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サブリミナル  作者: 藤夜 要
本編
12/16

11. カミングアウト――ガクの真意

 手動で開錠された通用口をくぐり、広いエントランスへと向かう。距離にして約十メートル。今入って来た通用口から数分も掛からない。そこで初めてガクが立ち止まり、少し遅れて進んでいた二人に向き直った。

「やっぱり二人とも俺を疑うわなあ。俺がトウコとグルや思うてるんやろう?」

 ガクはそれだけ言うと、ポケットから煙草を取り出して不味そうに紫煙を燻らせた。

「弁解くらい聞いてあげるわよ。キリちゃんを半年近くも泳がせていた理由は、何?」

 カナンがキリヒトの後ろから一歩前に出て並び、挑む視線をガクに向けて問い質した。

「なあ、おかしいと思わへん? ラボは極力無菌状態を維持せなアカンはずやのに、煙草を吸うても警報すら鳴らん」

 カナンの質問を無視してそう呟いたガクが、今度は火がついたままの煙草を床に落として靴底でねじり消した。

(警報が煙草の熱にも反応しない……?)

 オート・セキュリティ・システムが稼動していれば、不自然な熱に警報とスプリンクラーが反応するはずだ。

「スプリンクラーが作動しない……どうして?」

 ガクを見据えていたカナンの表情が天井を見上げて強張った。キリヒトもガクの踏みつけた煙草に意識が逸れた。

「セキュリティが作動しない。つまり、わざとシステムダウンさせていると解釈してええやろう。トウコと取引するにしても、あの女は信用なんかできひんからな。ユイが軟禁されている場所を特定してからアポを取るつもりでいた」

「つまり、今日は本当に潜入調査のつもりだった、このシステムダウンはガクの想定外、ということ?」

「せや。ということで、カナンちゃんはここでストップ。俺を信用しようがしまいが、今はそんなんどうでもいい。俺かキリのどちらかがユイを連れて戻る。それまではそこの収納庫に隠れて待機。万が一マズい状況になったら隙を見て建物から逃げろ。もし戻れなかった場合は一人で行け。ユイの気性は分かっているな? 間違っても自分が助け出そうなどと考えるな」

 異論は認めない、と容赦のない低い声で締め括られた。ガクの口惜しげな表情が芝居だとは思えない。それはカナンも感じたのだろう。反駁しようと口を開くものの、言葉が出なくてまた口を閉じる。やがて彼女は悔しげに俯いて、両の拳を震わせた。

「……臨機応変に、ということね。了解」

 彼女に言い分がないのを確認すると、キリヒトはガクへ率直に訊いてみた。

「ガク、いつからトウコ先生と繋がっていた?」

「……律子がトウコに捕まったとき、かな」

 多分、嘘はついていない。一瞬苦しげにゆがんだガクの顔を見て、キリヒトに細い希望の光が射した。

「赤羽律子さん、確かカナンが言っていた、火炎龍(サラマンダ)の能力者だよな。ガクがその人をリークしたわけじゃないんだ?」

「食わせてくれた恩人や、売る気はなかったさ。信じるかどうかは好きにしたらええけど」

「その人との関係を聞いてもいいか?」

「律子は俺がホスクラで働いていたときの上客。暮らしを質素にしていたものの金回りのいい女だったし、囲ってくれるって言うから食わせてもらっていた。能力のことはお互いに隠していたけれど、ワンルームの狭い部屋で一緒に暮らしていたら、まあバレるわな」

 ガクが意図せず彼女の火炎龍(サラマンダ)をラーニングしてしまい、コントロールの仕方が分からず暴発させたことがきっかけで、互いが能力者であると判ったらしい。

「能力の内容としては爆発系だったから、律子は一度も外で能力を解放したことがない。あいつ、俺が下手を打ったのに速攻で引っ越しをして俺を囲い続けた。でもまあ、当時の俺もトウコを舐めていたとしか言いようがないな。あの女は俺をマークしていたのだと思う。出先からアパートに戻ったときには律子に関するものが一切消え失せていて、トウコからのメッセージとここの通行証だけが残っている状態だった」

 ガクは赤羽律子を取り返そうと、トウコが置いていった正規の通行証を手に、つくば学術研究区へ赴いたそうだ。トウコは赤羽律子を解放する条件として、サイキックの放つオーラを敏感に察知するガクにサイキック狩りを命じたという。もちろん、キリヒトの捕獲を最優先に、という補足も加えて。

「ま、結局は俺もいいように踊らされていたのが判ったから、今のねじろに逃げ込んでんけど」

「踊らされた、って? 赤羽さんはどうなったの?」

「研究員が目を離した隙を見て自爆したんだとさ。新米研究員がうっかり口を滑らせているのを立ち聞きして、やっと自分がトウコに利用されていることに気が付いた」

「……」

 笑ってそう言うガクを見て、キリヒトはようやく気が付いた。

(自嘲……だったのか。さっき笑ったのも)

 知るのが遅過ぎたこと。取り返しのつかない悪行に手を染めた後悔。それらの想いがガクとセカンドを重ねて見させるのかもしれないと思った。

「あの、さ、ガク。赤羽さんが死んだのは、ガクのせいじゃ、ないから」

 なんと声を掛けていいのか分からない。だが沈黙に居た堪れなくなり、キリヒトはおそるおそる慰めの言葉を口にした。その途端、ガクの自嘲めいた笑みが消えた。

「おまえのそういう甘っちょろいところが、見ていて苛々する。TAMAから逃げ出したあとも人の善意に甘えてのうのうと生き延びよったなあ。その陰で何人死んでいるのかも考えずに」

 嫌悪に満ちた目を細められ、キリヒトは蛇に睨まれた蛙のように固まった。

 逃亡に不慣れだった最初の半年間は、子供という見た目の特権を利用して、善意の大人たちに保護されながら生きながらえた。そんな甘えた逃亡生活を半年でやめたのは、キリヒトが身を寄せてほどなく、彼らが事故や病気で急死することが二度三度とあったためだ。キリヒトが三度目の後見人を亡くしたときにはさすがに偶然とは思えなくて調べてみた。その結果、見えない何者かがキリヒトに関わる人間を意図的に排除していることが判り、それ以降は人に頼るのをやめた。ガクはそれも調査済みだったのだろう。

「俺に同情する暇があったら疑うくらいの警戒心を持てや。こっちもヒントを出しておいたし、おまえをトウコに引き渡すのがユイを返してもらう条件だ、という推測くらい浮かんでいたはずや。性懲りもなくカナンちゃんを巻き込みよって」

 忌々しげに吐き出された悪態へ返す言葉もない。

「ユイを取り返したら別行動や。てめえのやらかしたことの始末はてめえで付けろ」

 やらかしたこと――三年前、トウコを完全に仕留めたかどうか確認もせずに逃げ出したこと。自分のその判断ミスが、今の事態を引き起こしているのだ。

 固く目を閉じ、激情を奥歯で噛み潰す。いくら過去の自分をそしっても疎んでも、過去はやり直せない。

(今考えることは、それじゃない。今からどうするべきか、だ)

 そう自分へ言い含めるキリヒトの前にうっすらと影が被さった。

「ガク、セカンドくんもキリちゃんも、そのときの精いっぱいだったとは思わないの? まだ十五歳だった上に、外の世界を知らずに育って来ていたのよ。それに、今回の件については私がキリちゃんを巻き込んだの。そこは勘違いしないで」

 重い瞼を開けて顔を上げてみれば、眩しさを覚えるほど豪奢な亜麻色の髪を揺らすカナンの背中がキリヒトをガクから守っていた。

 キリヒトの面に苦笑いが浮かぶ。カナンにそこまでしてもらう資格などないのに、という言葉を呑み込んで、なおもガクを責めるカナンにストップを掛けた。

「カナン、いい。ガクの言うことが正しいから」

「キリちゃん、ガクの言うことを鵜呑みにするの? 前の能力者との話だって、今の段階ではどこまでが本当か分からないじゃない」

 こちらを振り返って心外だと言いたげな視線を向けて来るカナンに合わせる顔を持ち合わせていなかった。

「俺の甘さがトウコ先生にセカンドを再生させることになったのは事実だ。その落とし前は、自分で付けに行く。カナンは俺が連絡するまで安全な場所で待機していて」

 その連絡の内訳が、二人だけの連絡手段からの連絡を指しているのだと判るように、こめかみを掻く振りをして耳元を指し示した。

 カナンはキリヒトが意図したとおりに受け留めたのだろう。悔しげに唇を噛みながらも、小さくこくりと頷いた。

「……キリちゃんがそう言うなら……今回だけは折れてあげる」

 カナンがどんな表情でそう述べたのか、キリヒトに背を向けているので分からない。だが少しだけ険しさが和らいだ気がした。

「ガク。もしあなたがキリちゃんの目的を邪魔するようであれば、それなりの対応をさせてもらうから、そのつもりで行動しなさいね」

 カナンの脅し文句を聞いたガクが軽く目を見開く。

「何、隠し玉でも持っているん?」

「姉様の境界干渉(サブリミナル)を解除さえできれば、例え姉様からのコールがなくても、姉様にだけは私からコンタクトが取れる、ということよ」

 カナンにそう言われて初めて疑問に思い、同時にその回答を得て少なからず驚かされた。

 言われてみれば、カナンが具体的にどういう形でユイとお互いの能力で得た情報を共有しているのか確認したことがない。ユイが遠隔通信(コーリング)で意思の疎通をはかれるのは当然だが、カナンからユイにコンタクトを取る手段は、普通に考えればないはずだ。

「……血筋、か」

 ガクがひどく面倒くさそうな顔をして独り言のように呟いた。

 カナンはガクに精神的な枷をつけられたのを確信すると、くるりとキリヒトに向き直った。

「じゃあ、行ってらっしゃい」

 とても軽い、明るい言葉。まるでキリヒトの緊張をほぐすような、勝ちを確信した、不遜でいて愛くるしい微笑。

「……できるだけ早く連絡するから。行ってきます」

 誰かに信用されるとか、待つ人がいる状況だとか、そんな感覚は久し振りで。

(なんだかな……)

 どこか温かくもくすぐったい何かを感じるものの、キリヒトはこういうときにどんな顔をしていいのかが分からくて、逃げるようにカナンの横を通り過ぎた。

「ガク、行くよ」

 足早に近付いて、歩みを止めないままガクの腕を取ってその更に先へ進む。

「お? あ、らじゃ」

 不意を突かれて素を出したガクに少しだけほっとした。

 ガクは自分の支援はしないだろうが、ユイとカナンのことだけは守ってくれると信じられた。

 足早な靴音がラボの奥に向かってコツコツと響く。それからほどなくして、キリヒトたちとは反対側に向かう軽快な靴音が響き、遠のいていった。


 エントランスを抜けて長い通路を進んだ突き当たりはエレベーターホールだった。その扉が二人を招くようにぱくりと口を開けて待っているかのように見えた。どちらからともなくそれに乗り込むと、エレベーターは停止階を勝手に点灯させて上層へと上っていった。

「ガク、ずっと気になっていたことがあるんだけど」

 キリヒトは答えなど得られないと半ば諦めつつも、セカンドから聞いた“サイキッグ・G”の正体を彼にぶつけてみた。

「サイキックがいなければ使い道のない無能の能力だ、というのがガクの口癖なんだけど、本当にガクは無能なのかな」

 互いに扉が開く瞬間を警戒して両サイドの壁にそれぞれもたれている。ガクは扉上部にある階層表示灯を見つめたまま無表情で「せや」と簡潔に即答した。

「でも、トウコ先生がマークするほどの能力者、ということだろう? 俺にはガクが無能とは思えないんだけど」

「買いかぶり過ぎやろ。トウコが欲しいのはコピー能力だけやろうし、俺に使える能力があるなら、律子を死なせることもなかったし、今回だって一人でユイを取り返している」

 取りつく島もないといった雰囲気を漂わせるガクを真似るように、キリヒトもぼんやりと階層表示灯を見上げた。

「セカンドが最期に言っていたんだ。自分を構成する素体のサイキックが二人いる、って」

 ガクが階層表示灯から自分へ視線を移すのを感じた。キリヒトは彼の視線から逃げるように俯いた。

「もう一人は “サイキック・G”と呼ばれていたみたい。俺の細胞組織を抽入するのに全身麻酔を掛けられていたそうなんだけど、たまたまそのときは早く麻酔が切れて、研究員たちの会話を耳にして知ったんだって……自分が、俺の家族ではなくヒューマノイドだったことを知って間もないころだった」

 セカンドと一緒に初めてトウコの『サイキック量産計画』を知ったときの感情が蘇る。

「戦争の道具にはなりたくない、って。殺人兵器なんかにはなりたくない、って。TAMA研究区から逃げるその日の朝までは、ずっと口癖のように言っていたんだよ、アイツ」

 く、と奥歯を噛み締めて堪えようとしても、三年前に泣き損ねた分の涙がこぼれ出す。

「あの戦闘はおまえさんらの猿芝居だった、ってか」

 そう問うガクの声音は、カナンと一緒にいたときより少しだけ和らいでいた。

「うん。俺もセカンドに一杯食わされた。俺に殺傷レベルを下げた訓練用のシナリオじゃなく、実戦用のシナリオを差し込んでいたみたいだ」

「……ふぅん。で? それとサイキック・Gとやらとは、なんの関係があるん?」

「セカンドは死を覚悟していた。だから俺に、身体があるうちに外へ連れて行ってと言ったんだ……サイキック・Gの能力を分けるために」

 境界干渉(サブリミナル)以外の能力ではセカンドに敵わなかった。細胞を適合させるためにキリヒトもセカンドの細胞を定期的に取り入れる処置を施されていたが、その量は微々たるものだ。だから自分のものではない能力は今一つ伸び悩んでいたのだと思う。

 キリヒトの説明や推測をガクは黙って聞いていた。否定はしないが肯定もしない。無言がガクの関心の度合いを表していた。だから、思い切って核心に触れてみた。

「セカンドの採った能力の分け方が、ガクのそれと、同じだった」


 ――サイキック・Gって、ガクのことじゃないのか?


 キリヒトが本題を口にすると、異様なまでの静寂がしばらくエレベーター内を満たした。

「……だとしたら?」

 ガクの冷ややかな声に思わず顔が上がる。彼は再び階層表示灯へ視線を戻していた。

「本当は、ほかに、それも物理攻撃系の能力を持っているんじゃないか、って。トウコ先生がガクにも執着する理由って、それしか思い当たらないし」

「そんなことないやろう。愛人って発想はないん? 俺はトウコに男娼宿から身請けされたって話をしたよな?」

「あの人はサイキックを人間と見做していない。ガクをそういう対象にする発想はないと思う」

 ガクがキリヒトの知りたいことに答えないまま、無情にもエレベーターが到着を告げた。


 開いたエレベーターの扉の向こうで二人を待ち受けていたのは、窓一つないという異質な廊下。そのごく一部だけを照明が照らしていた。それはまるで目的地へ促すかのように、枝分かれする廊下の一方向だけがともっている。二人はそれに誘われるまま、気まずい無言を通して先へと進んだ。

「キリも能力模倣(イミテイション)が使えるようになったのか」

 キリヒトより数歩先を歩いていたガクが、不意にそんな形でキリヒトの疑問に答えた。

「え……あ、いや、試しようが、ないし」

 意外だったので、驚いて咄嗟に立ち止まる。

「ホンマ、腹立つくらいキレイやな、キリちゃんは」

 そう言って振り返ったガクは、またあの笑い方をしていた。

「え、っと……?」

「ガキのころから、ホンマにそのまんま変わってへんなあ。跳躍者(リーパー)を逃げるときにしか使わへんし、風神(カザカミ)なんざ発動の仕方すら忘れてるんと違うか?」

 ガクはそう言ったかと思うと、おもむろに右手を上げた。

「!」

 彼の掌に、気の流れが集約していく気配を感じ取る。とてもとても小さなつむじ風が彼の掌の上でくるくると踊る。ガクが手をぐっと握り締めて再び広げると、イリュージョンのラストのように、つむじ風が消えていた。

「それ……風神(カザカミ)は、ガクがオリジナル、だったんだ」

 彼に対する恐怖よりも驚きのほうが大きかった。小さなつむじ風に留めるほど繊細なコントロールなど、キリヒトには不可能だ。

「アホか。これが俺の限界。つまり、セカンドを介して能力模倣(イミテイション)でキリちゃんの風神(カザカミ)をレンタルしてみたものの、この程度の出力しかできませんでした、っちゅうこっちゃ。おまえさんの持つ能力はコピーが難しいということやろう」

 それだけに、オリジナルと遜色のないレベルで能力をコピーできたセカンドは、トウコにとって貴重な唯一の成功例だったと言う。

「俺ができるのは、せいぜいが跳躍者(リーパー)でユイを連れてトンズラすることくらいや。おまえさんの敵にもなれないし、協力もできひん。俺もキリちゃんの境界干渉(サブリミナル)と同様、跳躍者(リーパー)の訓練は逃げまくっていたからな。ま、その逃げが訓練になってしもうとった感じやけど」

 ガクはそう言って苦笑した。

「ゲロするつもりはなかってんけどなあ。ホンマ、ずるいわ、キリちゃんは」

 言われた意味が分からなくて、「なにが」と問い返す声が意図せず尖った。

「キリちゃんの言うとおり、とっととトウコへ引き渡しておけばよかった、ってこと。いろいろと思い出す前に」

「いろいろ、って?」

「騙されているのも知らんと、トウコなんかに母親よろしくメッチャ嬉しそうに笑って抱き付いている無邪気なツラとか。セカンドと阿呆みたいにデカい口開けて寝こけている映像とか。訓練から逃げ出しては研究員たちへ悪戯をかましてドヤ顔もしとったよなあ。今みたいなどんよりとした顔でのうて、やんちゃ坊主そのまんまの明るいツラをしていた。騙されているとは言え、すさんだ環境で育ったわけとは違う。そうすると、こんなにキレイに育つんや、って……当時はまだ俺も若造でしたから、いろいろとフクザツな心境だったわけですよ」

 ガクは面映ゆそうにそう述べると、再びキリヒトに背を向けて先へと進み始めた。

「最優先は変わらへんけど、二番目には優先したるわ。せいぜい気張りや」

 先ほどから繰り返されている言葉なのに、キリヒトの中で彼の声音の響きが今は違っていた。

(……充分だ。ガク、ありがとう)

 心から、そう思った。

 キリヒトの進む靴音が早足になり、ガクを追い抜いた。

「ここから先は俺一人で行く」

 彼に背を向けたまま宣言する。

「俺は俺の意思で先生やセカンドとケリを付けに来たんだ。ガクに利用されてここまで連れて来られたわけじゃない。だからガクはガクのすべきことをすればいい。ユイさんを探しに行けよ。見つけたらすぐにカナンと合流してここから逃げて」

 そう言ったあとは、目の前のことに集中した。

 冷たい床を蹴る音が一つだけコツコツと響く。行く手を指し示すシーリングライトが照らす先は行き止まりになっていた。小さくともる赤のランプは、扉のロックを示している。キリヒトがもう数歩ほど近づくと、赤の点灯が緑の点滅に変わり、そして行き止まりの扉がシュンと小さな音を立てて全開された。

「……」

 三年ぶりに、トウコと会う。間近であの声、あの顔を見ても、今の自分を保てるのか。自信があるわけではないけれど。

(カナン)

 小さな声で、マイクに向かってそっと呼ぶ。イヤホン越しにキリヒトをなだめる優しい声が鼓膜を揺らした。

『うん。全部聞こえていたわ。キリちゃんの考えも分かった。でも、一つだけ却下よ』


 ――キミを独りぼっちになんかしない、と言ったでしょう。


『セカンドくんとの約束なの。だからガクがガクのすべきことをするように、キリちゃんがキリちゃんのすべきことを全うしようとしているように、私も私のすべきことを、私自身で決めたことを、実行する』

 だからちゃんとセカンドと逢わせろと、柔らかな声でキリヒトに命令する。人の恋路を邪魔するなと、おどけた口調で文句まで繰り出す。

「……了解」

 彼女の強い想いに逆らえるはずがなかった。

 キリヒトがカナンとの通話を終えて扉の向こうへ進もうと数歩ほど踏み出したとき、一つだった靴音が二つに増えた。それが遠のくのではなく近付いて来ていると分かり、キリヒトは驚いてガクのほうを振り返った。

「待てコラ」

 キリヒトに文句を言う間も与えず、しかめっ面をした背高ノッポが大股歩きで近付いて来る。

「勝手に一人で行かれると都合が悪いねん。俺が引き渡さな、ユイを返してもらわれへん」

 そんなこじつけの弁が、なんだかとてもおかしくて。

(ホント、考えてみたら、ガクって基本的にお節介だよな)

 ねぐらや日用品、衣類を買い与えてくれたり、店番と称して好きな映画作品を見放題にさせてくれたり。

 そういう人、なのだ。ガクは決して悪人ではない。ただ、不器用で面倒くさいキャラで、無駄にプライドの高い、若作りのおじさん、というだけだ。

 そう思うと自然に顔がほころんだ。

「でも、ユイさんの居場所が分からないよ。そっちを調べるほうが先じゃないのか?」

 と一応辞退を試みる。

「あの女が大事な取引材料を目の届かん場所に放置するわけがないやろう」

 一理ある。同時に、ガクの説得はもう無理だな、とも思い知る。

「納得。つまり、この扉の向こうにユイさんもいる、ということだな」

「多分な。あくまでもおまえがトウコを陽動する担当や。手は貸されへんから、そのつもりで」

「分かってる」

「ほな、行きますか」

「……了解」

 二つの靴音が再び響き出す。その靴音は、エレベーターを降りた直後よりも迷いのない一定のリズムを刻んでいた。

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