドなんだ。彼は幸せに逝けたんだと思うよ」
カナンはキリヒトの慰めに何も答えなかった。長い時間号泣し、次第にそれが嗚咽に代わり、そして泣き疲れてモニターの前に突っ伏したかと思うと眠ってしまった。
それから小一時間ほどで目覚めたあと、二人は『ジャック・サマースビー』の話題を敢えて避けたままの十数分を過ごした。なんとなく互いに敬遠してしまい、そして互いにそれを何となく自覚していた。それでもカナンは帰り際に「いい趣味を教えてくれてありがとう」と笑顔を見せて帰っていった。
それ以降、カナンは店へ来るたびに古典映画を貪るように鑑賞し続けた。一週間ほども過ぎたころにはいつものカナンに戻ってキリヒトをほっとさせた。
彼女は何を感じ、何を思ったのだろうか。カナンは店で過ごす間、一度もガクとキリヒトのつくば潜入について詮索したり、「自分も行く」といったようなことを口にしなかった。
カナンがつくば潜入について何も言わないでいることに気が付いたのは、つくば潜入の三日ほど前のことだった。
「これ、お守りというんですって。まだ核を使って戦争をしていた時代、日本では戦いに行く人へ持たせる習わしがあったそうよ。無事に帰って来ますように、という“おまじない”の意味があるらしいの」
それは家族だったり恋人だったり、戦地へ向かう兵士と近しい間柄の人が贈るものらしい。そんな大切な物を自分にくれる、と彼女は言う。自分はセカンドじゃないのに、という後ろめたさがキリヒトに遠慮をさせた。
「俺はそれを贈られる立場じゃないよ。そもそも別に、戦いだとか、そういう物騒なことをしに行くわけじゃないんだし。偵察に行くだけだよ」
半分本音で半分嘘の言葉を返して受け取るのをためらっていると、カナンはキリヒトの手を取り、そのお守りを握らせた。
「立場だとか何面倒くさいことを言っているの。何があるか分からないんだから、持って行きなさい」
すっかり冷えた手にビクリとする。華奢な指がかすかに震えていた。驚いて握られた手元から顔を上げてみれば、そこには彼女の満面の笑み。
「私が勝手な行動を取るんじゃないか、なんて、キリちゃんの気が逸れて失敗したら、私の寝覚めが悪いもの。大人しく報告を待っているから、必ず無事で帰って来てね?」
その日初めて、憂いのないカナンの笑顔を見た。きっと思い煩っていることはたくさんあるのだろう。それでも自分を案じて気遣った末の笑みだと思うと、キリヒトの中に初めて何かしらの激情が溢れ返った。
(身に余るって、こういう気持ち、かな)
ずっと、セカンドしかいなかった。セカンドを失ってからは、ずっと独りきりだった。
きっとカナンにとって自分の立ち位置は、セカンドから見た自分のように、弟みたいなものなのだろう。それでもいいと思った。自分の身を案じてくれる存在がいる、それだけで充分だと素直に感謝の気持ちが湧いた。
「……ありがと」
彼女の笑顔に釣られたのか、キリヒトは久し振りに巧く笑えた気がした。
そして迎えた、今日という日。世間がクリスマス一色に染まった賑わいを見せ、明日がいよいよイブの夜、という賑わいを見せる十二月二十四日の朝一番にS区を出発した。キリヒトはガクの手配したレンタルのキャンピングカーに同乗してつくば学術研究区に向かう中、緊張で落ち着かない気持ちを鎮めようと車窓から外を眺めていた。
「あ……雪」
「おう、舞って来たなあ」
生まれて初めて雪を見た。花びらのように慎ましやかに舞い踊って早朝の朝陽に小さく瞬き、あっという間に消えてゆく。
「ま、なんぼつくばでも、この程度なら積もらんやろう」
ガクが残念な気象予報を口にする。
「そっか。でも、TOKYOシティでは見ること自体が無理だもんな。見れただけラッキーか」
死ぬまでに、と言い掛けて口をつぐんだ。
車内に流れる音が、ガクの愛聴している映画のサントラだけになる。隣から口ずさまれる声が、キリヒトに黙していてもいいと暗に伝えていた。彼がふざけたことばかり言う割に間が持てないタイプではないと知ってからは、キリヒトもそういった沈黙に居心地の悪さを感じなくて済むようになっていた。
(サイキック、G、か)
ガクの下手くそな鼻歌に幾分か集中力を削がれながらも、キリヒトはセカンドが今際の際に口にした“セカンドを構成したもう一人のサイキック”ついて考えていた。その件については、この一ヶ月ほどずっと考え続けている。
舞い散る雪があっという間に溶け消えてしまうほど太陽が昇ってしまうと、外を眺めて気を紛らすこともできなくなった。
隣でステアリングを握るガクの恰好を見て、また不安になる。男にしては長く伸ばした黄金色の豪奢な髪をゆるく一つに束ね、今日もやはり染めることもせずに深緑のサイドだけを垂らしている。目立ちやすいだろうに、臙脂色のダウンをまとい、装備もろくにないまま出発した。持って来たものは、なぜか古い映画作品のデータ数本。それだけだ。
「なあ、ガク。本当に変装なしでイケるのか? あんたなんて俺以上に目立つじゃん、見た目そのものが」
この期に及んでも何も言わないので、とうとう堪り兼ねてキリヒトから問い質した。
「だーいじょーぶー。ユイがつくばに軟禁されていると踏んですぐに、古典映画研究部門に協力業者登録したんよ。ここ数ヶ月は通っているし、この通行証も偽造と違うさかいに問題なし」
「そんなの、聞いてなかった」
と突っ込む声が尖る。無防備ではなく、そういう根回しが済んでいるから、ということか?
(でも)
まだ言葉に置き換えられない違和感を拭えない。整理が付くまでは、まだガクに問い質すべきではないと思った。
「あんたには危機意識ってものがないのか。緊張感がなさ過ぎじゃね?」
そんな軽いジャブにとどめたが、
「アホやなあ、自分。ゆるく行こうがガチガチで行こうが、現場に着くまではなんも変わらんやん。無駄な疲労はミスの元やで」
と軽く躱された。動揺する素振りも、こちらを警戒する気配も、今のところは見受けられない。
(考え過ぎ、かな。そうは思えないけど)
サイキック“G”、それは、“ガク”の頭文字ではないか?
勘がキリヒトに警鐘を鳴らし続けている。果ての外に出てから、この手の勘を外したことがない。
(けど、そんなバレやすいコードネームなんて使うのかな。それに、自分でも何をヤバいと感じているのか分からない。偵察だけにはならない、ってことかな)
知らず舌打ちをしてしまい、ガクに「なに?」と問われて慌てて無難な弁解をする。会話は二言三言で終わり、またガクが緊張感ゼロで歌い出す。こちらに勝算があるとガクが考えているからだとしても、どこか違和感を拭えなかった。
(最悪の事態になったときは、とにかくユイさんをを見つけ出して、彼女を連れて逃げればいいか)
あまりにも大雑把過ぎる対応策。自分でそう考えたにも関わらず、不安が五割増しになった。
つくば学術研究区と一般区域を隔てるフェンスの前でワンボックスカーが一時停止した。運転席からガクが監視員に向かって顔を出す。窓が開いた次の瞬間、
「ガク! キリちゃん!」
と、あり得ない声で名を呼ばれた。思わずキリヒトも窓を開け、身を乗り出して声のした後方を見る。
「カナンちゃん!?」
と驚いたガクの声。後ろに付いたタクシーから飛び出して来たのは、無鉄砲なお嬢様――カナンだった。
「なんで、判ったんだよ。今日だなんて言ってないのに」
仮に千里眼でガクの未来を視たとしても、不確定な未来という性質上、今日を特定するのは難しいはずだ。
キリヒトの疑問をよそに、カナンが肩をいからせ大股で歩み寄って来る。なぜか制服姿だった。そのさらに後ろから慌ててタクシーを降りて来た運転手が「お客さん、お代!」と叫んでいた。
「前のお兄さんが払いますから! ちょっと待っててください」
カナンは運転手のほうを振り返ることなく、ガクに支払いを押し付ける意向を述べていた。
「マジか」
ガクは頭を垂れて一言呟くと、渋々車を降りて後方のタクシーに向かっていった。カナンはそんなガクとすれ違う一瞬、彼の言い掛けた小言を無視してワンボックスカーの助手席へ回って来た。キリヒトは咄嗟に乗り出していた身を引っ込め、窓ガラスのクローズバーを引き上げた。
「待ちなさいよ! なに窓を閉めてんのよ!」
と口汚くそしるカナンが、ためらいなく窓に両手を掛ける。そのせいでセーフティが働いてしまい、窓を閉めることも開けることもできなくなった。仕方なくナビシートから降り、喧嘩上等と言わんばかりの近い距離で彼女と対峙する。
「あんたこそ、何やっているんだ」
尖った声でそう吐き捨て、見上げて来る挑発のウルフ・アイズに負けじと彼女を睨み返した。
「桐之院女子の非常勤講師に、ここの大学の研究室で助手をしている先生がいるの。先生に個人的な相談があるので尋ねさせて欲しいとお願いして、ゲスト用の入場許可証をいただいたわ。そっちの仕事が済んだら付き合ってちょうだい」
それを口実にして、偵察についてくるつもりなのが一目瞭然だ。しかも第三者に足跡を残すミスまで犯している。
「バカなの? 足が付くじゃないか。今すぐ帰るか、その先生への用事をさっさと済ませろ。俺らに接触して来るな」
「偵察に行くだけなんでしょう? それなら危険なんてことないでしょうに。どうしてそんなに邪険にするの? 自分だってガクの緊張感のなさを警戒しているくせに」
「え? なんで」
そう言い掛けたところで、カナンがキリヒトにくれたものと同じお守りを制服のポケットから取り出して目の前に翳した。
「私を怒らせて追い返そうとしても無駄よ。お守りに盗聴器を仕込んであったから、全部知っているもの。ウソツキは嫌い。もう二度と嘘をつかないで」
呆れたのが半分、驚いたのが半分。知らず大きく見開いていた瞳とポカンと開けていた口に渇きを覚え、キリヒトはやっと我に返った。
「……ずっと盗聴していた、って、こと?」
「私なら、二人の会話を聞き取りながら、数秒先を視てキリちゃんに指示を出すことができるわ。姉様の身柄を確保したら私に知らせて。キリちゃんが時間稼ぎをしている間に、私が姉様を研究区外へ連れ出す。ガクよりは役に立つでしょうし、信用もできるでしょ?」
「って、どうやって」
「私はSコードだから、銃刀免許なしでも所持や発砲が可能なの。もちろん射撃の訓練済み、腕に自信もあるわ。護身術の腕前は以前見てのとおり。自分の身は自分で守れます、ということよ」
「なんでそこまでムキになるの? 俺に任せるだけじゃあ信用できない?」
危険から遠ざけたいだけ。それを解ってくれないカナンに、憤りとは少し違う、だが不快な感情が増していく。
「何いまさらなことを訊いているの? キリちゃんを信じていなければ、千里眼のことなんて打ち明けていないわ」
――ずっと言って来たはずよ。キリちゃんは独りじゃない、って。
潤んだ瞳にドキリとする。述べられた言葉に、自分の視界がにわかにゆがむ。
「……」
キリヒトが言葉を失っていると、カナンが小さな声で、だが力強く訴えた。
「非力な自分は、もう、たくさん。もう、誰も、失いたくないの」
(セカンドの頼みごとに、縛られているのか)
もしくは、彼を守れなかった後悔が彼女を突き動かしているのかもしれない。でも、彼女の同行について、今のキリヒトには決定権がない。
キリヒトがそんな逡巡をしているうちに、ガクがワンボックスカーのほうへ戻って来た。
「まったく、このお嬢さんは。Cエリアで待っておくこと。それが連れて行く条件や」
彼はカナンにそう釘を刺しつつも、顎で後部座席をしゃくってカナンも乗るよう促した。