04. 諦めない慈愛の女神――遠隔通信の能力者
カナンと出逢ってから数日後に週末を迎え、、キリヒトは渋面でネットカフェを出た。不機嫌はカナンから届いたメッセージに端を発している。
《姉様にキリちゃんの話をしたら、すぐにでも会いたいと言うの》
《なので、お買いものの前に顔合わせをしましょう》
《十一時にS駅の忠犬像前で待ってます》
そんなメッセージを受信したのが今朝の九時少し前。
(急過ぎだろ……そもそも気が向いたら、って言ったじゃん。なんで俺が行く前提で勝手に話を進めてるんだっつう)
メッセージの内容を読み終えたところで、キリヒトの中に自分でもよく解らない不快感がぽこりと生まれた。
昨夜は結局着て行く服を決められなくて、朝一番で黒以外の何かしらを買ってからカナンに連絡を取ろう、などとのんびり構えていた。だがそのメッセージのおかげでそれどころではなくなり、結局いつものようにファンキーな柄Tシャツの上に黒のパーカーを羽織り、下は黒のダメージジーンズ、という残念なファッションで赴く破目になった。
(うん、そうだ。またカナンから服のセンスがどうこうと説教されるのがメンドクサイからだ)
キリヒトが不快の原因をそれと結論付けたとき、駅前交差点の信号が青に変わった。
(クライアントの都合に振り回されるのなんて、そんなの日常茶飯事だろ。クライアントになるかもしれない女子高生への営業だと思えばいい。割り切れ、俺)
人ごみに流されないよう忠犬像のある広場に向かって進んでいく間、キリヒトはなぜか何度も自分へそう言い聞かせていた。
待ち合わせた西口の忠犬像広場は、信号を渡ってそれほど遠い場所に位置しているわけではない。だが、週末の駅周辺は平日のとき以上に若者でごった返すので、キリヒトはひしめく人の壁をすり抜けながら亜麻色の長い髪を探した。
(あ、いた。……けど、どうしようかな……)
キリヒトの歩みを若干鈍らせたのは、忠犬像から少し離れた石組みの花壇の前にいる二人組の女性が口論しているように見えたからだ。そのうちの一人はカナンだが、顔が明らかに怒っている。彼女は子供のように拗ねた顔で頬を膨らませたかと思うと、相手の女性に何かをまくし立てた。せっかくの大人びたタイトなワインピース姿が台無しだ、と思わず苦笑いが浮かんだ。
口論の相手、カナンの姉と思われる女性を見ると、あらかじめ聞いていなかったら姉妹とは思えないくらい、カナンと正反対の性格を思わせる雰囲気を漂わせていた。
カナンの姉はすみれ色の瞳に困惑の色を宿し、ひどく困った表情でどうにか笑みを浮かべている。カナンに何かを言い返しているようだが、いくらもしゃべらないうちにカナンの反駁を許して閉口していた。姉妹揃って綺麗な亜麻色の髪をしているが、姉のほうはカナンのように髪を下ろさず、メッシーバンでまとめている。目尻の少し下がった細めの瞳も、猫の瞳を彷彿とさせるカナンの大きな瞳とは対照的だ。清楚な色香を感じさせる慎ましやかな大和撫子、といった内面を連想させる女性だった。
(思ったよりも対応に苦心しなくて済みそうな人、かな。それなら予定どおり営業スタンスでいくか)
キリヒトはそんな算段をつけてから、ようやく二人との距離を詰めた。
「やっぱりキリちゃんから返信がないのは、姉様も来るって伝えちゃったからだと思うのよ。だから次の機会まで待って、って言ったのに」
「でも……私だって、ずっと探していたのよ? 次の機会があるかどうかなんて、カナンの話を聞いた限りではわからないじゃない」
「だからっ! こういう勝手なイレギュラーを入れちゃうことが信頼を失くす原因になるの! 途中で別れるから、っていうから、今日のお出掛けの理由を姉様とお買い物ということにしたのに、姉様ったらずるいわ」
「でも、そういう理由にしたからお母様も深く追求しないで出してくれたでしょう?」
「それは……感謝しているけれど、でも、それとこれとは別! キリちゃんはすごく警戒心が強くなっていると言ったでしょ? 私たちが視て来た三年前のキリちゃんとは違うの! 無駄に疲れさせるのは気の毒でしょ」
「私……疲れる?」
カナンの辛辣な言葉を受け、彼女の姉が眉間に深い縦皺を浮かべた。かと思うと、途端に淡い紫色の瞳が潤み出す。
(あ……泣きそう)
思わずキリヒトの面に苦笑いが浮かんだ。カナンから話は聞いていたものの、カナンの姉は長い間軟禁生活を強いられてきたせいか、リアクションが素直な子供を連想させる。カナンも姉に対して似たような受け止め方をしているのだろう。上がっていた眉尻が途端に下がり、困り顔で「ちょっと、人前なんだから泣かないでよ」と狼狽え出した。
「カナン、お待たせ。連絡するより来ちゃったほうが早いと思って返信さぼった。ごめん。それからお姉さん、初めまして」
潮時かと思って声を掛けると、二人が同時にぴたりと言い合いを止めてキリヒトをじっと凝視した。
「キリちゃん……よかった。来てくれたんだ」
ほっとした口振りで笑んだカナンの表情に少なからず驚かされる。強気な事後報告メッセと裏腹に、意外にも半信半疑だったのか、という意味合いでドキリとした。それ以外の意味はない……多分。
「まあ……信用第一の商売をしているんで、一応」
キリヒトが軽い動揺を抑えて無難な回答を返すと、カナンの姉が慌てて指で目許を拭い、キリヒトに応答した。
「恥ずかしいところを見られていたのね。ごめんなさい。カナンの姉の大久保ユイです。カナンから視せてもらったことがあるだけなのだけど、男の子は三年でこんなにも雰囲気が変わるのね」
困り顔で微笑むのが癖らしいカナンの姉――ユイは、自己紹介とともにそんな感想を口にした。
「カナンからセカンドとの繋がりはおおよそだけ聞きました。生前にはセカンドがお世話になりました」
「お世話になったのは私たちのほうよ。きっとあなたが知らないだろうと思うセカンドくんのことを、ずっと伝えたいと思っていたの。少しだけお時間をもらえるかしら」
「……ファミレスでランチ、って感じで構いませんか」
含みのあるユイの物言いは、キリヒトの関心を引くのに充分な言い方だった。
人に会話を聞かれる心配をせずにそこそこ長い時間いられる場所、と言えば、キリヒトの知る限りでは駅から少し歩いた先にある、BGMが大きい若者向けのファミレスくらいしか知らない。二人をそこへ案内し、店員にパーテーションで仕切られた半個室タイプのブースの席を頼んだ。繁忙タイムの昼より少し前だったので、すぐにブースへ案内された。ファミレスは初めてだともの珍しそうに見回す彼女たちに苦笑した。なので、しばらくはバイキング形式のランチを楽しんでもらった。
食事中の会話の中で、ユイのデータをそれとなく集めた。
カナンより六つ年上の二十四歳、という言い方をした。その言葉でカナンが自分と同い年だという確証も得た。通信課程からオフラインへの編入、という形で今は陽光院大学教育学部に在籍しているそうだ。
そんな話の流れから、ユイがセカンドの話題に触れた。
「私が幼稚園教諭を目標にできたのは、セカンドくんのおかげなの」
ユイはそんな切り出し方で、セカンドから能力のコントロール方法を教えてもらったことや、キリヒトに大久保姉妹の存在を知らせなかった理由についての見解を語った。
「あなたたちの教育係だった、白金トウコ先生、だったかしら。彼女が核戦争で世界が滅んだという嘘の歴史をあなたたちに教えた理由までは解らなかったから、施設のマザー・コンピューターをハッキングしてみると言っていたわ。キリちゃんがトウコさんを慕っていたこともセカンドくんから聞いていたから、今思えばセカンドくんは、迂闊にあなたへ真実を伝えることであなたの身に危険が及ぶことを心配して私たちのことやトウコさんへの疑いの気持ちも隠していたんじゃないかと思うの」
「それって、何年前の話ですか」
「私が高校の通学もダメと言われて落ち込んでいたころだから……あなたたちが十二歳のときね」
「セカンドがハッキング遊びをしようと言い出して、遊び半分に箱舟のメイン・コンピューターをハックしていたころだ」
「箱舟……TAMA研究区をそう呼んでいたわね、確か」
「はい」
ユイの語る当事者しか知り得ない情報や、彼女の隣で苦しげな表情を浮かべて黙々とパスタを口に運んでいるカナンを見る限り、こちらを騙そうとして芝居を打っているようには見えなかった。
「あなたたちは赤ん坊のころにトウコさんに拾われてあの施設で育てられた、と説明を受けていたそうね」
「どこまでが本当か、今となっては解りませんけど」
「そうね。赤ん坊のうちから“アレ”の兆候が見えたら、捨てる親もいるそうだから」
ユイがそう言ったとき、わずかに顔を伏せて唇を噛んだ。その表情はカナンと初めて逢ったとき、「自分たちはまだ恵まれている」と言って申し訳なさそうに謝罪を口にしたときの表情とよく似ていた。
「そんな顔をしなくても、俺はあなたやカナンを妬んだり羨んだりはしないから、大丈夫ですよ。巡り合わせの善し悪しなんて本人にどうにかできるものじゃないと解ってますし」
と慰めにもならないフォローを入れると、ユイは困り顔の笑みを浮かべて
「私のほうが年上なのに、気を遣わせてごめんなさい」
と気丈さを取り戻した。
「私ね、あなたたちと出会えたことで、自分のすべきことを見つけたの。三年前、事実を知ったあなたたちは、それに甘んじるのではなく、自由を得ようと行動を起こしたわ。私は嘆いてばかりで、何も努力をしていなかった。命懸けであなたを守ろうと必死だったセカンドくんを見ていて、私も動かなくちゃ、と思ったの」
ユイ曰く、その具体的な目標が“サイキックの子供たちを保護する施設を作ること”らしい。
「サイキックもそれである前に、同じ人間だと皆に理解してもらうべきだと思うの。ちゃんとコントロールできれば共存もできるし、脅威ではないのだと理解してもらえれば、セカンドくんのような哀しい命が生み出されることもなくなると思う。市民権を得ることができたら、今のキリちゃんみたいにリークを恐れて隠れ暮らす必要もなくなるわ。セカンドくんが望んでいた、人として生きる道がないのなら、自分たちで切り拓けばいいと考えたの」
同じ、とはおこがましくて言えないけれど、能力を持つがゆえに辛い想いをしている人が、今この瞬間にもたった独りで怯えながら暮らしていると思うと、何かしないではいられない、とユイは言う。
「キリちゃんはリークの可能性を考えて多くの人と関わろうとして来なかったのだと思うし、私たちには想像もつかないような想いをして今日まで来たのだろうな、とも思ってはいるのよ。例え同類だとしても、自分たちの能力さえバレなければリークは可能だもの。だけど、少なくても私とカナンは、決してあなたを国に売ったりはしない。みんなが疑心暗鬼では動けないままだし、現状を変えることもできないわ。だから、キリちゃんにも一緒に仲間を探して欲しいの。今日どうしても会いたかったのは、セカンドくんの願っていたことをあなたに伝えたかったのと、次に会う機会を得たかったからなの」
穏やかでゆったりとした口調にそぐわない内容と、たおやかなその風貌からは想像もつかなかった熱意を彼女から感じた。感じて、そして――嗤えた。
(軟禁生活で世間知らずもいいところだな)
世の中は、そんなに生ぬるくできてない。年ばかり重ねて世間を知らないユイの理想論に酩酊して高いリスクを背負うのは勘弁、と思った。
「ユイさんの意向は承りました。セカンドの死が少しでも意味のあるものだったとすれば、それは俺にとっても慰めになります。気が向いたらまた連絡を入れますね。今日はお時間を作ってくれてありがとうございました」
キリヒトの内心の嘲笑は、上っ面な笑顔と遠回しなその話題の終了宣言に集約された。
思考を伝播させるという彼女の能力は、本来人が持ち合わせている“空気を読む”という能力を鈍らせるのだろうか。人のネガティブな感情を感知しなさそうな彼女は、安堵の笑みを浮かべて
「私のほうこそ、飛び入り参加だったのに話を聞いてくれてありがとう。仲間探しの件はさておき、ときどきはまたこうしてみんなでランチやディナーの時間を取りましょう。今日はこのあと約束があるから、お先に失礼するわね」
と伝票を手にして席を立った。
「あ、支払いは俺が」
「強引に割り込んだお詫び。未成年さんにご馳走されるのはなんだか申し訳ないわ」
ユイはそう言ってにこりと微笑むと、キリヒトが止める間もなくブースから立ち去った。
パーテーションの向こうに消えたユイの背中を見送ってから、真正面のカナンに視線を戻した。
「なに拗ねてんの?」
敢えて尋ねるキリヒトの言葉に意図せずかすかな笑いが混じる。
ユイの飛び入りがカナンにとっても不本意だったということは、これまでほとんど無言で食事に徹していたことと、今のあからさまなしかめっ面で判った。なので、彼女のことは多少なら信用しても大丈夫だろうと判断した。
「姉様、あれで意外と言い出したら聞かない人なのよね。だからしゃべりたいだけしゃべらせたけど、私が姉様と同じ考えだなんて勝手に早合点しないでね。そもそも一緒に来る予定じゃなかったのに」
不機嫌な声音と裏腹に、キリヒトを見る目に怯えが混じっている。彼女の自分に拘る理由がセカンドにあるのは解っているが、聞いた限りではセカンドと直接の面識はなさそうなのに、どうしてそこまで拘りを保ち続けられるのかが不思議だった。
「俺の意向を汲もうとしてくれていたのは、カナンの態度で充分解る。悪い人じゃないけれど危なっかしい人だな。心配が尽きないだろう」
「もう、ホントそれ。どんな人でもまっさらな心で生まれて来るのだから、いい人か悪い人かなんて分類はできない、というのが姉様の持論なの。実際、ああいう能力を持っているからか、外に出られるようになってから三年そこそこなんだけど、取り敢えずトラブルに巻き込まれることはないのよね。でも、それが明日も続くなんて保障はないでしょう? もうちょっと人の悪意にも意識を向けて欲しいわ」
「遠隔通信、だっけ。思考の伝達能力って言っていたよな」
「ええ。意思伝達も能力の一つなのだけど、例えば特に警戒もせずつらつらと思い巡らせることとかあるでしょう? 姉様は自分がそれをキャッチしようと意識することで、そういった思考も拾えるみたい」
「ってことは、あの人の前だと迂闊な考えごともできない、ってことか」
「うーん、微妙。私の千里眼もそうだけど、知ることで傷つくことや苦しむことって思っていた以上に多いのよね。だから、逆に視ないようにしようとか、姉様なら拾わないようにしなくちゃ、とか、そういう意識のほうが強く働いちゃう」
ユイは必要最低限しか覗き見のような能力の使い方をしないらしい。それはカナンも同じで、セカンドと交流があったころも、彼本人の許しを得た時間軸しか覗いたことがないと言う。
「だから、セカンドくんとキリちゃんが喧嘩をした姿を見たのは、三年前の、あのとき、一度きり」
セカンドくんの目を通して視てきたキリちゃんはいつでも笑っていた、とカナンは寂しげに笑った。だから、セカンドにとって大切な存在はキリヒト一人だけなのだろうと思っている、とも。
「きっとキリちゃんも同じなのだろうな、って、姉様とはよく話していたの。キリちゃんにとってセカンドくんは、私にとっての姉様みたいな存在なのだろうな、って。そんな大切な人がいきなりいなくなって独りぼっちになったら、私だったら、どうしたらいいのか解らなくて自暴自棄になりそう」
「それがお節介の理由?」
「もう、またそういう憎まれ口を言う。でも私、解っちゃったんだから」
「何が」
「キリちゃん、姉様には思いっきり営業スタンスで接していたでしょう。この間は素のキリちゃんでいてくれたんだな、とか、今もリアクションがすっごい憎たらしいから、信用はしてくれているんだな、って。だから、そんな憎まれ口を言われても嬉しいだけだから。信じてくれてありがとう」
「!」
危うく手にしていたコーヒーのカップを落としそうになった。
(女子怖い! てか、落ち着け俺!)
落下を防ごうと咄嗟に両手で掴んだカップが、ひどく熱い。指先と掌が火傷しそうなほど熱かったが、どうにかポーカーフェイスを保ってさりげなくカップから手を離した。冷やしたい掌の熱を堪え、まずはこの話題から逃げなくては。
「あ、えっと、俺、コーヒーもらってくる。カナンも食い終わってるなら、デザートのバイキングも向こうのブースにあるから何か取ってこようか? 食べ放題だよ」
「わ、デザートも? 一緒に行く! 全種類制覇する!」
「色気より食い気かよ」
「余計なお世話よ」
女の子の関心を逸らすなら、甘いものに限る。
キリヒトは女子高生のクライアントとのやり取りで学んだそれを今日また改めて再確認した。
それ以来、カナンの学校帰りにときどき会う機会はあった。あくまでも、友人の紹介やカナン本人からの依頼があれば、という営業として。
だが、ユイと三人で会うことはなかった。丁度そのタイミングでユイが幼稚園での教育実習に入り、毎日クタクタで体力に余力がない、とカナンは言っていた。だがキリヒトは、おそらくカナンが機転を利かせてくれたのだと思っている。
(ま、同世代のほうが気楽だし)
キリヒトはカナンの厚意に甘え、独りで過ごしていたころに嵌った古典映画の話をしたり、その流れから一緒に動画ディスクのレンタルショップへ作品の物色に行ったり、という“なんでもない時間”を共有した。
そんな暮らしに慣れたころ、とうとうカナンに服を買ってもらってしまった。カナン曰く「並んで歩いているこっちが恥ずかしいから」らしい。自分の都合で買っているのだからキャッシュは要らないと終いには露骨に不機嫌な顔をして睨まれた。
「それでも、セカンドくんへの恩返しには遠く及ばないわね」
キリヒトの選択肢にないヴィヴィットなグリーンのシャツを広げて吟味する横顔は、とても悲しそうに見えた。
(セカンドは、カナンをここまで思い詰めさせるような、どんなやり取りをしていたんだろう)
小骨のように胸の奥で引っ掛かるその疑問に答えてくれるセカンドは、もういない。
「セカンドも大概兄貴面をするのが好きなお節介だったから、好きでやっていたことだと思うよ。そこまで気負わなくてもいいんじゃない?」
当時のことを何も知らないキリヒトは、そんな慰めの言葉しか思いつけなかった。
このときのキリヒトは、それから数ヶ月後にカナンが重要案件の依頼人になるとは思ってもみなかった。