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サブリミナル  作者: 藤夜 要
Short Story
16/16

【小噺】能力の継承についての疑問と検証、その結果

 とある初春の昼下がり。

 この冬、年が明ける直前にガクからユイ宛に連絡があった。所在を明らかにはしないものの、取り敢えずガクの無事が確認できたことで一旦は穏やかに日々を過ごしていたキリヒトだったが。

(なんで肝心の俺には未だに連絡の一つも寄越さねえんだよ、あのクソ親父!!)

 本人が聞けば「まだこんなデカいガキがいたらオカシイ年やし! おっさんちゃうし!」と激高しそうな悪態をつきながら、思う。

(で、結局俺が扱える能力って、なんなんだ?)

 キリヒトのオリジナルは境界干渉(サブリミナル)だ。これはトウコの執拗さから見て鉄板。

 一方の跳躍者(リーパー)はどうやらガクがオリジナルらしい。

 そして風神(カザカミ)については、ガクの言い分を信じるならばキリヒトがオリジナルのようだ。あの土壇場でもガクが使わなかったところを見ると、信用してもいい気がする。


 ――で。


「あれ、いいよなぁ……」

 あれ――能力模倣(イミテイション)

 サイキックの能力を一時的に使用できる能力。対象からラーニングさえできれば、どんな能力も駆使できる。

 カナンとサイキック探しをし始めてから、色々と考える。

 例えば。

 ガクがユイと出逢う前にパトロンにしていたサイキック、赤羽律子の能力は爆発系だった。研究所を吹っ飛ばすだけの火力を持つあの能力をラーニングできたなら、ガクの能力模倣(イミテイション)を同志みんなで共有し、同日同時刻に全世界の武器庫を一斉爆破、とか。

「ま、さすがに夢見過ぎだけど」

 武器があるから人は恐れる。恐れるから武器を作り、装備する。まるっきりの悪循環だ。争いが絶えることはない。

 だからと言って武器庫を一斉崩壊させたとしても、極端に言えば包丁一本だって使い手と使い方次第で、もうそれは調理道具ではなく武器と化す。

 要は、人の心次第、在り様次第、なのだ。

 ならば、カナンやキリヒトのような心理系の能力を使っての平和貢献の道は、どうだ?

「例えば、和平を結ぶシナリオとか、戦意を持つ気がなくなるシナリオとか」

 かつて旧日本国は、戦力を持たないと明言する日本国憲法第九条という法律があったらしい。それのお蔭でシリア区域の激戦区でも、日本人ならば敵意はないだろうと襲われる機会が他国の移住者に比べて少なかったと言う。

“武力を放棄した、戦わない意思による抵抗”

 以前観た『ガンジー』という古典映画に漂うテーマと、旧日本国のそれが重なった。

 小さな子供のうちから境界干渉(サブリミナル)で平和であることの幸福と、戦火の恐ろしさをシナリオから疑似体験させるのは、どうか。

「無理だなぁ……俺自身が戦争なんて経験してないし」

 きっと実感を湧かせるシナリオを構築することなど不可能だろう。

「もっと小さな一歩から、で、いいのかな……」

 なんとなく、気が急いてしまう。

 カナンに何かと後れを取っている自分が悔しかった。


 夕方、店番に来たカナンにそんな話をしたら、予想外の反応をされた。

「目標を大きく持つことやはっきりさせようとする意識も大切だけど、まずは仲間を探さなくちゃ。でないと何も始まらないわ」

「う」

 脳天にロンギヌスの槍。真垂直に突き刺さる。

「なかなか姉様の遠隔通信(コーリング)に応えてくれる人がいないのよ。これまでの社会からの扱いを考えれば、警戒するのは当然だとは思うんだけどね」

 もう少しだけ待って、と言われて返す言葉を失った。話の流れがカナンたちを責める無力な自分、という構図になっていたからだ。

 確かに、まずは実在するサイキックを探すことが先決だ。だが、どう説得したら納得して秘密を打ち明けてくれるのか。仲間だと信じてもらうにはどうすればいいのか。

 そんな話題に触れたことがないので、キリヒトなりに具体案を提示できれば、少しは自分でも役に立つかと思ったのに。

「どうせ考えが甘いよ。役立たずですみませんね」

 DVDをクリーナーに掛ける手付きが自然と荒くなる。

「ちょっと、何いきなり拗ねているのよ。商品なんだから、もっと丁寧に扱いなさい」

「命令すんなっつうの。店主代理はコッチだし」

「……ガキ。何ムキになってるのよ。誰も役立たずなんて言ってないじゃない」

「ガキって言うなし、同い年だろ。ホント、ガッコでどういうヤツと付き合ってんの? ますます言葉が悪くなったよな」

「ちょ、なんの話をしてるのよ! そういうお説教臭いキリちゃんは嫌い!」

(嫌い……。嫌われた)

 ロンギヌスの上に隕石が落ちた。ケースに入れようとしたDVDがキリヒトの手からこぼれ落ちる。


 カコ……ン。


 相変わらず閑古鳥な店内に、DVDの落ちる音が虚しく響いた。




 確かに。

 我ながら、これは拗ねていると表現されても反駁しようのない大人げなさだと思う。

『嫌い』

 この一言に大ダメージを受けたキリヒトは、そのまま無言で落としたDVDを拾い、それを何事もなかったかのようにケースへ収め、そして二階の居室に引きこもってしまった。

『ちょっと! 待ちなさいよ! お店はどうするの? 店主代行なんでしょう!?』

 人の揚げ足を取るかのような糾弾をわざと無視して思い切り扉を閉めてやった。

 カナンが店をほったからしにできる性格ではないと解っているのに、部屋へ引きこもったキリヒトに何の反応も示さないことにもむかっ腹が立っていた。

 落ち着いた今、思う。いろんな意味で、これは酷いと思う。対等どころか完全に駄々っ子幼児状態だ。

「……はぁ~……」

 激しい自己嫌悪。去年までのキリヒトにはあり得ない言動としか言いようがない。

 どこで掛け違えたのか、どこで間違ったのか。

「調子狂う……」

 ガクに対するのとは別の意味で、キリヒトの中にあったアイデンティティを崩されまくっていた。


 もうすぐ閉店時間。くるくると腹の虫が鳴く。どんなに悩んでいても、どれだけ落ち込もうと、体内時計は無情なほどに人の生命維持活動を続けろと訴えるものらしい。

「食いっぱぐれたかなぁ……」

 今日はカナンが夕飯を作ってくれると言っていたので、コンビニ弁当を調達していない。今現在腹に入れられそうなものは、ポテチにビーフジャーキー、それから冷蔵庫にペットボトルのコーラくらい。

 絶対に、足りない。面倒くさくて昼飯を抜いた。朝には弱いので、安定のコーヒー一杯である。

「腹減った……」

 惨めだ。色んな意味で。

 ブランケットを引き摺って、居間からベッドへ移動する。枕を抱きかかえてうずくまる。子供のころなら迷うことなくセカンドに抱きついて文句を垂れながら、という形だったけど。

「カナンの鈍ちん……ばーか……」

 小さな男の子が素直になれないで憎まれ口を叩いているかのような、稚拙な文句が一つ。慰めてくれる存在がいないから、枕を抱いて背を丸める。癒してくれるぬくもりがないから、ブランケットで身を包む。

 じれったいやら凹むやら、ごちゃ混ぜの想い。それらがキリヒトのまなじりからこぼれ落ちる。それを拭うこともせずに、キリヒトはいつしか真っ暗な部屋でまどろんでいた。




 何かが香ばしく焼ける匂いがする。やたら賑やかな金属音。

 キリヒトがそれに気付いた次の瞬間、まばゆさで開けようとした瞼が持ち主に抵抗した。

「ん……ん?」

「あ、キリちゃん、目が覚めた?」

(!?)

 脊髄反射で飛び起きる。だがまだ目は開けられない。

「すごい顔。おーい、目が開いてないぞー」

 という声は、割と近くから聞こえている。眩しさを堪えてうっすらと瞼を半分だけ開けてみれば、目の前にはパステルピンクの生地にクリーム色の、ひよこ。

 視点をズームからルーズにしてみれば、隣のリビングへつながる扉が全開にされている。そこから漏れ入る照明が光源だったらしい。それを背景に木しゃもじと大きめのプレートをそれぞれの手に携えて間近でキリヒトを覗き込んでいるのは、寝こける前に自分が拗ねた相手――が、なんでどうして部屋にいる!?

「うわあああああ!!」

 例えでなく、あとずさる。見事にベッドから転げ落ちる。

「何よ、お化けを見たみたいに」

 と不服げに目を細めて自分を見下ろすカナンに視線を合わせず、エプロンの胸元を飾るひよこに向かって思い切り苦情を並べ立てた。

「何してんだよ、店はどうしたんだよなんで部屋に入れてるんだよっつうか今何時!」

「一度に質問し過ぎ。オムライス、できたわよ。食べよっ」

 まるで喧嘩などなかったかのようにいつも通りに、笑う。蕾だったチューリップが、ポン、と花開いたみたいな笑み。

「……はい」

 なぜか敬語で答えて大人しくカナンのあとに着いて行く自分がいた。なんか、どこか、自分らしくない、オカシイ……。


 コールスローは好きだ。だが、飾り付けられた三日月トマトが気に入らない。だが文句を言おうものなら倍返しなので、涙を堪えて丸呑みする。デカすぎて咳き込んだ。

 店じまいの作業は全部カナンが済ませてくれたらしい。レジ閉めのあとの会計も終わらせ、毎度のバックパックに食材を詰め込んで勝手にキッチンを使っていたそうだ。

「いや、それは見りゃ解るから。どうやって入って来たんだっつうの」

 鍵を掛けてあったはずなのに、と言いたいわけなのだが。

「え? 合鍵を持ってるもん。っていうか、キリちゃんの持っているそれがスペアキーよ。私の持っているのがマスターキー」

「待って、ちょっと待ってそれなんかオカシイ」

「どうして? ガクがキリちゃんより私に信頼を置くのは、姉様の妹っていう面でも自己管理能力の面という意味でも理に適っていると思うけど?」

(ガク……帰って来たら絶対ブッ殺す!)

 心に固くそう誓い、キリヒトは親の仇の如くまだ残っている大嫌いなトマトを一気に含んで噛み砕いた。不味い。

「さっきはごめんなさい。せっかくキリちゃんも膠着状態な今をどうにか打開しようと思って考えてくれたのに、話の途中で喧嘩になっちゃった」

 カナンはそう言って、キリヒトの反応を窺うかのようにオムライスを口に運んだ。

「いや……こっちも、なんかよくわかんないけど、キレて、ごめん」

 なぜか落ち着かなくて、巧い言葉も思い付けなくて、話が続かないからオムライスを頬張る。……めっちゃくちゃ、美味い。

「キリちゃんの提案はとてもステキなことだと思うけれど、でも、能力模倣(イミテイション)って、粘膜接触でしょう? 結局誰かが傷つかないといけない能力でしょ? 誰よりも一番傷つくのはガクだと思うし」

 そんな考え方が、ユイと似ているな、と思う。あんなに口喧嘩ばかりしていたのに、そんな相手の事も思いやってしまうのか。そう思うと、少しだけ複雑な心境になる。

 口に運んだオムライスの美味が少しだけ損なわれてしまった気がした。

「ガクは傷つくってタマじゃない気がするけどな」

「どうして? だって、いちいちわざわざ怪我を作らなくちゃいけないのよ? 浅い傷では粘膜を接触させるまではいかないのだし、ラーニングされる側が一度だけだとしても、ガクは何度も傷つかなきゃならない」

「え、ちょ、あれ? ちょっと待って?」

 “傷つく”の解釈が、ちょっと違う……。

「なに?」

「や、さっき俺が話していたのは、ガクにさせるって話じゃなくて、もし俺がガクの能力模倣(イミテイション)を受け取れていたなら、そういう手もあるかな、っていう意味だったんだけど」

「え? 受け取れていたの?」

「いや、まだ確認できてないけど」

「あ……そっか。あれから、あんな大きな怪我をする機会なんてなかったし」

「まあ、そんな機会欲しくないけど」

「うん」

 途端に漂う居心地の悪い沈黙。黙々とオムライスを食べ続ける二人。すごく、気まずい。どうしてかと言えば。

(もう一個の方、思い出したんだろうな……っつうか、忘れてたのかっつうね)

 ガクがユイとだけコンタクトを取るのは、媒体が遠隔通信(コーリング)だから。物理的な通信媒体だと足が付く。警戒心の強いガクらしい手段だとは思うけれど。

「ユイさん、ガクとは直接会ったりはしているの?」

 関連していそうで別の方へ流せそうな話題を彼女に投げてみると、彼女は一瞬だけほっとしたような表情を浮かべたあと、わざとらしいほどのふくれっ面をして

「ううん。私も気になっていたから聞いたことがあるのだけど。姉様ったら、“まだストックがありそうだから、私たちに余計なリスクを背負わせないためだろう”って、自分へ言い聞かせるみたいに言ってたわ」

 と文句混じりの答えを返した。

「そか。アイツ、何やってんだろうな」

「姉様みたいな人こそ、怒らせたら実は一番怖いタイプなんだってのを解っているとは思うけど。今のところ手癖の悪さは見せてないわね」

「視たのか」

「当然。あの雑食エロ中年が裏切ったら速攻追い詰めてやるつもりだし。キリちゃん、ちゃんと能力の鍛錬も積んでいる?」

「実行部隊は俺かよ。シリアスな制裁方法は絶対勘弁だぞ」

「解ってるわよ。協力してよ。物理系のサイキックはキリちゃんだけだもの」

「仲間割れしてどうするんだっつうの」

「はぁ~……姉様、可哀想。見ている方が、なんかツラいわ……」

「仮にガクが浮気したとして、どうするつもりなの?」

「アイツの股間を跳躍者(リーパー)でぶっ潰すに決まってるじゃない」

「ちょ、待って待って待って痛い聞いてる俺が痛いからヤメテそれ」

「使い物にならないようにしてやる」

「っつうかホントちょっと付き合う人間考えろってば。言葉悪くなり過ぎ」

 冗談を言って笑いながら、半端なく凹む。

(ガチで弟かなんかだよな、カナンから見た俺のポジって)

 カナンが笑って過ごせているならそれでいいと思っていたはずなのに。

 平穏というものは、時に人を欲深くさせるもの。キリヒトはそれを数ヶ月で初めて実感した。

 カナンの作る飯はいつでも美味いのだけれど。今夜のオムライスは、始めこそ玉子やケチャップの甘さが極上の逸品だったのに、食べ終わる頃には少しだけ塩辛い味に変わっていた。




 洗い物は手伝うこと。これは居候としてガクと一緒に暮らしていたころと変わらない習慣。

 カナンが食器を洗い、キリヒトがそれをすすいで乾燥機に放り込む。カナンは食洗機を嫌っているらしい。どうしても食器に水垢のあとがついてしまうからだそう。

 そういうこだわりが女の子だな、と新鮮な思いで感心する。味気なかった食器棚の中身も、この一シーズンの間に上品な華やかさが加わった。どれもこれもカナンが見繕って買い足したものだ。始めは白一色で統一された皿が二、三種類と、同じく無愛想なコーヒーカップとソーサーのセットが五客分あるだけだった。あとは、いかにも安物量産商品と判る、分厚いグラスが五客。スプーンはなくて、ガクはどんな場合でもマドラーですべてを賄っていた。

「キリちゃん、このグラスは底のくぼみに水が溜まってしまうから、一度上向きにして洗っている間に水を切ってから伏せて」

 そんな注意を受けながら、キリヒト側のシンクへ置かれたグラスを水ですすぐ。

「あ、うん」

「このプレート、お気に入りなんだ~。私が五歳のときのお誕生日プレゼントなの」

 カナンがそう言ってこちら側のシンクへ置いたのは、淡いオレンジ色を基調としたプレートの中央に彼女が着けているエプロンと同じ絵柄の可愛いひよこが描かれている万能プレート。今日のオムライスを美味しく彩っていたオレンジ色は、確かに玉子の黄色を引き立たせて倍美味しく見せていた。

「そんな大事な物をこっちに持って来ちゃっていていいのか?」

「いいの。だって、最近はこっちで夕飯を摂ることの方が多いんですもの」

「ふぅん……でも、毎日ではないよな」

「まあね。バイトじゃない日はゼミの活動とか、人数合わせを頼まれちゃって合コンでご飯を済ませちゃうとかあるけど、週の半分はここでご飯を食べているし、使ってもらってこその食器よね」

「……合コン、行ったこと、あるんだ」

「一次会で帰っちゃうけどね。だいぶお小言が減ったとは言え、さすがにお母様の頭から角が出ちゃうだろうし、十時までには帰ってるわよ」

 早いか遅いかっていう問題じゃないんだけど。

 ――と言える立場ではないので、「あ、そ」としか言えなかった。

「痛っ」

「うゎ!?」

 カナンから急に大きな声を出されて、キリヒトまで声が出た。

「ビックリした。どした?」

「ショック……欠けてたみたい。指切っちゃった」

 そう言ったカナンが泡だらけの手に持っているのは、さっきのと同じひよこのプレート。それを受け取ってすすいでみると、縁の裏側が欠けていて、欠けた部分が鋭い尖端状になっていた。

「ここに引っ掛けちゃったのか」

 そう言っている間にも、カナンは泡まみれの手をすすいでいる。洗って手を振れば水に薄赤い色が混じっている。

「やん。結構深く切っちゃったのかしら。血が止まらない」

「これで最後だろ? あとはやるから、絆創膏を貼っておいで」

「うん。ごめんね」

 そう言ってキッチンから退いてリビングに戻るカナンを見届けてから、残りの片づけをした。

(お気に入り、なんだよな)

 二枚セットのひよこのお皿。きっと姉妹おそろいで使えるようにという気持ちで贈られたものなのだろう。捨ててしまうのは忍びない気がする。どんなアイテムにも、それにまつわる気持ちがこもっているものだと思うから。

 例えばキリヒトが、あんな場所でもセカンドと過ごした思い出のあるTAMA研究区の森が懐かしいように。それを壊してしまったセカンドを、一瞬でも恨んでしまったのも、もう遠い昔のことだけれども。

 未だに黒を愛用するのも、やっぱりセカンドとの繋がりを感じていたくて。相変わらずカナンには罵倒ばかりされているけれど。

「明日、直しておこう」

 目の細かいやすりで気長に鋭利な部分を削って、透明タイプの万能接着剤を何層にも気長に重ね塗りして凹凸を目立たなくさせれば、あとで着色も施して目立たない傷になるだろう。

 他愛のない子供用のプレートだけれども。そこには、キリヒトの知らない小さなカナンが宿っている気がした。




 片づけを済ませてリビングに戻ると、カナンが悪戦苦闘していた。

「まだ貼れてないのか」

 ロウテーブルに救急箱を置いて俯いているカナンを上から見下ろしてみれば、まだ絆創膏と格闘している。

「違うの。思っていたより傷が深くて、すぐ絆創膏がダメになっちゃうの」

 よく見れば、テーブルの上には血を含んだティッシュが小山になっている。絆創膏の個別包装紙も結構な量だ。

「心臓より下にしたままだと余計に止まらないよ。貸してみ」

 キリヒトにとっては、傷の手当ては手慣れたもの。カナンの隣に腰を落とし、まずは切ってしまった親指の付け根を包帯できつめに縛る。

「痛い?」

「ん、大丈夫」

 それからカナンに手を上げさせて、ティッシュで親指を包む。傷口をキリヒトの親指で強く圧迫する。

「痛かったら言ってな?」

「う、ん。ヘーキ」

 あまり平気そうじゃない。キリヒトの指の平に生ぬるくて湿った感覚が伝播する。

「カナン、割と血が止まりにくい方?」

「そ、うかも。滅多に怪我なんてしないから、よく解らないけど」

「おてんばの癖に、意外」

「一言多いわよ」

「すいません」

「だって、攻撃は最大の防御じゃない? 怪我なんてさせられる前に伸しておくに限るわ」

「それ、こわいから。女の子の発言じゃないから」

「またお説教が始まった。キリちゃんくらいしか、本音を言える人がいないんだから、聞き流してよ」

 またこういう言い方をする。無自覚なのだろうか、それともわざとなのか。

(中途半端に期待させるような言い方すんなっつうの)

 どうせ男として見てなんかいないくせに。

 もしそうなら平気で男の一人住まいの部屋に上り込んでなんか来るはずがない。

 今日もまたそうやって自己解決を図る。そうでもしないと理性がブチ切れそうで、時々カナンを恨めしく思う。

「あ、そうだ。ねえ」

 と声を掛けられて思わず顔を上げる。なんとなく互いに傷ついた親指に注目していたのだが、不意にカナンが顔を上げて、キラキラとした瞳をキリヒトにぶつけて来た。

「な、に」

 なぜか、どもる。まともに透き通った淡いグレーの瞳を直視したら、急にその至近距離を意識した。

「確かめてみましょうか」

「へ?」

能力模倣(イミテイション)をキリちゃんが取り込めているのかどうか」

「え……と?」

「ほら、粘膜接触なのでしょう? これだけ傷が深ければ、真皮まで行ってるかな、って。どうせ面倒くさがりのキリちゃんのことだから、まともに歯磨きもできてないでしょう。きっと虫歯くらいあるわよ。ちょっとくらい痛いのなんて平気だから、試してみましょうよ」

(この……鈍感ツンデレ女子……ッ!)

 キリヒトの中で何かが切れた。多分これが古いことわざ『可愛さ余って憎さ百倍』というヤツだ。

「あ、そう言えば、ガクは風神(カザカミ)をラーニングしようとしていた、ということよね? ということは、初対面でいきなりキリちゃんを痛めつけたってことじゃない」

 知るか。そうだけど。

 心の中で文句を垂れながら、渋々彼女の指から手を離す。

「こんな小さな傷でさえ痛いのに、あのバカ中年、大雑把だし、もっと酷いことされたんじゃないの? 例えば思い切り深く出血量の多くなる箇所を切られた、とか」

 その通りですが、何か? と言いたいところを押し黙る。不器用に包帯をほどくカナンの手元を注視しながら、自分の中の矛盾した二つの自我が喧嘩する様を静観するので精いっぱいになっていた。

「まったく、この程度の傷でもラーニングが可能だって証明できたら、ガクにお説教してやるんだから。どこを傷つけられたの? すぐ直る程度の傷で済んだ?」

“訊かなければいいのに”

 キリヒトの中の善人が焦りを交えてそう零す。

“話の流れ的に自然じゃん?”

 キリヒトの中の悪人が手を叩いて歓喜する。

(どっちに転ぼうか)

 俯瞰で自分を見る自分が、少しの間だけ、悩む。

“カナンはセカンドのものだろ? そうなっても身代わりでしかないし、だけどカナンがそれをよしとする子じゃないことも判ってるんだろ? なら、弟に甘んじておけよ”

 理性はそう諭す。だが、

“そんなチャンス、滅多にないよな”

 我欲がそう囁く。

「キリちゃん? どうしたの?」

 多分、最悪のタイミングで声を掛けられたのだと思う。キリヒトが理性で我欲を抑え込む前に、カナンに声を掛けられた。気が付けばキリヒトは、カナンの傷ではなく、彼女の問いに視線で答えるかのように唇を見つめていた。

 瑞々しくて柔らかそうな、ほとんどメイクされていない唇。無防備なそれは、味わえばかなり甘いのだろうか。それとも、さっき食べたオムライスの味がするのだろうか。そんな興味が湧く。

「……舌」

「した? え、なに?」

 鈍感娘はなぜか俯いてテーブルの下へ視線を移した。まるで何かを探すかのように目をキョロキョロと動かしている。

「やだ、血が落ちてカーペットをよごしちゃったのかと思った。なんにもないじゃない」

 それ、シタ違いだから。

 そうツッコミを入れるよりも、身体の方が勝手に動いていた。

「ガクってば、最低」

 そう答えながらカナンの腕を取って引き寄せる。

「え?」

 そのまま彼女を床に押し倒す。

「キリちゃん?」

「こうやって人の不意を突いてさ」

 ガクのようにうつ伏せにして容赦なく拘束することはしないけれど。

「ちょ、ま、なに」

「カナンが訊いたんじゃん。酷いことされなかったか、って」

 そんな自己正当化をしながら、カナンを押しつぶさない程度に自重を掛けて顔を寄せる。

「キリちゃ」

「で、“取り敢えず試してみるか”って、こうされた」

 痛むほど髪を掴んで床へ押し付ける代わりにカナンの背へ両腕を回し、抗う両腕ごときつく彼女を抱き締める。

「い」

 イヤ、と拒絶される前に、その憎らしい口をふさぐ。

「――ッッッ!!」

 カナンの小さな悲鳴が、キリヒトの口の中でくぐもった。

 しっとりと濡れて柔らかいそれは、キリヒトの脳髄までとろかすような甘い感触だった。重ねるだけでは物足りず、固く閉じた唇に無理矢理舌を捻じ込ませる。彼女が歯をかっちりと噛み締めて抵抗する。ならばと、隙を与えるかのように唇をついばむ。

「ぃゃ」

 と小さな声を出し切られる前に利き手で彼女の顎を掴み、開いたままふさげなくなった唇をもう一度味わう。

 片腕だけで自由を奪えなくなったせいで、彼女の腕がキリヒトの背に回り、思い切り爪を立てた。だが、それすらも心地よい刺激になる。背の痛みに初めて感じる快感を、貪る行為にどす黒い興奮を覚えながら、キリヒトはカナンの奥深くまで侵蝕した。

 強張った舌先がキリヒトのそれに触れる。絡めてみれば、もっと縮こまる――だが。

「……ん……ぁ……」

 息を殺し切れなくなったカナンが、甘ったるい声で吐息を漏らす。途端、強張っていた舌が柔らかくなる。

「……」

 応じ始めた彼女の舌の動きに触発される。部屋に響く水音がより彼女をきつく抱きしめさせる。身体の芯が反応し始めると、カナンの全身から抵抗が抜けて背に立てられていた爪が与える痛みもゆるみ、しがみつくようなそれに変わっていった。

 あ、このままいけるかな、と思った次の瞬間。

「――ッッッ!!」

 声にならない悲鳴を上げたのは、キリヒトの方だった。

 いけるかな、と思った途端、ある意味で気がゆるんだ。もしくはソッチに全神経が集中していた、とも言う。

 だからカナンが力を抜いた理由までは解らなかった。キリヒトの身体を両脚で挟んだのは、受け入れてくれるからだと勝手な勘違いをした。だから、拘束を解いて、身体を浮かせた。ゆえに、激痛に悶絶する今がある。

「サイテー!!」

 素早くキリヒトの下からすり抜けたカナンが立ち上がり、エプロンを外してキリヒトに投げつける。そのかすかな刺激さえ耐えられないほどの激痛が――股間から。

「ガクに変な方向の感化されてんじゃないわよ! このエロニート!」

 ニート……酷い。だが、股間を押さえてうずくまっている自分の姿の方がもっと酷い。

「口で言えば済む話でしょ! 好きでもない人とこんなことするなんて、ホント、サイテー!」

 無情にも玄関先からパンプスを履く音が響く。小さく震えたキリヒトの背から、パステルピンクが落ちる。

(……やべぇ、終わった……)

 ひらりとひよこ絵のエプロンが舞い降りると同時に、玄関の扉がバタンと乱暴に閉められた。




 それから数日の間、カナンから一切の連絡が途絶えた。ユイに様子窺いをする度胸はない。

「……ガクぅ~……」

 もう、あの最低男に最低とは言えない自分だと思うと、あれだけ毛嫌いしていたガクがやけに恋しくなる。

「こゆとき、どうしたらいいんだよ」

 今思いつく限りの誠意の見せ方としては「ゴメンメールの鬼送り」「自分からはコールしない」「その理由もメールではきちんと伝えておく」くらい。

 声を聞くのも嫌だろうし、何よりも、自分のこの見た目だ。

「なんでセカンドとおんなじ見た目かな……」

 コンプレックス、再来。多分カナンにとっては二重の意味でショックを受けたのではなかろうか。

「……死にたい……」

 セカンドには決して聞かせたくない一言だが、本気でそう思った。


 取り敢えず、飯を食う。さすがに一食も食わないとなると、眩暈に襲われる。

 哀しい哉、生理的欲求。どれだけ悩んでいようと、どんなに落ち込んでいようと、腹の虫は忠実に生きろとキリヒトに命じて来る。

 思い返せばあのときも、結局三大欲求に振り回されていただけなのだろうか。

 眠たかったところへ仮眠が摂れて、腹が減っててそれが満たされて。だから、三つ目の欲求も満たせるものとでも勘違いしたのだろうか。

(……ちげーよ)

 ガクとは違う。誰でもいいわけじゃない。

「~~~~~~~っ! なんでわかんないんだ、鈍感ツンデレ女!」

 やり場のない憤りと自己嫌悪で、吼えた。


 ブブブブブッ!


 突然モバイルが着信の振動を告げ、それに負けないくらいに肩が思い切りビクリと上がる。

 恐る恐るモバイルを手に取れば『カナン』の三文字。急いで本文を開いてみると、とても短いメッセージが届いていた。


 ――別に、セカンドくんと重ねて傷つくとか、そういうのはないから。以上。


 また怒らせた。でも返信をくれたということは、赦そうとしてくれているということか?

 急いで返信を送る。


 ――ゴメン。えと、ごめんなさい。もう二度としません。約束します。赦してください。


 即返信が届く。


 ――何それ。二度としないって、他へ被害を与えるってこと?


 バカかコイツ。イラっとしながら返信する。


 ――ちげーよ。ガクと一緒にすんな。


 返って来る。


 ――じゃあ、何よ。


 カチン。頭の中で、何かがキレた。


 ――カナンだからだろうが! 察しろこの鈍感ツンデレバカ女!


 送信……に、少しだけためらう。

「……言っちゃって、いいのかな」

 困らせたらどうしよう。

 泣かせたらどうしよう。

 これ以上気まずくなったら、どうしよう。

 考えるだけで指先が震えて来る。

「これ……セカンドを、裏切ることに、なるのかな……」

 自分の黒さを思い知ると、勝手に身体が震えた。

「うぉ!?」

 震えたときに指が勝手に送信ボタンを押しやがった! と自分の指に文句を言っても、誰もフォローなどしてくれない。

「ど、どうしよう……」

 どうしようもない。キリヒトの中の理性が溜息をつく。

 いつまで死んだヤツに義理立てしてるの? キリヒトの中の本音が嘲笑う。

 きっと、幻滅される。カナンもきっと呆れ返る。まるでセカンドの死に付け入るかのような愚行にしか見えない。


 ブブブブブッ!


「ひ……っ」

 反射で情けない悲鳴が漏れる。恐る恐るモバイルのディスプレイを見れば、やっぱり送信者は『カナン』の三文字で。


 ――バカにバカ呼ばわりされる筋合いはないわよ! エロバカクソニート!


「……だよな……」

 画面が涙でぼやけて、滲む。やっぱりガクがいなくてよかった。絶対見られたら腹を抱えて笑われる。

 これからどうしようかと考える。考えて現実から目を逸らす。

 カナンがこのいさかいを機に研究機関へリークすることはないと思うが、関わりを絶つことはユイとガクの関係からして難しい。

「また……独りか」

 残る選択肢は、それしかない。店の実権はカナンが握っているようなものだし、人手が足りなければユイもいる。人手不足はまずあり得ないけど。

 明日からでもここを出る準備をしよう。諸々の段取りが済んでからユイに連絡をして伝えることだけ伝えたら、また雲隠れしよう。

 そんなことを考えながら、濡れた目許を乱暴に拭う。カナンからのメッセージを削除しようとしたそのとき、隅のスクロールバーの違和感に気付いた。

(なんでスクロールバーが出てるんだ?)

 いや、仕様は判っている。空白か改行でスクロールバーを表示させているのだ。その下にまだ何かメッセージがあるときや、隠しメッセージという悪戯心からの演出などで、よく使う手法だ。

 もっとどぎつい決定打な一言でもあるのだろうかと怯えつつ、それでも好奇心の方が勝って、ゆるゆるとスクロールバーを動かす。


 ――


















 えっちは成人を迎えてから。///


「!!!!!!!!!!!!!!!!!!?」

 主語が抜けてる! 一般論の説教なのか、二人の今後について言っているのか解らない!

 けれど。

「~~~~~~~っしゃあああああああああ!!」

 取り敢えず、赦された。多分、これだけは確定だ。

 いそいそとカナンのコールナンバーを引き出し、呼び出し音を聞くこと三回。

『もしもし?』

「ゴメン!」

『今度バカ呼ばわりしたら、次こそ潰すからね?』

 相変わらずの憎まれ口さえ、安心し過ぎて泣きそうになる。

「……いつも通りのカナンだ……」

 しみじみと言ったら「バカなの?」と返された。それでもいい。

「うん、もうバカでいいや。バカでもアホでもなんでもいいや」

 赦してもらえるなら。

『ちょっと、やりにくいじゃないの。いつも通りに“口が悪い”とでも言ったらどうなの?』

「うん、でも、それでも、好き」

『……バカ』

「へへ……」

 数日振りに聞いたカナンの声は、いつもより甘えた声だった。それがちょっと、いや、かなり嬉しい変化。

「今度の週末にさ、花見行こうよ、花見」

『お花見? うゎぃ、嬉しい! 桜って一番好きな花なの。お弁当の作り甲斐があるわね。あ、そうだ。ゼミのみんなも誘っていい?』

「……なんでそうなる?」

『だってキリちゃん、お店を空けられないでしょう? 場所取りをしてもらいつつ、その代わりみんなで楽しみましょう、みたいな』

「黒いな……利用するとか」

『だって、キリちゃんとお花見するのは初めてだもの。見る場所がなくて残念、なんてのはイヤ』

(……くっそかわ……)

 そんな話に終始して、忘れていた。

 そもそも喧嘩の発端が、“ガクの能力模倣(イミテイション)はキリヒトに継承されているのかどうか”だったことを。

 キリヒトが「まあ、そのうち自然と判る日が来るだろう」と自己嫌悪交じりで結論付けたのは、この通話を切ってから数日後のことだった。

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