13. 望み――セカンドへの贈りもの
一瞬だけ、キリヒトの中で時間が停まった。
(あ、れ……?)
ふわりと宙に浮いた感覚を覚え、次の瞬間、背中から引きずり降ろされる感覚に襲われる。
(お、落ちてる!?)
曇天が目に入ったところで現状を思い出す。間一髪のところでキリヒトの繰り出した風神がセカンドの風神を相殺させたようだ。
ラボの天井が完全に吹き飛び、屋外の空気が入り込んでいる――というよりも、外にいるような感覚だ。
慌てて壁を蹴り込んで旋回する。跳躍者の力に耐え切れないほど脆くなった壁がボロボロと階下へ落ちていった。
「遅い!」
「げハッ!!」
叫び声とともに食らわされる衝撃。今度はまともに腹への一撃を食らってバランスを崩す。せり出した二フロア目の中三階の手すりに背中を強打した。その勢いとキリヒトの自重で、辛うじて形を保っていた手すりがバラバラと崩れ落ちた。無理矢理反らされた背の軋みに耐え、反動をつけて再び旋回、靴裏が壁の感触を感じ取り、安定した足場となってキリヒトの蹴る勢いを助ける。
(腹……痛いだけだ)
セカンドに手加減されていると思うと、昔感じた口惜しさや負けん気が呼び覚まされる。
「手加減してるんじゃねえよ!」
叫ぶとともに新たな気の塊を束ね、セカンドの足に狙いを定める。
「手加減なんてしていないよ。キリが風神を受け容れたから、その程度の効果しか出なかったんだろうね」
「説教ができる、その余裕がムカつくんだっつうの!」
今度は意図的に風神で四階も吹き飛ばす。
「大雑把だなあ。フロア全部を吹き飛ばすんじゃなくて、コントロールしろよ。俺に狙いを定めるんだろ?」
セカンドは尚もキリヒトを挑発しながら、すとんと目の前に着地した。
「キリに、勝ちたいんだ」
棒読みの一言と同時に間合いを詰められる。
「セ……っ!?」
キリヒトは逃げる間もなくセカンドに額を鷲掴みにされた。
「痛……っ、放せ!」
そう叫んでセカンドの腕に爪を立てるが、ヒューマノイドの本気に生身のキリヒトが敵うはずもなく。
「今の俺は前よりも境界干渉を巧く使いこなせなくなっているみたいだ。でもキリなら勝手に脳内で補完するだろう、ってトウコ先生も言っていたし」
諦めを表す醒めた翡翠の瞳を無理やり見させられる。目を閉じなければと思うのに、やはり今でも目を逸らせない。ずっと羨んで来た碧緑の瞳がじわりとその輪郭を崩し始めた。
「や、め……ろ……ッ」
もう嫌だと幼いキリヒトが心の中で泣きながら叫ぶ。
「やめないよ。ラストバトルだ。キリが俺の境界干渉から逃げ出せたら、おまえの勝ち」
――能力に遊ばれるのではなく、逃げずにちゃんと鍛錬をして、使いこなせ。
「三年前とは別の選択をしろよ? それがこのシナリオの突破口だ。俺からのレクチャーは、これで最期。キリ……今度こそ、ちゃんと自分の能力たちと向き合うんだぞ」
泣きたくなるほどの優しい声。諭すようでいてどこか甘えて懇願するような、懐かしいセカンドの声。いつだってセカンドは、キリヒトを案じて叱ってくれた。三年前までは嫉妬が勝って、それを素直に聞けなかった。
「ま、さか」
嫌な予感にキリヒトの全身が震え出す。
「キリになら、俺の全部をあげてもいいや。たった一人の家族だし」
目を閉じようとするのに、身体が一つも言うことを聞いてくれない。じわりと視界がぼやけて滲み、キリヒトのまなじりから涙が伝い落ちていった。精神的な恐怖からだけでなく、セカンドのもう一方の手がキリヒトの首をギリギリと締め付けているからだ。酸素を欲して、足掻く。苦し過ぎて目を閉じることさえままならない。
キリヒトはセカンドが何を言っているのか分からなかった。
「キリ……今度こそ、サヨナラだ」
セカンドが諦めに染まった瞳で笑い掛ける。胸が苦しくなるほどの切ない響きで、キーワードを口にした。
――だいすき。
境界干渉の訓練のとき、絶対本人に告げることはないという理由で、互いにトウコだけに報告していたキーワード。三年前の戦闘時、お互いに同じ言葉を定めていたのだと初めて気付かされた、その言葉。
三年を経て再びセカンドの口から紡がれたそれは、家族だからこそ却って言えない言葉だった。その一言がキリヒトの脳の奥深くでこだまする。
「や……だ……」
キリヒトの懇願も虚しく、遠いどこからクランク・インの指令が下りた。
初夏特有の濃い空気を感じる、それに妙な違和感を覚える。
(あれ……? どうして革ジャンなんか着てるんだ、俺)
確か、夏だったはずだ。そして赤い月の夜。
思い出して、ざわりと全身の毛が逆立つ錯覚を覚えた。
(そうだ、俺、セカンドと果ての外へ逃げよう、って)
辺りを見回せば、ブナの樹々が追手からキリヒトを隠してくれている。そして目の前には、天辺が見えないほどの高いコンクリートの壁――偽りの“世界の果て”が立ちはだかっていた。
それを見上げた直後、バランスを崩して転びかけるほどの衝撃がキリヒトを襲った。
ドォォォ――ン……ッ!
『!』
衝撃に遅れて轟く地響き。粉砕された森の樹木たちの立てる塵煙が視界を霞ませる。キリヒトは思わず目を細め、両腕で目に塵が入るのを防いだ。
『これが、セカンドが繰り出す百パーセントの……風神の威力……』
粉々に粉砕され、バークチップのようになった森の樹木たち。めくれ返った地面の土がそれらと混じり、施設区域からの侵入を阻むように、うず高い小山の線を形作っていた。
(いや、俺はこの光景を知っているのか? どうして百パーセントだなんて分かっている?)
ギシリ。身体のどこかで鈍い痛みを感じ、キリヒトは軽く身を屈めた。
違う。腹や背中ではない。どこだ? だが確かにどこかが酷く痛い。
手が勝手に心臓を押さえていた。だが、そんな余裕も追跡者の気配に気付いてうやむやのうちに掻き消えた。
『セカンド! 森を壊したのは、アイツらの足止めをするためなんだよな? 遅くなってゴメン! 何があったのか、どうしてこんなことをしたのか、ちゃんと分かるように話してよ! 何があったんだよ!』
セカンドの風神に耐え切った高木たちに向かって懇願する。まばらに佇むブナの樹木から、かすかな音がした。そちらへ瞬時に視線を向ける。ブナの枝葉がざわりと揺れる瞬間を見た。そこから華麗に踊る人影。こんな非常時なのに、それでもやはり無駄のないキレイな旋回に、キリヒトはつい一瞬見とれた。
『キリが遅いせいで、余計な血がいっぱい流れちゃった』
距離にして五メートルほど森側に着地したセカンドが、世間話のような軽さでそう言った。膝を追って地面に着地すると、彼は緩慢な動作でゆるりと立ち上がった。
『おまえ……それ……なに……?』
月明りが仄かに照らし出した彼の姿を目にして、キリヒトはセカンドにそう尋ねた。だが、何かが、違う。
(いや、俺は、この光景を知っている。セカンドがなぜ赤いのかも知っている……どうして?)
全身に返り血を浴び、まとったパーカーや髪からも滴り落ちているそれは、セカンド自身が流しているとは思えない量。明らかに二桁単位の人間を殺めたときに匹敵する量だ。そもそもセカンド自身には怪我どころか傷一つついていない。
『ここへ来るまでに、いったい、何人……殺したんだ』
問いながら、キリヒトは答えを知っていた。なぜ、と自分自身に不安を覚える。自分がリアルタイムで体験していることなのに、どこか俯瞰で見ているもう一人の自分がいる。
『さあ? 俺より先にキリへ辿り着こうとしたサードとフォースを排除したところまでは覚えているけれど、ほかはいちいち覚えていない、かな』
キリヒトが苦手としていた、セカンド以外のサイキックたちを手に掛けたと聞いても、なぜかキリヒトは驚かなかった。
(どうして知っているんだ、俺は)
そんな問いがぐるぐると巡るのに、キリヒトはまるで他者を演じているかのように驚きの目でセカンドを凝視した。
『嘘だ。セカンドがそんなことをするはずがない』
『本当だよ。だって、トウコ先生が、キリに勝ったコピー・ヒューマノイドを、オリジナルと近似値のサンプルとして生かす、って約束してくれたから』
セカンドが淡々と告げるそれも、キリヒトは確かに知っていた。
『げハッ!!』
考える暇も与えられず、一気に間合いを詰めたセカンドの拳がキリヒトのみぞおちにクリティカルヒットした。腹に押しつぶされるような痛みを感じると同時に胃液が吐き出された。その勢いに流される格好で仰向けに押し倒されていく。
『く……っ!』
身体が地面へ押さえ込まれるよりも早く、セカンドの襟首を掴んだ。それが意外だったらしく、セカンドが驚愕で目を見張る。その一瞬を逃さず、背中が土についてしまう前に、彼の身体を頭上の向こうへ思い切り放り投げる。
『うゎ』
滅多に聞かないセカンドの狼狽えた小さな声に失いかけた自信を取り戻す。襟を掴んでいた手を放せば、セカンドの身体という障害がない空間。空になった両手を素早く地面について、バック転で起き上がる。キリヒトの着地した先に、もう仰向けに放り出されたはずのセカンドはいなかった。
『さすが、オリジナル。サードやフォースみたいなわけにはいかないな』
早くも樹上に移動したセカンドの声が降って来る。キリヒトがそれを追えば、あと一歩というところで、セカンドが果てに向かって跳躍者ですり抜ける。再び轟く破壊音。キリヒトが蹴り入れたときにはびくともしなかったコンクリートの壁にヒビが入り、コンマゼロ数秒後、自重に耐え切れなくなったコンクリートの雨がバラバラと降り注いだ。
『キリ、覚えている? キーワードの話』
その声が間近、否、耳元で囁くような声で聞こえた。
『グェ……ッ!』
セカンドのラリアットが華麗に決まる。キリヒトはセカンドに馬乗りで押さえられ、がっしりと頭を地面に押し付けられた。反射的に、耳元へかすかに触れる彼の頭を掴み返し、乱暴に押し退ける。一瞬だけ、コードのような柔らかな物質が手に絡んだ。
『ナイス・リアクション、キリ。邪魔だったんだよね、そのインカム』
『!』
髪が抜けるかと思うほどきつくキリヒトの頭を押さえているのに、キリヒトが見上げたセカンドの面は悲しみの宿った笑みを湛えていた。
(待って、待って、セカンド……俺、この先を、知っている……?)
これは、セカンドのフェイクだったはずだ。彼の目的は、自分を殺すことじゃない。
(思い出した……これは、三年前をそのまま追っているシナリオだ……だから、今じゃ、ない)
あとの顛末をはっきりと思い出した。
セカンドはトウコの指示に従う振りをして、キリヒトではなくキリヒトの瞳に映る自分自身へ境界干渉を発動させた――自分で自分を消すために。
キリヒトの記憶を正しいと知らしめるように、セカンドがキリヒトへ指示を出す。
『キリ、トウコ先生に仕込んであったシナリオを発動させろ。あの人は俺の右眼に仕込んだカメラでおまえを見ているはずだ』
伝えるべきことを語り終えたセカンドが、再び敵意を剥き出しにして対峙する。彼の両手がキリヒトの首を絞め、そのまま身体を持ち上げる。
『――ッッッ!!』
ふわりと身体の浮いた無重力を感じた直後、背中に激痛が走った。無様に舞うキリヒトが仰ぎ見たのは、赤い月。
(もう、あんな想いは……させない)
自分がそんな想いをするのがイヤなのではなく、セカンドにあんな想いをさせたくない。
その一心だけで、コンクリートの瓦礫に叩きつけられた身体をどうにか起こして立ち上がる。
『抜け出してやるよ。このシナリオから』
キリヒトは切れた唇を拭うと同時に、セカンドへの甘えや依存心も拭い捨てた。
『二度もセカンドに自殺なんかさせないよ。だから、安心しな』
キリヒトがそう告げた瞬間、セカンドの表情が一変した。
『キリ? 何を』
『おまえの本当に願うことを、叶えてあげる』
それが彼への贖罪であり、ギフトだから。
両の手に気流の集まるイメージを思い浮かべる。あのころいい加減に聞いていたセカンドの助言を、記憶の奥深くから引っ張り出して再現する。
“イメージするんだよ。分子単位で、大気の構成を組み替える絵を思い浮かべるんだ”
カサカサとざわめく音。葉が風でこすり合わせられる音。
小さな小さな粒子の集まり、その中から空気中で最も重い二酸化炭素分子を作り出し、それを掌に集結させる。
『キリ……やる気になったんだ』
瞼を閉じた向こうから、愉快そうな声が聞こえた。
大気が、うねる。セカンドとキリヒトとで大気を二分する。キリヒトの周りの空気が薄くなる。酸素が足りないと頭痛が訴える。彼は酸素を取り出して爆破という形で応戦するのだろう。
渦巻く大気がキリヒトの長い前髪を舞い上げる。掌が、熱い。充分に圧縮された塊が元に戻りたいと掌の中で暴れ狂う。
カッと目を見開けば、対峙するセカンドが大きく背を反らして気の塊をキリヒト目掛け投げ込もうとしている姿が見えた。
「させるか――ッッッ!!」
キリヒトも遅れを取らず、気の弾をセカンドに向けて解き放つ。対峙する二人の間で、二つの分子爆弾が炸裂する。ほぼ等しい威力のそれが、互いをそれぞれの反対側へ吹き飛ばす。
舞い上がる塵煙。轟く爆音。バラバラと耳障りな破壊音。腕で目を防御したキリヒトは、クロスさせた腕の隙間から赤い月と破壊された森と果てが消えてゆく瞬間を垣間見た。
(あれ……夜じゃ、ない)
森の代わりに、壁から剥がれたボロボロのクロスが濡れ落ち葉のように舞い落ちる。キリヒトが仰向けに倒れているのだと自覚したのは、初冬の曇天を目にしたとき。
(ヤバっ、瓦礫が)
はっとして慌てて身体を横へ二転三転させる。間一髪で寝転がっていた箇所に瓦礫が勢いよく落ちて来て、床に大きな穴を開けた。頭上から再び襲い来るのは、自分と同じ顔をしたサイキック。
素早く身を起こして受け身の姿勢を取る。見上げたキリヒトの顔面目掛けて繰り出して来るキックに思わず両腕をクロスさせてまともに受けてしまう。
「痛ィ……くッ!」
ミシ、と鈍い音がした。折れなかったのが奇跡に近い。セカンドは床に着地することなく、キリヒトの腕を足場に再び上階へと移動する。キリヒトも追おうと踏み込んだ瞬間、また転んだ。
「なんだよもう!」
ぬかるみのように足を取られる。苛ついて足許を見れば、散乱した書類がスプリンクラーを壊したときに撒き散らした水を含んでぐしゃぐしゃになっている。いつの間にかトウコたちのいた一階へ逆戻りしていた。
(?)
セカンドの攻撃の手が不意に止まった。同時に視界の隅で動く気配を感じ取る。
(ガク……と、トウコ先生)
そちらへまともに視線を向けると、マザー・コンピューターを背にしたトウコがライフル銃を構えてガクに標準を定めていた。ガクもまたカナンから没収した拳銃をトウコに向けている。彼の面に浮かぶ複雑なゆがみが、彼の中に渦巻いている葛藤を伝えていた。
(ガクにはガクなりの、トウコ先生との歴史があるから……かな)
トウコに直接手を下せなかった過去の自分と今のガクが重なった。
ユイはどこへと見渡せば、入口の扉の前にへたり込んでいた。
「お願い……やめて……ほかに、方法が、あるはずよ……だから」
その声が酷くかすれて、髪も随分と乱れている。キリヒトが境界干渉に陥っている間、きっと彼女は二人を止めようと躍起になっていたのだろう。
(ユイさんにはきっとあの二人を止められないよ)
彼女は生きている世界が違うから。だからこそあんな綺麗な理想論を真顔で訴えられるのだろう。
(ユイさんは、カナンやガクの言っていた通り、キレイな人だな)
綺麗事が実現できると信じているユイは、意地悪な見方をすれば、トウコやガクのようなゆがみを持ったことのない幸運な人だ。だからきっとガクやトウコの気持ちなど分からないだろう、と思った。
(俺も充分ゆがんでいるな)
無駄な努力だと醒めた目でユイを見ている自分に軽く落ち込んだ。
また頭上から瓦礫が降って来た。キリヒトが半壊した三階部分を見上げてみれば、そこには今にも跳躍者でこちらへ飛び降りて来ようと跳躍の姿勢を取っているセカンドの姿があった。
(ここだとガクを巻き添えにするな)
キリヒトはその場をガクに預け、セカンドのいる三階目指して跳躍した。二階の壁を一度蹴って足場にし、もう一蹴りで三階へ。
待っていたかのように向かって来る気流の弾。咄嗟に練り上げた風神を自身の前に解き放って硬化させ、間一髪で被弾を免れる。
(初めて、止められた)
初防衛成功に少なからず驚きつつも、同じ能力を持つ者だけに見える気の道筋の狭間を縫う。再びセカンドに近付き、気流の弾を練り込む。
(痛……っ)
右肩に激しい痛みが走った。革ジャンの袖がざっくりと落ち、剥き出しの肩から鮮血が噴き出した。
「セカンド! 手加減なしだっつっただろ!」
叫びとともに、練り上げた気流の弾を渾身の力で解き放つ。
「げハッ!」
セカンドの腹にキリヒトの放った風神がまともにめり込んだ。動きを封じられるよう心臓を狙ったはずなのに、彼が一瞬早く跳躍していた。落下してゆく彼を追い、キリヒトも階下へ跳び下りる。紙の束がグシュと嫌な音を立て、紙が吸い切れなかった水が派手な水飛沫を上げた。
「手加減、してない、よ。おまえ……マスターするの、早過ぎ」
セカンドは血を吐きながらも、傷を庇うことなく立ち上がる。彼の脚がそのまま真横に振り切られ、キリヒトの脇腹に決まる。
「カハっ!」
堪え切れずに膝を付く。何も収まっていないキリヒトの腹から胃液が吐き出された。次の瞬間、ほんの刹那視界が暗くなり、次に見えたのは、セカンドがすぐ脇に佇んで見下ろしている顔。その向こうには曇り空。
(また……俺の負け、か……)
敵わない。いつもいつも、セカンドには勝てない。悔しさで視界が潤み出す。彼に負けたことが悔しいのではなく、彼の望みを叶えられそうにないからだ。もう掌はギタギタで、右腕はセカンドの攻撃による負傷で動かせない。今のキリヒトにはもう、風神を発動させる力が残っていなかった。
「げぇ……ッ、げほげぼッ!」
鉄板の入ったセカンドの靴底が高く上げられる。それが仕返しとばかりの勢いでキリヒトの腹に振り下ろされた。
「――ッ!!」
声にならない悲鳴がキリヒトの口から漏れ、喉に鋭い痛みが走った。
「キリ……もう、限界……たす、けて」
降って来たのは勝利宣言ではなく、セカンドの消え入りそうな呟き。そしてその言葉だけでなく。
「セカ、ンド……?」
目の前に血生臭くてぬるりとした長いモノが、バタバタと耳障りな音を立てて落ちて来た。喉の痛みに吐き気が加わり、二度と見たくなかったはずのソレにまた涙が滲む。セカンドがぶちまけた臓物でいっぱいだったぼやけた視界に、膝を折って呻くセカンドが映った。
痛む身体を堪え、どうにか上体だけを起こす。再び立ち上がろうと足掻く彼を見れば、腹部だけがぽっかりと空洞になっていた。キリヒトの風神が作った穴だ。
「キリ……痛い……って……こんな、に……」
セカンドがこれ以上不可能というほどに顔をゆがめ、子供のようにはたはたと大粒の涙をこぼしている。そんなセカンドを初めて見た。嫌な憶測がキリヒトをぶるりと身震いさせた。
「セカンド、前に痛覚はない、って」
肯定して欲しくて無駄口を叩いた。
「キリ……早く……頭、おかし、く……なり、そ……」
「まさか、トウコ先生、こういう事態になるのが分かっていておまえに痛覚を」
その先はおぞまし過ぎて口にすることすら躊躇われた。
言葉と裏腹にセカンドはどうにか立ち上がってキリヒトの胸倉を掴んだ。そのまま再びキリヒトの身体を軽々と片手一本で持ち上げる。だが彼は、苦しげに笑いながら泣き続けていた。
彼が力を入れるたびに、キリヒトの傷つけた腹から内臓がこぼれ落ちる。そして構成される組織は、不純物が混ざると人の肉のような固形を保てずに、どろりと融けてしまう。まだ息があるのに、体の一部が融けてゆく。それはきっとセカンドにしか解らない苦しみだ。
目の端が捉えるのは、憔悴し切った表情でマザー・コンピューターを操作しているトウコの姿。ガクはユイに拳銃を持った手を封じられて何かを言い争っている。
(ユイさん……邪魔しないでよ)
苦い思いで必死な彼女を見つめるキリヒトがいた。
その反対側で髪を振り乱し、一心不乱にコンピューターを操作している白衣の女を目にしたら、再び殺意に近い憎悪が蘇る。
(セカンドの痛みを見せて、俺の戦意を失くさせようって魂胆か……どこまで陰湿なんだよ)
今更になって、トウコが当初からセカンドの痛覚を制御していたのだと思い知らされた。キリヒトは心がねじ切られそうな痛みに襲われた。
「ごめん……ごめん、セカンド。ゴメン……」
一思いにできなくて。苦しませて、ごめん。
「カナンに、逢わせて、あげたかったんだ……」
もうキリヒトの右腕は、重い荷物のようにぶら下がっているだけで使い物にならなかった。
セカンドの最期には境界干渉を、とは思っていた。最期に笑って逝けるようにと願いながらシナリオを作り込んだ。
だが、今のセカンドにはもう一つの境界干渉しか使えそうにない。三年前、彼が自分自身に差し込んだシナリオ――セカンド自身を敵と見做すストーリー。
キリヒトはゆるりと左手を掲げ、血塗れた掌をセカンドの頬に当てた。その手と交差するように、セカンドの空いた手がキリヒトの首に伸びて来る。
「また自分を殺させて……セカンド……本当に、ごめん」
三年前のイメージを練りながらセカンドの瞳を見つめ返し、失敗が赦されない境界干渉を試みる。セカンドの碧い瞳に映る自分ではなく、彼自身の瞳に注視して発動させなければ、キリヒトが自分自身に境界干渉を差し込んでしまいかねない。自分がやろうと思って初めて、その難易度を痛感する。三年前、セカンドがどんな想いでそれを行使したのかを考えると、またキリヒトの黒い瞳に発動とは異なる種類の靄が掛かった。
そんなキリヒトに、セカンドの碧い瞳がゆるりと弧を描いて、笑う。
「それで、いいよ。キリの、せいじゃない」
ギリギリと首が絞まってゆく。彼の苦悶の表情から、プログラミングされた彼の行動が彼の意思を蹂躙しているのだと一目で判る。それを見るのが辛くて、息も苦しくて、視線を合わせるのが厳しくなって来る。
「キリちゃん、待って!」
その声がキリヒトの視線を声のほうへ向けさせた。潤んだ視界がクリアになる。頬に生ぬるい雫が伝っていった。
首から絞めつける力が一気にゆるんだ。無理やり狭められていた気道が急に広がったせいでむせ返る。キリヒトの身体が自由を得て、どさりと床へ落とされた。
「……カナン」
顔を上げた直後に初めて事態の流れを認識する。ユイを制するようにカナンが彼女を抱き包んでいた。トウコはマザー・コンピューターの前で倒れている。恐らくトウコもまた、カナンの第一声で一瞬の隙ができたのだろう。ガクはトウコに向けた拳銃を構えた格好のまま、驚いた表情でカナンを見つめていた。
「カナンちゃん、その拳銃、どないしたん」
「警備室から勝手に拝借して来たの。ガク、トウコを撃ったのは麻酔銃だから、あとはあなたの判断に委ねるわ。その拳銃は私の物よ。返して」
彼女が撃ったのか。というより、本当に撃てたのか。脳が勝手にそんな間抜けな確認をする。
「カナン、あなたまで……お願い、もうみんなやめて。誰も失わずに済む方法があるはずよ」
か細い訴えは、ユイのものだった。彼女は「トウコも父親を社会的に殺された哀しみを恨みに変えてしまっただけ」だと言う。彼女を失えば、セカンドがハンディなく生きられる術も失うと訴えたが。
「ユイ、世の中には、どうしようもない種類の人間もおるんよ」
ガクが諭すように返しながら、ユイやカナンに近付いた。
「人が物にしか見えへん、人としての欠陥品、そういう人間もいる。トウコが本当にユイの言うとおりの人間なら、自分の父親が自殺の道具にした得物を好んで使うはずがない」
そのたびに父の死を連想させられ、苦痛だから。だが彼女はサイキックという獲物を追う道具として銃を好んで使用した。
「俺がそういう種類の人間やから、まあ、確かな見立てやと思う」
ガクは冗談とも本気ともつかないことを言って苦笑を宿し、やんわりとユイの腕を取った。
「ガク、あなたは違うわ。だって私をトウコさんに売らなかったもの」
「うん。おおきに。おまえのおかげで人間になれた気がするさかい、おまえの持論も間違っちゃいないとは思うけど。でもな、環境のせいでそうなるのんと、持って生まれた本質がそれなのとでは、似て非なるモノやねん」
そのあとに小さく呟かれた「堪忍」の声。ユイの唇から小さな呻き声が漏れたかと思うと、彼女はガクの懐へ倒れ込んだ。
「ユイをここから避難させて来るわ。マザー・コンピューターとトウコは俺が始末する。そっちの用事が済んだら呼んで」
ガクは場にそぐわない呑気な声でそう言うと、カナンに拳銃を返してからユイを抱きかかえ、扉の向こうへ消えていった。
やっとトウコの支配から解放されたのに、セカンドに許されたのは、立ち続けることをやめる自由と残りわずかな時間だけだった。
キリヒトが自分たちに近付いて来るカナンからセカンドへ視線を移すと、濡れた床の上に仰向けで倒れている彼と目が合った。肩で息をしている苦しげな身をそっと抱き起こす。どこかデ・ジャ・ヴを覚えるのは、水と土の違いだけで、三年前と同じだからだろうか。
(同じ、じゃないな)
傍らにカナンがひざまずく気配を感じ、キリヒトは無言で彼女にセカンドを託した。融け始めて軽くなったセカンドを抱き包んで背を丸めたカナンを見届けると、二人が自分を意識しなくて済むようそっとその場から遠のいた。その足でマザー・コンピューターに向かい、セカンドの制御項目から神経回路の制御をオンにする。少しでも痛みを感じなくて済むようにと願いながら、痛覚神経の回路を切断した。
「セカンドくん……やっと、逢えたね」
切なげな響きで、それでいて甘やかな声で、カナンがセカンドの名を呼んだ。万感の想いをこめて呟いたその一言が、キリヒトの胸まで締め付けた。今きっと彼女は笑っている。泣きながら、それでも笑っている。
「カナン……カッコ悪い、トコしか、見せられなくて、ごめんね」
セカンドのそんな甘ったるい声を聞くのは初めてだった。
「始めからカッコ悪いセカンドくんしか知らないわよ、私。カッコつけて人でなしの振りばかりしていて、カッコ悪い人だよね。本当は誰よりも優しい人のくせに。中二病を患い過ぎ」
そう言って、くつくつと笑う。セカンドの瞳に映るのが最期まで笑顔であるようにと祈りながら必死で笑っているに違いない。キリヒトの目に映らなくても、カナンの笑顔を容易に思い描くことができた。
「キリほど、重症じゃ、ないよ」
「私から見れば似たり寄ったりよ。私の入り込む余地なんて、今まで一度もなかったじゃない。セカンドくん、私をキリちゃんに託そうとしていたでしょ」
「……だって、俺はヒトじゃない、から」
「私は、キミのことが好きだったのよ? キミの正体がどうだとか、関係なかった。キミという存在そのものが、私にたくさんのことを教えてくれたの。そんな優しさは欲しくなかった」
長い長い沈黙がそのあとに続いた。戸外の喧騒が漏れ聞こえて来るほどの静寂。
「……カナンに、俺も……って、言いたかった、なあ……」
並んで歩いてみたかった。
手を繋いでみたかった。
どんな子か姿を知らないけれど、きっと物怖じしない勝気な性格が見た目に出ているんだろうな、なんて。
「そんな想像、楽しんで、いたなあ」
「想像より可愛くはないでしょ」
「ううん……思っていたより、美人で、ちょっと、ビックリ、してる」
いつもユイと比べては「姉様みたいな美人だったらよかったのに」と言っていたから。
「女の子って、やらかい、んだなあ……そんでもって、あったかい」
「セカンドくんの、えっち」
くつくつ、くすくす、二つの笑い声がこだまする。キリヒトは堪え切れずにコントロール・パネルから視線を外した。見つめた先には、アヒル座りをしているカナンの後ろ姿。身の丈がすっかり小さくなってしまったセカンドを、赤ん坊に高い高いをするように抱き上げている。
「キリちゃんにばかり甘えちゃダメじゃない。私にもセカンドくんの中に居場所をちょうだいよ。キリちゃんに二度もキミを殺させたりなんか、しないんだから」
ざわついて来ている外野の音が無粋だと思った。もう少しだけ時間が欲しい。だが、自分よりもカナンやセカンドのほうが、きっともっと強くそう思っているだろう――けれど。
「セカンド」
タイム・アップ。セキュリティ・システムをダウンさせているとはいえ、間もなくレスキューや公安が踏み込んで来る。その前にすべてを消さなくてはならない。二度と第二、第三のセカンドをトウコに作らせないために。
キリヒトはカナンの隣にひざまずき、セカンドの額にそっと触れた。
「カナンと過ごせる夢を見ながら逝く?」
そう問いながら、必死の笑顔を作る。頬がひどく引き攣れて、痛い。それ以上に胸が痛む。吐きそうなほどの痛みをぐっと堪えた。
「……そういう、シナリオも、アリ、カナ……」
うっすらと笑みをかたどるセカンドの顔もとろけ出している。カナンはそれから一度も目を逸らさず、笑みを湛えたまま、自分の心へ刻みつけるようにずっと彼を見つめ続けていた。
「キリちゃん。私、セカンドくんと一緒に映画を見に行ってみたかったな。お気に入りは」
――ジャック・サマースビー。
「ジャックとローレルみたいな恋がしたかったな、セカンドくんと」
自分よりも大切な存在のためなら、なんでも受け容れられる、そんな恋。
「だから、セカンドくんの願いは、私が叶えてあげる」
カナンは語り尽くしたかのようにそう締め括ると、そっとセカンドを横たわらせた。
「ジャック・サマースビー、だね」
カナンに確認するキリヒトの声が、堪え切れない嗚咽で震えた。
二人で手を繋いで映画鑑賞をするシナリオに、それを見終えたあとで語らう二人の物語も追加する。
「セカンド」
もう片目しか残っていない彼の碧緑に視線を合わせる。
“……アリガト”
まだ融け切っていない彼の唇が、その四文字をゆっくりとかたどった。
キリヒトの瞳にじわりと薄墨色の靄が掛かってゆく。視界から無駄な背景が消えてゆき、セカンドのくすんだ碧い瞳だけが鮮明になる。
練り込んだシナリオをイメージし、複数の制止画のようなそれを彼に差し込んでゆく。
キーワードは……カナンなら、きっと最期に言うであろう一言。
――出逢ってくれて、ありがとう。
キーワードを差し込み、ゆっくりと瞼を閉じる。セカンドの額から手を離すと、隣から
「セカンドくん、出逢ってくれて、ありがとう」
という別れの呟きが聞こえた。それからしばらくの静寂。その後、床に向かって放たれた銃声と、カン、と何かが砕ける鈍い音がした。