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サブリミナル  作者: 藤夜 要
本編
15/16

14. それは始まりの終わりでしかなく

 つくば学園都市Gエリアで発生した謎の爆発事故が世間を賑わせてから、今日でちょうど一年。

 あれだけ大騒ぎになったその事件もほんの数ヶ月で世間から忘れ去られ、今のキリヒトは静かで平穏な毎日を過ごしている。行方をくらましたガクに代わって動画映像レンタルショップのカウンターを守っているのだが、客が来ないので退屈でしかたがない。

「今年もホワイト・クリスマスにはならなそうだな」

 キリヒトは窓に張られたポスターの隙間から覗く鈍色(にびいろ)の空を眺め、一人ぽつりと呟いた。

 去年の今日、わずかながらも雪が舞ったのは、TOKYOシティよりも肌寒いIBARAKIシティの朝だったからかもしれない。

「セカンドはキレイなものが好きだったのに。降らなそうで、残念」

 視線を窓からカウンターの脇に移した途端、急に現実へ引き戻された。

「あ、やべ、忘れてた。ポスター、張り替えておかなきゃ」

 今日はユイが新作の商品を仕入れて来る。前回の訪問時に新作の宣伝ポスターに張り替えておくよう言われていたのに、すっかり忘れていた。ユイは基本的に穏やかだが、ガクに関することとなると割とキツい。そこはさすがカナンの姉、前に一度だけ依頼を優先して一週間ほど勝手に店を休業にしてユイから大目玉を食らったとき、姉妹のベースがよく似ていることを痛感させられた。

「ギリ、セーフ……お説教される前に思い出せてよかった」

 キリヒトはポスターとテープのカッター台を手に取り、だるい足取りで窓のほうへ向かった。


 一年前、セカンドに対する未練は、カナンよりもキリヒトのほうが情けない意味合いで大きかった。彼女が拳銃で打ち砕いたセカンドの欠片を拾い集め、借りたハンカチでそれを包んで彼女に手渡してからメインラボを後にした。

 扉の向こう側では意識を取り戻したユイとガクが待っていた。

『ユイに今後の予定を一通り話しておいた。先にTOKYOへ戻っておいて』

 ガクはその一言だけを残し、トウコとマザー・コンピューターがいるホールへ向かって歩を進めた。まるで顔を隠すかのように俯いたまま、キリヒトの横を無言で通り過ぎていく。

『ガク』

 キリヒトは咄嗟に彼を呼び止めた。彼はこちらを振り返らなかったが、それでも一応立ち止まってくれた。

『あんた一人で、本当に()れるのか?』

 それは疑いからの質問ではなかった。

『あんたは俺やセカンドと違って、モルモットの自覚があったのにトウコ先生の指示を肯定的に受け容れて従っていたよな。あんたは食うに困らない環境と売春宿から買い上げてくれた恩義があったからと言っていたけれど、本当はそれ以上の何かがあったからじゃないのか?』

 自分が母としてトウコを慕い、思春期には淡い恋心を抱いたように。

『あんたなりにトウコ先生を認めている部分もある、ってことだろう? 俺も結局カナンに手伝ってもらった。一人で背負う必要は』

『おまえさんはセカンドが相手やさかい、そんで、加勢するのがセカンドが惚れとったカナンちゃんやったさかいに、カナンちゃんのヘルプを許せたんやろう?』

 ガクの低い声が崩れ掛けた通路に響いた。外の轟音がその瞬間だけキリヒトにだけ聞こえなくなった。

『俺はキリちゃんほど優しィないさかいな、ほかの誰にもトウコに手を掛けさせるつもりはない』

 そう言って振り返ったガクは、笑っていた。

『用件はそれだけか? ほんなら早よ行き。俺一人で()れる。心配すんな』

 そう言って笑んだガクの表情が、キリヒトの目には今にも泣きそうな顔に見えた。

 ラボへの扉がシュンと小さな音を立てて開いた。ガクがそこを通り抜けると、まるでトウコとの最期の時間を誰にも邪魔させないと言わんばかりに素早く扉が閉じた。

『ガクね、トウコさんとは、ほんの一時期だけらしいけれど、大人のお付き合いをされていたんですって』

 ユイの言葉で思わず振り返った。そこにあったのは、意外にも少し困ったような笑顔。

『彼女は初めてガクを人間として扱ってくれた人だから、恋愛感情とは別の意味で特別な存在ではある、って。さっき謝られちゃった』

 ユイはガクの懺悔に傷ついているというよりも、キリヒトやカナンにはきっと理解できないと言いたげな目で、キリヒトではなくカナンを見つめて言い添えた。

 視界の隅に映ったカナンの驚いた顔が、次第に眉尻を上げて怒りの表情に変わっていく。

『姉様、どうして笑ってそんなことが言えるのよ』

 憤りに満ちたカナンの声に、ユイは哀れむような目で彼女を見つめたまま

『そんな過去も含めてのこれまでが、今のガクを形づくってくれたのよ? トウコさんがガクに人を好きになる感情を教えてくれていなかったら、ガクがこんな思いをしてまで私を助けに来てはくれなかったと思うの』

 と、諭すように答えていた。

 返す言葉が見つからない。ガクがなぜユイにそこまで入れ込むのかを解った気がした。

『でも、それなら余計にキリちゃんが』

『カナン、行こう。ユイさんが認めているんだ。俺たちにどうこう言う権利なんてない』

 キリヒトは渋るカナンの腕を取り、足早に出口へと歩みを進めた。ユイがそのあとに続く。

『キリちゃん、これ。ガクから預かったの。車の運転はできるのよね?』

 ユイからそう言って手渡されたのは、ここへ来るのに使ったワンボックス・カーのキー。

『ガクはどうやってここから逃げるつもりなんだ?』

『あとで説明するわ。ガクがメインラボを火炎龍(サラマンダ)の能力で破壊すると言っていたから、今はとにかくここから脱出しないと』

『そうだな。取り敢えず非常階段を使って下まで降りよう』

 会話をそこで一度終わらせ、三人は崩れ落ちていく非常階段と競うように階段を駆け下りた。混乱する現場の中、人混みに紛れて三人でGエリアを脱出した。途中で例の警備員と出くわし、別に保護した局員とともにキリヒトたちをCエリアまで避難者輸送用の車へ押し込んでくれた。


 帰り道の車中でユイからガクの伝言を聞いた。

『キリちゃんにはお店を頼む、って』

 それはまるでガクの遺言のように聞こえた。助手席に座るカナンの手を借りながら左手一本でどうにかステアリングを操作していたが、そのときだけは一瞬操作を誤りそうになった。

『自滅覚悟だった、ってこと?』

 一瞬蛇行した車の走りを元に戻しながらユイへ尋ねてみれば。

『あの人がそんな殊勝な人だと思う?』

 ユイが、その瞬間だけは心からおかしそうな笑みを浮かべた。

『トウコさんほどの人が行方不明ともなれば、さすがに今は都会に住めないみたい。しばらく雲隠れするそうよ。でも必ず帰って来るから、って』

 淡い紫色の瞳が、遠い目をして車窓の向こうを寂しげに見つめる。

『信じてるんだ?』

『信じられなくて、彼に遠隔通信(コーリング)をラーニングさせたわ。必ず呼んで、って意味で』

『え、まさか姉様』

 と過剰に反応したのはやっぱりカナンだった。ユイは少しだけ頬を薄紅に染め、

『カナンが考えているようなあげ方じゃないわよ。あなたたちがそんなに満身創痍なのに、ガクったらまるで無傷なんだもの。だから噛み付いてやっちゃった』

 と悪戯な瞳でカナンを笑ってやり過ごした。


 ――必ず呼んで。でないと、また遠隔通信(コーリング)をあちこちに振り撒いて、ガクを心配させてやる。


『そう言ったときに見せたガクの困り果てた顔をあなたたちにも見せてあげたかったわ』

 ユイはそう言って、やはり明るく笑った。

『どうして笑っていられるの。姉様らしくない』

『ガクはきっとトウコさんを殺せないわ。私が疑問を口にしたとき、一瞬迷いを見せたから』

『疑問?』

『私たちは、なぜ特殊な遺伝子を持って生まれたのかしら、って』

 例えば自分たちがいずれ結婚し、子供を宿したとき、その子はやはりサイキックなのか。

 だが大久保の両親は二人ともサイキックではない。でも、もしかすると娘たちに隠しているだけで、本当はサイキックなのかもしれない。

『何も解っていないのよ。自分自身のことなのに』

 もしもキリヒトの境界干渉(サブリミナル)を利用してトウコを初心に戻すことができれば、よい意味で研究を進められるのではないか。ガクやキリヒトのような哀しい生い立ちを味わわずに過ごせる社会を作れるのではないか。

『やっぱり私は、消すだけがすべてではない、と思うの。人は最初から悪人ではないし、環境や人との関わりの中で何度でも生まれ変われると思うわ。トウコさんは人に恵まれなかったのだと思う。皆にもてはやされて、なのにいきなり突き落とされて。お父様を社会に奪われて、誰の事も信じられなくなって……信じてもいいと知りさえすれば、きっと本来の彼女が戻ってくると思うの。綺麗事だとは、思うけれど』

 ユイはどこまでも哀しい瞳で、だが笑って自分の思想を貫く宣言をした。

『ガクの奥さんになりたいなあ、とかね、彼の子を産みたいな、なんて、思うの。あの人はずっと独りぼっちで生きて来た人だから、家族の温かさを知って欲しいな。そういう輪がサイキックの間で広がってくれたら、誰も辛い思いをせずにマジョリティ化もできるかな、とか。トウコさんが仲間になってくれたら、本来の彼女はサイキック兵器の量産化を阻止しようと研究に没頭してくれたくらい、サイキックの人権を認めてくれていた人だもの。とても心強い協力者になってくれるんじゃないか、なんてね』

 独り言のように紡がれたユイの言葉が、キリヒトにはとても重い響きに感じられた。カナンも自分と似た感想を抱いたのだろう。もしくは、それ以上。彼女は自分と違い、恋する気持ちを知っているから。

『諦めたら、本当にそれで終わってしまうわね。姉様の考えも正解の一つ、だと、思う』

 そう返したカナンの言葉もまた、キリヒトにとってはとても重いものだった。


 湾岸線を途中で下りて海岸公園に向かった。カナンにせがまれたからだ。

 すっかり夜の帳が降りて、オーシャン・ビューを売りにした高級マンションから漏れ落ちる光しかない真っ暗な海を前に、三人で輪になった。

 セカンドとの積極的な戦闘で、キリヒトの風神(カザカミ)はほぼコントロール可能になっていた。三人の影で充分に隠せるほどの小さなつむじ風を作る。カナンがその中心にセカンドの欠片たちを流し込み、砂と同じくらい細かくなるまで粉砕した。仮に海の藻屑から拾い上げられても、二度と修復できないくらいに、細かく。

 気流の筋が、かろうじて見える程度の細さで海へ走ってゆく。その中でマンションから漏れる光に照らされてキラキラとまたたくセカンドの欠片たち。それはやがて光さえ反射しないほどに遠のき、そして海の向こうへと消えていった。

『セカンドくん。安らかに、眠って。次の命でもまた“人”として出会いましょうね』

 カナンがとても穏やかな優しい声で、セカンドに別れを告げた。

“兵器として繰り返し生かされるよりも、人として逝きたい”

 セカンドが繰り返し訴えていたその言葉。「逝きたい」は「生きたい」でもあったのだろうと、キリヒトはカナンの言葉でようやく気が付いた。

 ならば、潰えた命を自分のエゴで手元にとどめていては、いけない。彼がカナンとの幸せな夢を見ながら逝ったのに、またあんな想いを味わわせる可能性を残してはならない。

 カナンのこの提案のおかげで、やっとキリヒトも未練を手放せた。

 セカンドは、三人の中に生きている。たった一人の家族として、初めて恋をした相手として、妹を正しく導いてくれた恩人として、三人の中で生き続けていく。そんな確信があった。

 それは一年過ぎた今でも遜色なくキリヒトの中で息づいている。

 あれがセカンドの幸せの形なのだ。だからもう、泣きはしない。


 キリヒトは心の中で一年前を振り返りながら、黙々とポスターの張り替え作業を続けていた。

「よし。これでユイさんからのお説教はないだろう」

 ユイはときおり店の様子を見にここへやって来る。そして月に一度、今日のように手伝いを兼ねて新作のマスターデータディスクを問屋で受け取ってから訪ねてくれる。多分それは、キリヒトへの心遣いなのだと思う。

 カナンとは、あれ以来逢っていない。自分を見ればセカンドを思い出してしまうだろうし、彼女もまたキリヒトに同じ気遣いをしているのだろう。

 ユイもその辺りを察してくれているのか、それとなくカナンの近況を伝えてくれる。

 カナンは「お嬢様の振りはもうたくさん」と言って、桐之院女子大へのエスカレーター入学をボイコットしたそうだ。今は男女共学の大学へ通っているらしい。ユイが幼稚園教諭なのに対し、カナンは保育士を志望しているとのことだった。

「お節介なカナンらしいや」

 先月聞いたその話を思い出して、思わず苦笑いが浮かぶ。

 笑って過ごせているならそれでいい。そう思うのに、埋めようのない穴を感じてしまう。

(共学の大学に通い始めて彼氏でもできたかな)

(乗り越えているなら、それでいいのだけど)

(ユイさんがカナンと連絡を取ってみれば、と口にしないのは、そういう意味でも自分に気を遣ってくれているからなんだろうなあ)

 そんな想像ばかりがよぎっては消えるこの一年だった。キリヒト自身ですら自覚がないうちから、ユイにはカナンがキリヒトにとってどういう存在なのかを認識されているようだった。

「……やっぱ、逢いたい」

 ずっと堪えていた本音が、独りぼっちの店にころりとこぼれ落ちた。


 カウンターの奥にある確認用の再生プレイヤーを使って、惰性のままに映画鑑賞。すっかり夜の帳が落ちていて、あと一時間ほどで閉店時間になろうとしていた。

「ユイさん、遅いなあ。一緒に夕飯を食おうって言ってたのに。腹減った」

 と愚痴りたくなるほど、約束の時間から随分と過ぎていた。

 渋々と席を立ち、再生プレイヤーからマスターディスクを抜き取った。外部ディスクは消耗品のため、本当は無駄に再生させると摩耗するので、レンタルディスクの作成以外の用途で再生するのはご法度だ。だがそれに激怒して説教をしそうなおっさんと元女子高生は、もうキリヒトの周辺にはいない。

「ガクも面倒な引継書類を作っておくくらいなら、定時連絡を寄越せっつうの」

 誰もいないのをよいことに、一人ブツブツと文句を垂れる。マスターディスクをクリーナーに掛けてからケースへ収め、それからコピーしたレンタル用のデータディスクを店の棚に戻そうと、ずるずるだるい足取りでフロアのほうへ向かった。

 ぼんやりと見ていたのは、カナンの好きな恋愛映画、『ジャック・サマースビー』だった。


 どうせもう客は来ない。閉店時間には少し早いけれど、もう店じまいにしようと思った。

 店内の蛍光灯だけを落とすと、シーリングライトの淡い光だけが店内を照らす。キリヒトはこの瞬間に一番寂しさを覚える。三年前の赤い月を思い出させるから。一年前に三人でセカンドを見送った暗い海を思い出すから。

 独りには慣れていたはずだったのに、と自分で自分の弱さに嗤う。

(ん?)

  窓のブラインドを閉じる直前、反対側の窓の外で何かが動いた気がした。

(気のせいかな)

 そんなふうにさっさと見切りをつけて全部のブラインドをクローズさせる。それから入口の施錠をしようと扉の前に立ったが、突然その扉が勢いよくガッと開かれた。

「待って!」

 間近過ぎて鼓膜が破れるかと思うほどの大声が店内に轟いた。思わずキリヒトは反射的に両耳を手で覆っていた。同じく脊髄反射ですくめていた肩から力が抜けて、一瞬固く閉ざしてしまった瞼をゆるりと開けてみれば。

「……うそ」

 目の前に仁王立ちで佇み、両手いっぱいに卸問屋のロゴが入った袋を下げている人物は、今にも泣きそうな顔をして――だが相変わらず、眉尻を吊り上げていた。

「ま、まだ閉店時間じゃないじゃないの! なに勝手に営業時間を変えてるの!?」

 と怒声を浴びせて来る女性のヘア・スタイルは、とてもボーイッシュなショートボブ。だがそれは忘れるはずもない見事な亜麻色の髪で、毛先がゆるい癖毛のせいでわずかに跳ねている。

(可愛い……)

 一瞬浮かんだキリヒトのその感想は、コンマゼロ二秒後に粉砕された。

「それにポスターの張り方も! 全然なってないわ! やり直し!」

 相変わらず言動は小憎たらしいが、やっぱり、可愛い。

 温かそうなのは襟元を飾るボアの部分だけという、防寒の役目を果たしているもか疑わしいボレロのコートがとてもよく似合っている。彼女の亜麻色の髪とマッチしたブラウン系の色は、温かそうでとても彼女らしいセンスだと思わせた。

「そ、それから! 夕ごはんもどうせ食べてないでしょう! 姉様ったら、突然ガクから連絡が来たからって私に代理を言付けるんだもの。慌てて作ったから、有り合わせの食材でしかお弁当、作れなかったから!」

 文句を言わずに食えと言う彼女は、今までキリヒトが知る中で一度も見たことのない、バックパックタイプの鞄を背負っていた。彼女はキリヒトを押しのけてカウンターまでどかどかと荒い歩調で向かうと、新作商品の詰まった袋や背負っていた鞄をカウンターの上へ乱暴に置いた。

「ごはんが済んだらラべリング作業よ! 手伝ってあげるから、明日の開店時間までに全部終わらせること! それから私、今日からここでバイトの許可をもらったから!」

「は?」

 せっかくの美脚がもったいない、と思いながらジーンズをまとった彼女の脚に見入っていたキリヒトは、その言葉を受けて初めて顔を上げた。

「バイト、って……別に、募集なんか、してないん、だけど」

「寒い! 扉閉めて!」

「あ、はい」

 わけが分からず、取り敢えずは言うとおりにする。

「もう、今どき手動の扉なんて。今度ガクから連絡があったときは自動に変えろって文句言ってやる。キリちゃん、あとで帳簿も見せてね」

「え」

「ガクの許可は取ったんだから! キリちゃんに断る権利なんてないでしょ!」

 どうしてさっきからこの人は怒っているのだろう。そんな疑問を抱きつつ、恐る恐る彼女――すっかり見違える風貌になったカナンに数歩だけ近付く。

「あのさ、なに怒ってるの?」

 彼女の考えていることが分からない。それが怖くてそれ以上近付けなかった。

「……怒ってなんか、いないわよ」

 途端に消沈する声。それまでの威勢はどこへやら、上がっていた眉尻まで下がり出す。

(え、ちょ……え?)

 はらはらと彼女の頬を濡らす涙。一年前に見た、無理やり笑みを作りながら泣いたときとは違う、むしろ初めて逢ったときに見せた本心の詰まった涙。それが彼女の頬を濡らし、それが余計に彼女の顔をくしゃりとゆがませた。

「怖くて、ずっと、来れなかったの。私を見たら、キリちゃんが、いろいろ思い出して、辛い思いを、させるんじゃ、ないか、って」

 相変わらず自分のことを粗末にしているから。

 出逢ったころと変わらず、無茶な依頼も引き受けているようだったから。

「死に急いでいるように見えちゃって、私が逢いに来ることで、最後の一滴になっちゃったら、どうしよう、って」

 カナンの目に、この一年の自分がそんなふうに見えているとは思いもしなかった。彼女が自分との接触を避けているのは、彼女自身がまだ終われないでいるからだとばかり思っていたから。

「……なんで俺のことだけ、計り間違えるかなあ」

 思わず文句が口を突く。知らず苦笑いが面に浮かんだ。やっと自分の足を動かせる。

「俺、もう大丈夫だよ。穏やかな気持ちでセカンドを思い出せる。カナンは?」

 彼女の前に立ち、努めて明るい口調で問い掛ける。

「わた、しも、だい、じょぶ……。前……ぃっく……見てる。姉様、言ってた。子供たち、もしサイキックでも、笑って過ごせる……だから、自分の手で、保育園、作り、た……ひっく」

「泣くか話すかどっちかにすれば?」

「分かってるわよ……っぐ」

(噛んだ!)

「……ぶっ」

 キリヒトはムキになったカナンを久し振りに見て思わず噴き出した。

「笑うんじゃないわよ」

「バカにして笑ったんじゃないよ」

 真っ赤になった鼻の頭が遠い日のカナンを思い出させる。あのころと変わって欲しくないところは、何一つ変わっていない。

「すごいな。俺、なんにも先のことを考えてなかった」

「だから、心配、していたんじゃないの」

「相変わらずお節介だね」

「うるさいわよ」

 懐かしいやり取りに、とうとうカナンも噴き出した。

「……よかった。キリちゃんも笑えているのね。あ、えっと、久し振り」

 やっとしゃくり上げるのをやめて、彼女が笑った。手の甲で目許を拭ったあとに見せた彼女の瞳は、未来に期待や希望を抱いた前向きな強い光を宿していた。その灰褐色の瞳がまっすぐにキリヒトの瞳を射抜く。

「キリちゃんにしか相談できないことがあるの」

 快活な声に戻ってそう告げる彼女の背中をそっと押してカウンターの奥へ促す。

「なに?」

「一緒に仲間を探しましょう。キリちゃんの境界干渉(サブリミナル)と何でも屋の窓口、それと私の千里眼(セカンド・サイト)を使えば、隠れているサイキックを探し出せると思うの」

 例えば「サイキック関連も、リーク目的でなければOK」と違和感を覚える文言を付け足せば、分かる人には察せられるだろうと彼女は言う。

「姉様の言葉や、白金ダイゴの言っていたマジョリティ化の話をずっと考えていたの。善意はきっと伝わる。だから白金ダイゴを頼って来たサイキックたちも、それを彼に打ち明けられたと思うのね」

 彼女の語る未来構想はキリヒトを魅了した。まだまだ荒削りな展望で、もっと煮詰めなくてはいけないのだろうけれど。

「ガクにも打診してみるか。能力模倣(イミテイション)はサイキックに関する鼻が利く、みたいなことを言っていたし」

「協力してもらえるといいんだけど」

 気付けば二人とも夕食を摂るのも忘れ、延々とこれからのことについて語り合っていた。そこに過去を悔やむ憂いは微塵もなく。

「サイキックのコミュニティを作れば、力を合わせることだって可能よ」

「力、って、非能力者と戦争でもするつもりかよ」

「そういう力を合わせるじゃなくて! ほら、姉様が言っていたでしょう? ガクの子供を産みたい、って。マジョリティ化は、何もあんな形じゃなくたって、サイキックであることを承知で家庭を築く人が増えれば自然な形で増やせるでしょ?」

「……すげえ発想だな」

「能力の継承やどう顕在化するか、社会の中でマイナスになる面を明確にする必要があるわね」

「トウコ先生は、どうなっているのかな。報道では行方不明、としか伝えていなかったけど、実際のところはどうなんだろう」

「さあ? でも、あの女よ? そう簡単にくたばるとは思えないわ」

「カナン、言葉遣いが前以上に悪くなったな」

「うるさいわね。姉様やお母様みたいなこと言わないで」

「……すいません」

「ガクは潜伏中なんて言っているみたいだけど、本当はトウコを探しているんじゃないかしら。なんだかんだ言っても、あの女はガクのことを気に入っているようだったし。懐柔できる、なんて考えていそう。私がガクなら、そう考える」

「……ユイさん、口ではああ言っていたものの、実際のところは気に病んでるんじゃないのか?」

「だから、絆が欲しいんじゃないのかしら。ガクの子供が欲しいってのは、そういう意味もあってのことだと私は思っているけれど」

「ごめ……なんかそこら辺、俺にはよくわかんない心理」

「コドモ」

「うるさいよ、マセ女」

「あ、それでね」

「話逸らすんじゃないよ」

「本題がちっとも進まないじゃない!」

 二人は時が経つのも忘れ、いつまでも語り合っていた。

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