12. 研究動機のパラドックス――トウコの主張
開かれた扉をくぐると細い通路が続いていた。
「通路にしては短いね。次の扉が見える」
「侵入者対策やろうな。仮に侵入されても、あの狭い入口一つを封鎖すれば、逃げ場のないこの狭い通路で抵抗されたところで難なく取り押さえられる、って寸法やろう」
「やろう、って、ガクもこのフロアに来たのは初めて、ってこと?」
「トウコがそう簡単に手の内を見せるかいな。一階のミーティングルームしか知らんわ」
そんな短い会話の終わるころには次の扉が開いていた。そのタイミングのよさから、どこかに据え付けられた監視カメラから一挙手一投足を観察されているのが嫌というほどよく分かる。
ガクが少し身を屈めてくぐる程度の高さの入り口を、まずはキリヒトがくぐり抜けた。
「わ……」
思わず感嘆の声がキリヒトの口から漏れる。
狭い通路が開けたところで視界いっぱいに広がったのは、小さな入り口からは想像もつかない上下左右に広がる縦に長い筒型の空間。フロア三つ分の吹き抜け構造になっている。天井が間遠にあり、壁に沿って五メートルほどの奥行きを持った中二階が、各フロアの壁から中心に向かってせり出していた。広い空間なのに壁そのものだけで建物を支えており、間には柱一つない。それらの構造が部屋全体をイベント会場のような空間に見せていた。
そしてそれだけの広さにも関わらず、解放感を半減させる量の書架や書類の山。壁面に沿った棚には、分厚いファイルとディスクが並べられ、床にも所狭しと似たような資料が積み上げられている状態だ。部屋の中央には使われた形跡のないお飾りの応接セット。残りの床面にも、あちこちに修正や×印をつけられたペーパーデータが散らばっていた。真正面には、この時代では珍しい大型のコンピューター。だが旧型でないのは一目瞭然だ。最新でもそれだけの大きさを要するほどのシステムが構築されたデータ量――それがバイオ技術研究棟のすべてを掌握するマザー・コンピューターだと即座に判った。
「相変わらずきったない部屋にしとるなあ。助手に片付けくらいさせておけや」
遅れて入って来たガクが足元の書類を蹴り分けながら毒を吐きつつキリヒトの隣に並んだ。
人の気配を感じてキリヒトたちが再び上の方へ目を凝らすと、一つ上階の中二階に三つの人影が現れた。
佇む人影の一つは、懐かしさを覚える碧緑の瞳でキリヒトを見下ろしている。もう一つの人影は、間もなく今年が終わろうとしている季節なのに、肩を剥き出しにした夏服をまとっていた。最も小柄なその人物が、感情の宿らないすみれ色の瞳をキリヒトに向けてぽつりと呟いた。
「セカンドくんが、二人?」
(!)
すみれ色の瞳の女性、ユイが虚ろな瞳ながらもキリヒトを認識した。しかも、キリヒトの存在を意識から削除された状態らしい。セカンドの差し込んだ境界干渉が解除されていれば、キリヒトをキリヒトとして認識するはずだ。逆に解除されていないのであれば、意識から消されたキリヒトを認識するのはあり得ない。
「ガク、ユイさんの境界干渉にほころびが出始めている」
キリヒトはほぼ確信に近い推測を、無言で同じほうを睨み上げているガクにそっと伝えた。
「根拠は?」
互いに中二階から視線を逸らさないまま、小声での短いやり取り。
「ユイさんは“セカンドが二人いる”と言った。つまり俺を認識したということだ。境界干渉に取り込まれているなら、意識から俺を削除したシナリオを演じているから俺を認識できないはず。なのに現実世界が中途半端に見えている、そんな状態だ」
「なるほど、理解。で、どうする?」
「ユイさんがあんたを大事に想っているのが本当なら、あんたの声には反応するはずだ。ほころびが出ている状態だから、あとはあんた次第。彼女の意識を自分へ向けることに専念して」
「ふん……取り敢えず近付け、ってことか。了解」
ガクは素早く対応を判断すると、トウコに語り掛けた。
「約束どおり、キリヒトを連れて来たで。下手に暴れられても敵わんさかい、程々に事実は伝えてある。あとはトウコ、あんたの説得の仕方次第や。取り敢えずユイを返しぃさ」
ガクの言葉を受けて、上階の張り出しの影ではっきりと見えなかった最後の一人が数歩前に進み、三年振りにその姿をキリヒトの前に現した。
「ガク、ご苦労様。それから、お久し振りね、キリヒトくん」
三年前とまったく変わらない、細くて長い美脚が目に入る。三年前までのキリヒトなら、それを見ただけで頬を赤く染めて視線を逸らしていた。前ボタンを止めずに羽織る白衣から覗くスカートは、相変わらずシャープな雰囲気を漂わせる黒。以前なら、こじつけてでも自分との類似点だと思い込んで浮かれていた色。それが今のキリヒトには、黒を汚されているような気さえした。真っ白なシャツブラウスの胸元だけが、相変わらずひどく窮屈そうで。セカンドに負けるたびに、甘い香りを漂わせるそれに顔を埋めて泣いていた。そんな過去がキリヒトの自己嫌悪を刺激する。そして何よりキリヒトが衝撃を受けたのは、彼女の浮かべた微笑になんの感情もこめられていない、能面のように張り付いた冷たさを感じたこと。
「……生きていたんですね、トウコ先生」
そう呼ぶことすら忌々しいのに、ほかにどう呼べばいいのか分からない。トウコはまるで焦らすかのように、ゆっくりとキリヒトのほうへ視線を移した。
「まさか私に常日ごろから境界干渉を仕込んでいたとは思わなかったわ。まだ子供だと思って油断していた自分を猛省するよい機会になったわよ、キリヒトくん?」
彼女は俯き加減でそう答え、ずれた眼鏡の中心を指で軽く押し上げた。
「大したものだと褒めてあげたいところだけど、反抗期の子がするやんちゃにしては、少々派手にやり過ぎたわね。無知がそうさせたのだから今回は赦してあげる。それから」
――現実というものを教えてあげるわ。
トウコの告げたその声と同時に、広間のような部屋の照度がいきなり落ちた。一気に緊張が走る。ガクは素早く書架の影へ滑り込み、キリヒトは踏み切り足に力を集約させた。
「トウコ、その前にユイを返せや。ドンパチやらかすなら部外者を外に出してからにしぃ」
ガクの訴えは本心だろう。ガクの焦れた声でトウコの注意がキリヒトからガクへ一瞬逸れた。
目標地点は、トウコたちのいる一階上の中二階、テラス状にせり出した、その突端。
(まずはユイさんをガクに預けてからだ)
ぐっと膝を曲げてスプリングを利かせ、跳躍者を発動させようとした瞬間。
「せっかちさんたち、慌てないで。争う気はないの」
トウコのそんな制止と、彼女の姿を隠すように上階のテラスから下りて来たスクリーンに行く手を阻まれた。
「スクリーンを使うから照度を落としただけよ。ガク、出て来なさい」
スクリーンの脇からトウコが姿を再び現し、そして彼女を守るかのようにセカンドが傍らに寄り添った。彼の瞳や表情はキリヒトの知っているセカンドなのに、見知らぬ人と思わせるほどの無表情でキリヒトを見下ろしていた。
「キリヒトくんが大人になってから話すつもりでいたことを今から説明するわ。ガクにも話しそびれていたわね。二人とも、それを知った上で研究に貢献するかどうかを決めなさい」
甘くて優しいアルトの声が、キリヒトの戦意を幾分か削いでしまう。だが。
『キリちゃん、相手の出方を見ましょう。焦らなくても大丈夫。まだ“そのとき”じゃないわ』
インカムから聞こえた声にはっとさせられ、そのおかげで今の立ち位置に戻ることができた。
(そうだ。俺が揺らぎさえしなければ、大丈夫)
「わかった。さんきゅう」
心からの謝辞を囁きにこめる。カナンのほうが何倍も歯痒い思いをしているだろうに。動けない悔しさを必死で堪え、司令塔に徹してくれているカナンの姿が容易に想像できた。
「俺も喧嘩をしに来たわけじゃない。ユイさんを返してくれればそれでいい。それから、セカンドと二人だけで話がしたい。俺の知っているセカンドなのかどうか、確かめたいから」
ぴくりと小さく肩を揺らしたのは、トウコだけではなかった。キリヒトを注視するセカンドの視線に強さが増したのと、彼の肩もキリヒトの呼び声に反応したかのように小さく上がったのが見て取れた。
「確かめて、どうするの?」
「前の記憶が少しでもあるなら謝罪を。ないのなら、それでいい」
「謝罪、ね。私には?」
「……境界干渉を無断で差し込んで、ごめんなさい」
キリヒトが私情を堪えて頭を下げると、それを受けたトウコの声音が少しだけ変わった。
「外の世界を知って、少しは社会勉強ができたようね。赤ん坊のころからキミを知っている私としては、喜ばしい限りだわ。もう対等に話しても分かってくれるかしら?」
口先だけの賛辞だと分かっている。どんな弁解を用意しようとも、赦せないものは赦せない。だが、それをあからさまにするほどバカではないつもりだった。だから私情を押し殺し、キリヒトはプライドの高いトウコが望む自分を演じた。
「理解したいとは思います。育ててくれた人なんだし。でもその前に、ユイさんをガクに引き渡して。俺は逃げないし、気掛かりがあったら先生の話に集中できない」
薄明かりの中でトウコの銀縁眼鏡が鈍く光った。しばらく考え込むように腕を組んでキリヒトを見下ろしていたが、やがて彼女はキリヒトから視線を逸らさないまま
「ガク、上がって来なさい」
と手短に命じた。
ガクがその声を受けて書棚の奥から飛び出し、中二階へ続くサーキュラー階段を駆け上っていく。
(よし。これで、ユイさんの安全は確保できた)
少しだけ肩の荷が下りた気分になり、いよいよトウコとの対峙に専念する。
「これでいい?」
「はい」
「じゃあ、まずは古い新聞記事や私の経歴などから包み隠さず話すわ。キミには私がなぜこの研究に意義を見出しているのか、先入観を取り払って冷静に判断して欲しいの。そのあとでもう一度、帰って来るのか来ないのかをキミ自身が決めればいい。少し長い話になるけれど、二十二年前の新聞から見てもらうわ」
トウコがそう言うと、部屋の照度が更に落とされ、スクリーンにかなり古い日付の新聞が映し出された。
スクリーンに映し出された新聞記事の中で、キリヒトが注目したのはトップ記事の見出しだ。
『日本最年少!! 十四歳で博士課程を卒業した天才少女・白金トウコの意外な素顔とは!?』
という派手な見出しがキリヒトの目を引いた。
「“遺伝子工学でDNAの塩基配列に新たな異常を発見した功労者、白金ダイゴの一人娘”……先生の親父さんも生物学者だったのか」
「ええ。私は物心ついたときから父の研究について一緒に考えるのが日常だったから。学者としては自慢の父だったわ」
そう語られる傍らで、スライドショーのように画像が流れてゆく。
《――では次の話題です》
突然切り替わって流れた音声入りの映像は、かなり古いと思われるワイドショー番組の録画らしい。
《サイキック配列の発見者であり、そのDNA配列の特異性を活かしたバイオ兵器の量産計画の提唱者、T大学元教授の白金ダイゴ氏が人道的見解から博士号を剥奪された報道をお伝えしたばかりですが》
《今日未明、白金氏が自宅の書斎で頭部を拳銃で撃ち抜かれている状態で発見され、搬送された病院で死亡が確認されました》
《現場は密室状態で侵入者の痕跡がないこと、白金氏の握っていた拳銃に白金氏以外の指紋が検出されなかったこと、長女で白金氏と同じくサイキック配列の研究者でもあるトウコさんに宛てた遺書がデスクの引き出しにあったことなどから、自殺の可能性が高いとみられています》
キャスターが神妙な面持ちでそう告げると同時に、画面右下にショッキングな見出しが赤い文字で浮かび上がった。
『飽くなき探究心が天才生物学者を狂気へと追い込んだ!?』
『白金ダイゴ元教授(63)突然の自殺!!』
そのあとに続いたのは、リポーターの下衆な私見混じりのリポート映像や、したり顔のコメンテーターたちが白金ダイゴへの批難と嘲笑に満ちたコメントを並べ立てている様子。それらはどれも、無関係の他人でしかないキリヒトでさえも不快感を催す酷い内容だった。
「父の発見した新たな塩基配列、それが、のちに父が“サイキック配列”と名付けたことから私たち親子は黒い陰謀に巻き込まれていったの」
第一回の学会発表時では、細胞の提供者についてまでは公表しなかった。また、この段階での白金教授は提供者がサイキックであることまでは知らなかったので、彼はその新規配列が医療分野や生物学的見地からどのようなメリットがあるかという方面へ持論を展開した。学会では通常よりも強靭な体力を有するその特殊な配列の更なる研究をすべきと白金教授の発表を絶賛し、彼はそれを受けてマスコミや各界関係者からの注目を集めた。
だが白金教授は、のちに当該細胞を持つ被験者に重要な共通事項があることに気が付いた。
「もちろん絶対数は少ないわ。でも、細胞を提供してくれた被験者は、全員何かしらの特殊能力を持っていたの」
被験者たちは白金教授の人柄に惹かれ、プライベートな悩みや愚痴もこぼすようになっていた。その中で吐露された秘密を知った白金教授は、悩んだ末それを公表しようとした。サイキック配列と名付け、志を同じくするトウコへ興奮気味で伝えたのもそのころだった。
「私が博士号を取ってから数年後、十六歳のときだったわ」
「志、って?」
「父は彼らが自身の能力に恐怖を抱いていることを知った。そして、能力を持たない人々からのマイノリティに対する差別や、マジョリティの無知から来る恐怖が原因でサイキックを迫害する可能性まで考えて、彼らが怯えながら隠れ暮らしているということも、彼らの声を聞いて初めて知ったのよ。父と私は、彼らと共存していくことが互いにとってどれだけ有益であるかを啓蒙していこう、と改めて決意を共有したわ。学会だけでなく政界をも揺るがすほどの論文を発表しようとして、二人とも寝る間も惜しんで考えた。それがサイキックのマジョリティ化を目的とした能力者の量産計画推進論よ」
そして発表をしてみれば、世間は想像以上に辛辣な批判を白金親子にぶつけて来た。
「暴言の嵐で心が砕けそうだった。“新発見の報奨金に味を占めて金の亡者と化したマッド・サイエンティスト”“自然の摂理に対する冒涜”“白金親子こそが異常染色体を持つ異端者ではないか”……あとは、なんだったかしら」
常に淡々と話すトウコの声が、初めて感情の宿った抑揚を伴うものに変わった。
「父は善意と正義を全うする意思を原動力にして研究に邁進していたわ。偽善でも金に目がくらんだのでもない。ましてや人間兵器だなんて概念すらなかった。マイノリティであり、それゆえに理解を得るのが難しいのであれば、サイキックをマジョリティ化すればいい――散々模索した末、そんな単純な対応策しか思い付けなかった。だって民衆はあまりにも愚かなんですもの。ならば、その差別に気付いている私たちがどうにかするしかない。偶然の幸運でマジョリティに甘んじている愚民どもに“優越感を抱く権利などない”と気付かせて共存できるようにしたい。その一心だったのよ。なのに、どこからどうしてそういう話になったのか私たちには分からないうちに、マスコミがサイキック量産計画の最終目標はバイオ兵器の量産だと、そしてその計画の立案者が父だと報じ始めた。第二回の発表当初は発表があったこと自体すら報じなかったくせにね」
始めは民衆の敵意を煽ったマスコミを恨んだ、とトウコは吐き捨てるように言った。だが、白金教授の遺した資産を元手に独自で調査をしてみれば、思い掛けない、そして決して個人では太刀打ちできない存在が白金教授を死に追いやった張本人だと判明した。
「情報化社会の弊害ね。匿名が保たれると思えばなんでもする下衆な人間が多くなったわ。そこにお金が絡めば尚のこと。虚偽でも真実でもいい、その中から事実だけを吸い上げ、その情報提供者に報酬を与えることで勝手に“サイキック配列に関する情報をリークすればいい金になる”という噂が広がっていく」
そうやって、白金教授の研究内容は、身内のリークからどんどん暴かれていったそうだ。
「先生の親父さんを追い込んだ奴らは、どうやって情報の真偽を確かめられたんだ? 政府が個体識別コードを管理しているんだから、下手なことをすれば全部政府のマザー・コンピューターに記録されてランクをCに落とされて人生オシマイじゃんか」
キリヒトが口にした当然の疑問に、トウコはためらうことなく即答した。
「そう、黒幕が日本政府だったから、父を首謀者に仕立て上げることも、研究員から情報を得ることも簡単にできたのよ」
(にほ……え……?)
キリヒトは一瞬、我が耳を疑った。そんなキリヒトの動揺をよそに、トウコが話を続けた。
「事実上、核兵器による軍事力の優劣はもう効果を来たさない。それ以上の脅威を持つことで日本を侵略の手から守るべきである。今の政府が掲げているその理論は、父の理想論と対極にあったわ。だから政府は、サイキック研究の功労者として名を馳せてしまった父を邪魔だと判断したから陥れたのよ」
過激派が牛耳る日本政府は、愛国心を大義名分に、兵器としてのサイキック量産計画を、と白金教授に研究の方向転換を強要した。白金教授がそれを断固として拒むと、マスコミを使って情報操作をし始めた。その結果が先ほどの“マッド・サイエンティスト”報道である。白金教授は国の要人からそう脅されてから自死するまでの間、よかれと思ってのサイキック細胞発見の公表に後悔し、その心境をトウコに愚痴こぼしていたという。
「容易に言うことを聞きそうな小娘の知識さえあれば、研究の続行には事足りるとでも思ったのでしょうね。私だけが父から全権を引き継ぐという公文書を残していたし、公言もしていたから。そのことも含めて父が強気の姿勢で政府の脅し文句を袖にしてからほどなく、マスコミが父をマッド・サイエンティストとして報じ出したわ。教授の任も解かれ、博士号も剥奪された。後継者がいない間の研究権限は政府が預かるということになったわ。それから間もなくよ。今日のような寒い日だった。父の書斎から発砲音が聞こえて、慌てて父の書斎に駆け付けたら、銃口を咥えたまま死んでいる父が椅子ごとひっくり返っていたの。まるで自分の知った情報を全部デリートしたがっているかのように、頭がぐちゃぐちゃに吹き飛んでいた」
トウコが「書斎の鍵付の引き出しに忍ばせてあった遺書ですべてを知った」と心から口惜しそうに言い終えると、ほんの少しだけ沈黙が場を支配した。
コツ、とヒールが床を叩く小さな音が中二階から響いた。トウコがゆっくりと階段を降りて来る。キリヒトがスクリーンからそちらへ視線を移し、注意深く彼女の動きを見守っていると、薄明かりの中でも彼女の表情がはっきりと見て取れた。その顔は醜くゆがみ、端正な顔立ちが左右非対称に崩れて、笑うとも泣くともつかない中途半端な表情をかたどっていた。
彼女はキリヒトの前に立つと、理解を乞うように黒い瞳を覗き込んだ。
「もう私に境界干渉を仕込む必要などないと分かったでしょう? 私はキミたちサイキックの味方よ。協力してくれるのなら、どんな手を使ってでもキミを守ってみせる」
どんな解釈も可能な言い方だった。初めて知らされた事実から受けた衝撃がキリヒトを襲い、何が正しくて何が悪なのか分からない。
「わけがわかんないよ……だって、トウコ先生が今やっていることは、サイキック兵器の量産そのものじゃないか。ここも政府の直轄だ。あんたは親を殺したヤツらと手を組んでいるってことだろう? あんたはセカンドを量産して戦争に備えるために訓練をさせて来ていたんだろうが。言っていることとやっていることが矛盾しているじゃないか」
毅然と問い質したいのに、声が震えた。透き通った蒼い瞳がキリヒトをまっすぐ見つめ、切なげに揺れる。そこに敵意は見出せなかった。
トウコは迷うキリヒトをなだめるように、そして昔もそうしたように、そっと頬を撫でた。
「手を組んだのではなく、利用しているのよ。政府に個人が太刀打ちできると思う?」
思わないし、思えない。今キリヒトが受けている衝撃の一つは、直接的な相手はトウコとは言え、日本政府などという大きな組織が真の黒幕だと知ったことにもある。
キリヒトの沈黙を同意と受け取ったのか、トウコは持論を語り繋いだ。
「個人で太刀打ちできない相手なら、ヤツらの財力を利用して、私が統率する軍を作ればいい。なぜ父が死ななければならなかったの? なぜキミたちサイキックが、種芋のように兵器の素材として勝手に拉致されなくてはならなかったの?」
自分のしていることを棚に上げ、トウコが仲間面をして雄弁に語る。その一方で、白金ダイゴ教授のような、能力を持たないのに共感を示す者が過去にいたという事実が未来に淡い期待も抱かせる。だからこそ、混乱した。自分がすべきこと、目指すべき世界とはどういうものか。それが巧く自分の中で明確になってくれなくて、キリヒトはトウコへ返す反駁の言葉が思い付けないでいた。
だが。
「セカンドたちコピー・ヒューマノイドは、マイノリティが自由を勝ち取るまでの小さな犠牲よ。しかもあれらは人間ではない。私の作った芸術作品」
――モノでしかないわ。
その言葉がスイッチになった。動けずにいたキリヒトの体が動き方を思い出す。胸の内に灯った熱い何かを堪えようと両手をきつく握り締める。
「モノ……だと……?」
キリヒトの口から、自身でさえ聞いたことのない低い声が絞り出された。
「何? 聞こえなかったわ」
と問い返すトウコ心や耳には、キリヒトの小さな呟きも、胸の内に燻り始めた赤黒い激情も、何一つ伝わってはいなかった。
「ふざけるな……セカンドは」
冷たく蒼い光を放つトウコの瞳を睨み返す。握り締めた拳の内側が次第に焼けるような熱を帯びていった。キリヒトは、初めて自らの意思で風神の発動したいと思った。
「もしかして、まだアレを人間だと思っているの? セカンドのAIチップを見たでしょうに」
挑発するような言葉と、クスリと小さく笑った声。それがキリヒトの堪えていた感情を爆発させた。キリヒトの心と連動するかのように、右掌に集約させた風神が気流の塊をかたどり出す。握った掌の周辺に小さな渦を巻いたそれが、浅く深く拳を切り付ける。
「セカンドはちゃんと心を持っていた……アイツは……人間だ!!」
その直後、一瞬だけトウコが笑った気がした。だがキリヒトにそれを訝る余裕はなかった。
彼女はすぐに笑みを消したかと思うと、キリヒトからすかさず身を退いた。次の瞬間、右手を白衣の内側に滑り込ませた。腰ベルトに忍ばせていたのであろう拳銃を手にした彼女の右腕が、キリヒトに標準を合わせる。
「そう、分かってもらえなくて残念だわ」
トウコの面からは、完全に素の感情が消えていた。
「自分の意思でオリジナルとして協力するのであれば、少しでもキミの気持ちが楽になるかしら、なんてね。私らしくもない親心だったわね」
三年前と同じように侮蔑の瞳でキリヒトを見据える蒼い瞳に、憎悪さえ覚える。
「あんたなんか、親じゃない。人間じゃないのはあんたのほうだろう」
「今のうちに咆えておきなさい。脳死状態でも細胞は維持できるもの。キミには脳外の処置を施してでもこのまま留まってもらうわ」
トウコはそう言いながら、ためらうことなく手にした拳銃の撃鉄を押し上げた。
「安心して。キミに適した量の麻酔弾を籠めているだけだから」
キリヒトの額に嫌な汗が滲み出す。掌に集約された風神が暴れたがっている。コントロールの鍛錬を積んでいないキリヒトには、その威力が増していくのに抑え込めない。掌には熱と荒ぶる気流のほかに、生ぬるさで濡れた感覚まで宿っていた。
(痛……っ。ヤバい、このままじゃ、俺の手が吹き飛んじまう)
勝手に増してゆく風神がキリヒトの掌をかなり深く切り裂き、鮮血がキリヒトの足許に小さな血溜まりを作り始めていた。
(でも、放てばきっとトウコ先生も撃つ)
その気流で方向を見失ったトウコの銃弾がガクやユイを貫くとも限らない。麻酔弾と言えど、当たりどころ如何では死に至る。
(く……そッ)
中二階の真下に位置するトウコとその上にいるガクたちとの位置関係、その悪条件がキリヒトをためらわせていた。
(とにかく、トウコ先生をこの部屋の中央まで引っ張り出さないと)
トウコが前に出て来るよう入り口付近まで下がろうとして踏み込んだ途端、キリヒトは掌からこぼれ続けていた血で濡れた床に足を取られ、バランスを崩してしまった。
「うゎ……っ!」
思い切り尻もちをつくと同時に、高まり切った風神がキリヒトの手から解放される。それが一瞬でつむじ風のように勢いよく広がり、中二階から垂れ落ちていたスクリーンをバラバラに切り刻んで空を舞った。天井には大きな穴が開き、途端に大量の水が室内全体に降り注いだ。上階から勢いよく降り注ぐそれは、まるでスコールのようだ。
(セーフ……ガクたちのほうには飛ばなかった)
キリヒトの安堵とは反対に、トウコが
「ちッ、スプリンクラーが」
と忌々しげに舌打ちをした。
トウコがマザー・コンピューターへ視線を流した隙に急いで立ち上がる。今度は足を滑らせずに踏み込んだ。目指すはトウコと、その前にあるマザー・コンピューター。
「ガク! セキュリティを作動させられる! 急げ!」
キリヒトが言い終わらないうちに、中二階から影が躍り出る。トウコに向かって駆け出していたキリヒトとすれ違うように、影がキリヒトの背後に着地する音がした。
「とりまカナンちゃんにユイを預けて来る。戻るまでなんとか持ち堪えときや」
というガクの声に振り返れば、いびつな苦笑を浮かべた彼の腕の中でユイが安心しきった顔で眠っていた。彼女の両手がガクを逃すまいとするかのように彼のシャツの胸元を握り締めている。
「解除、できたんだな」
「ほっとした途端、すぐ卒倒しちまったけどな」
ガクのその言葉に警告音が重なった。
「チッ、あとは頼んだで!」
「OK、行って」
キリヒトのその言葉を最後に、二人はそれぞれの成すべきことに専念した。
人質という枷のなくなったキリヒトに躊躇はなかった。
トウコはマザー・コンピューターの前で、まだ何か操作を続けている。先ほどの警告音はセキュリティ・システム稼働を知らせるものだったのだろう。TAMA研究区のときもそうだった。何重ものパスワードを要求する仕様に設定することでハッキングを防いでいたのを思い出した。
「させるかァ!」
駆ける足が跳躍に変わる。風神に破壊されたスプリンクラーの配管から滝のように流れ落ちる水がキリヒトの視界を遮るが、おぼろげに見えるシルエットに向かい一気にジャンプした。
「え……?」
二発目の風神をマザー・コンピューターごとトウコへ放つつもりの手が一瞬止まった。
「キリ、三年振り。相変わらずだな」
一瞬、例えでなく息が止まった。穏やかに紡がれた声がキリヒトに驚きと懐かしさを同時に与える。
「な……んで……?」
セカンドであってセカンドではなくなったはずの器に、表情が宿っていた。
「遅いわよ、セカンド。キリヒトくんに解除キーを口にさせるのが早過ぎたようね」
セカンドの後ろからトウコの忌々しげな声が聞こえた。
「解除キー……って、なんだよ」
「“セカンドは人間だ”なんて言ううちは、まだやんちゃ坊主のままだろうと思ってね。セカンドのAIに記憶制御の解除キーをその言葉に設定しておいたの」
「……そんな……まさか……」
ざわりと全身が総毛立つ。記憶と感情が一気に三年前の自分に引き戻され、キリヒトは写し鏡で自分を見る錯覚に陥った。
笑っているのに今にも泣きそうな表情で自分を見る相手に、懐かしさがこみ上げる。昔と変わらない黒一色で統一された服装は、彼と泣いたり怒ったり、そして大人たちをからかうイタズラをしては笑っていた遠いあの日を思い起こさせた。
「最悪な目覚めだね。相変わらずトウコ先生は陰険だ」
キリヒトを三年前に引き戻した碧い瞳の持ち主が、醒めた微笑を浮かべてそう言った。
「なんとでも言うがいいわ。四肢のシステムはキミの自由にはならないもの」
セカンドの背後から顔を覗かせたトウコがそう言って、これみよがしにセカンドにもたれかかった。セカンドは呆れたように溜息をつくが、彼女の身を剥がすこともせずにただそこに佇んでいた。
「さあ、三年前の続きよ。今度は私に境界干渉を差し込むなんてズルはなしの、一本勝負」
愉しげに笑うトウコに明確な殺意を覚えた。体の芯が火照り出し、腹の底から煮えくり返る激情が掌へ集まっていく。
トウコがセカンドから離れ、マザー・コンピューターのエンターキーを押すと同時に、セカンドが動き出した。
「!」
あり得ない速さでタックルを掛けられたかと思うと、身体がトウコの居た場所から正反対の壁へ強く打ちつけられる。
「痛……ッ」
「キリ、戦意を失くしてどうするんだよ。もしまた俺に情けなんかを掛けたら、あの日をもう一度やり直す破目になるよ」
そんな説教臭い言い方も昔のままだ。反射的に「ごめん」と首を縦に振りそうになる。
「待てよ! マザー・コンピューターをどうにかすればセカンドは支配されなくて済むようになるんだろう?」
キリヒトの言葉に答えはなく、代わりに思い切り胸ぐらを掴まれて立たされた。そのままセカンドが跳躍者で中二階までジャンプする。キリヒトが一息つく間もなく、セカンドが目の前を跳躍者でさらに上階へと上って行く。
(マズい。重力を利用して加速する気だ)
慌ててセカンドを追い駆ける。各フロアからせり出したテラスの手すりを足場に、三階、四階――五階へ辿り着いた先のテラスで、意外にもセカンドは降下せず、キリヒトを待っていた。
「俺は殺人兵器として生きながらえるのなんかゴメンだ、って言ったはずだよ」
そう言って寂しげに笑うくせに、セカンドの左手はゆるりと持ち上がり、その周辺に気流の渦を集め始めた。
「三年前に差し込み合ったシナリオはループじゃない。今回は境界干渉でキリに殺してもらうことができないんだ」
苦渋に満ちた顔で、セカンドがキリヒトの顔目掛けて風神を解き放つ。
「――ッ、ごめん!」
咄嗟にセカンドの腹へ思い切り蹴りを入れた。その反動を利用して手すりの上へ退避する。そのまま逃げるように、キリヒトは最上階のテラスを転々と跳躍し続けた。セカンドがそのあとを追いながら風神を二度三度と繰り出して来る。そのたびに壁に穴が開き、せり出したテラス状の中間層が崩れ落ちて階下に瓦礫の山を作っていく。
「少しは成長したんだな。手加減していないのに、逃げるのが格段に巧くなってるじゃん」
最上階まで追い詰められたキリヒトにセカンドが言う。とても嬉しそうな顔をして、期待に満ちた目で告げる。
「今度こそ、俺の願いを叶えてよ、キリ」
ちゃんと壊してよ――そう言って、セカンドは自分の頭を指差した。
キリヒトは望んでもいない三年前の再現を無理やり演じさせられることに強い憤りを抱えたまま、その吐き出し場所がなくて対処できない状態に陥った。
自分の頭を指差していたセカンドの手が上を指す。天井の抜けたラボからは、鈍色の空が見えていた。
「これだけの空気があれば、このラボ一つくらい本来のキリなら簡単に吹き飛ばせるね」
セカンドがそう言って微笑んだ次の瞬間、全階が吹き抜け状態になったメインラボ一体に鼓膜をつんざくような爆音が轟いた。