09. 決断のとき――カナンの恋とキリヒトのトラウマ
三人が不自然な距離を保ったまま、技術研究部門のあるGエリアに向かって歩く。案内人のガクを先頭に、その数歩あとにカナンが続き、カナンとガクが交わす会話を辛うじて聞き取れるほどの距離を保ってキリヒトが最後尾で進んでいた。
ゆるいながらも冷たい真冬の風が、寒がりなキリヒトの頬から体温を奪いながら通り過ぎてゆく。キリヒトが痛みに近い冷たさで肩を縮こまらせると、雲間から顔を覗かせた太陽が路面に三人分の長い人影を作った。ガクの影は、キリヒトのところにまでは届かない。彼の一メートルほど後ろを歩くカナンの影が俯いたキリヒトの視界の隅にようやく入る、その程度の、付かず離れずの距離。
キリヒトはその距離間隔を見て、互いの心の距離とリンクしていると思った。
「なあ、カナンちゃん。俺の過去とやらをどこからどこまで視たん?」
三人の中で一番沈黙に耐久性のなさそうなガクがとうとう口を開いた。
「さっき言ったとおりよ。赤羽律子さんと一緒に暮らしていたころだけ」
「それ、絶対ウソや」
「ウソじゃないわ。視えるからこそ、パンドラの匣の神話が骨身に沁みるのよ。過剰な好奇心は身を滅ぼすわ」
「えらく実感がこもっているなあ」
「初めて千里眼を使ったときに痛感したの。それ以来、無駄に覗き見をするような真似はしないと決めているの」
「初めてのときは何を視たん?」
「姉様の、子供のころの時間軸」
「……なるほど、納得。話は聞いたことがあるわ」
「理屈では姉様への愛情から両親がそうしたのだと解っているの。でもね、やっぱり警戒してしまう気持ちは、今でも拭えないから。私が視なければ、両親に気難しい娘だなんて無駄な苦労をさせなかったでしょうにね」
「んー……でもまあ、ユイの機転とカナンちゃん自身の行動のおかげで、キミがキミらしく在れているんと違う? ママさんの言う“女らしさ”云々なんてカナンちゃんには似合わんし」
「それ、どういう意味よ。それで慰めているつもりなの?」
「あれ? また俺マイナス・ポイント稼いだん?」
「どうして姉様はこんなデリカシーのないおじさんが好きなのかしら。男性の趣味が悪すぎる」
「待てコラ」
「まあ、完璧な人間なんていない、ということね。姉様にもそういう欠点があったんだな、と思うしかないか」
「それが未来のお義兄様に言う台詞ですかァ!?」
「認めた覚えはないわ」
「ひどい」
数メートル先から漏れ聞こえて来るそんな会話をキリヒトは漠然と聞いていた。
「せやけど、それって使える能力やん? ちょっとだけ分けてえな」
「よく姉様の妹にそんな台詞を吐けるわね」
「ラーニング方法のことを言うてるのん? 何もチューでなくてもイケるねんで? 極端な話、喉笛を掻っ切って粘膜に接触させる形で献血してもろうたら」
「殺す気ッ!?」
「せやからそれは極論やて。粘膜接触でそこそこの量をもらえればええわけやから、例えば鼻血ブーしたときにおすそ分けさしてもらうとか、耳掃除のときに外耳に傷できて血ィ出たー、いうときに耳掻きで更に傷を押し広げて」
「変態」
「えらい言い草やな。こっちは根本的に無能やさかい、生き抜くのに必死なだけや。カッコつけてる余裕なんてあれへんしな」
「まっとうに汗水流して働くという選択肢はないの?」
「正論過ぎて涙目なんですけど」
「自業自得よ」
その会話は一般人が聞けばあり得ないほど奇天烈なのに、世間話のように軽い口調で交わされている。
(なんでそんなにあっけらかんとしていられるんだよ)
なんだかんだ言いつつも、しまいには並んで歩き始めたガクとカナン。キリヒトはそんな二人の後ろ姿をぼんやりと見つめながら、言いようのない疎外感に襲われた。
幹線道路を何度か横切るうちに、辺りは次第に閉鎖的な雰囲気に変わっていった。奥へ進むに連れて行き交う人とのすれ違いは減っていたが、Gエリア付近まで来るころには完全に人の気配が消えていた。
中心部に技術研究施設が立ち並んでいるGエリアの外観は、キリヒトに既視感を抱かせた。
(まるで、“果て”だ)
高い塀を見上げて、ぼんやりと思う。その塀はGエリアとほかのエリアを明確に区切り、その塀の上からは森の樹々が幹線道路まで太い枝を伸ばしている。塀の中からは何も音が聞こえない。少し強くなって来た北風が常緑樹の枝葉をこすって、かすかなざわめきを立てさせるだけだ。それでも塀の天辺が見える分、TAMA研究区の“果て”よりはマシだと思った。
壁に沿ってぐるりと回り、三人が入り口のゲートに辿り着くと、ガクが個体識別コードの記憶された入場許可カードをゲートのパネルに読み込ませた。ほどなくギィと重みを感じさせる軋んだ音が辺りに響いた。ガタガタと古めかしい錆びた音を立てながら、重い鉄の扉が壁の中に引き込まれていった。
「Cエリアとは随分違うのね。舗装道路もガタガタだし、森のせいで薄暗い」
キリヒトが二人に追いつくと、カナンが扉の向こうを見ながらそんな感想を述べているところだった。
「せやな。軍事機密も含んだ研究セクションが詰まっている区域やさかい、極力人目から隠せるよう森で施設を囲んでいる感じや」
「人や車両が入りづらいようにしている、ということ?」
「そんなところやな。セキュリティはほとんどがコンピューターによる自動制御らしい。直接研究に関わっている人間なら世間話の延長で“ついうっかり”なんて情報漏えいは考えにくいものの、部外者が多く入り込んだら守秘義務の徹底が難しくなるからやろう。ま、それは俺の推測でしかないけどなー」
「納得のいく推測ね。まるでガク自身が内部の人みたい。内情をよくご存知で」
カナンの皮肉めいた物言いと声が、キリヒトの中で混沌としていた何かとリンクした。思わず俯いていた顔が上がる。
(そうなんだよな。事前に偵察していたとしても、内部事情にかなり詳しい)
まだ何かが引っ掛かっていて、腑に落ちない。カナンの一言で何かが閃いたのに。
「取り敢えず二人とも歩かへん? チェックから五分後にはゲートが自動で閉まってまうで」
と先を急かされて、その会話は曖昧に終わってしまった。キリヒトの脳裏によぎった閃きも、閉門を告げるブザーの音で驚いた拍子に消えてしまった。
樹海を思わせるクスノキがメインの森は、全体で七キロ四方ぐらいになると言う。ゲートをくぐってからも、それまでと同じようにキリヒトだけが数メートルほど二人に遅れて森の奥へと進んでいった。
「カナンちゃん、自分の身は自分で守る、言うてたけど、具体的には? 何か得物でも持って来ているん?」
相変わらずの距離を保ちながら、キリヒトはガクとカナンの会話を漠然と聞きつつ“引っ掛かり”についての思考を続けていた。
「銃刀免許を持っているから、お父様が桐之院女子へ入学したときにお祝いとして護身用の拳銃を贈ってくれたの。これなら使い込んでいるから手に馴染んでいるし、体格差で極真の技が決められないときでも自力で身を守れるわ」
「いやいやいやいや何言うてんのん。女の子がそんな物騒なモノ持ち歩くんじゃないっつうの」
「ガクこそ何を言っているの? 桐之院女子に通う子の大半が要人の娘だったり、大企業の役員クラスを父親に持っている人だったりするのよ? みんな普通に護身用の技術と道具を持ち歩いているわ」
「はぁ……別世界やね。まあとにかく、カナンちゃんは俺がガードするさかい、それはこっちに寄越し」
「イヤよ。私が丸腰になるじゃない」
「後生だから。実戦経験はないやろう? 動く的は射撃場での実績ほど思い通りにはいかへんで」
「分かって、っていうか、まさかあなた、丸腰で来たんじゃないでしょうね。偵察に来たんでしょ?」
「あー……その、まさかです」
「バカなの!? 何かあったら、って考えなかったの!?」
「だって、偵察だけのつもりやったしー。ボディ・チェックを受ける事態になったとき、拳銃なんか持っていたら余計に面倒くさいことになるやん?」
既視感のある会話にまた引っ掛かる。武装の打診はキリヒトもした。ガクの答えは、今カナンに告げたものと同じだった。
(何かと根回しのいいガクにしては、読みが浅すぎる気は、したんだよな)
言われた当初は納得できる部分もあったので食い下がらなかったけれど。
(サイキック・G……セカンドが言っていたもう一人のサイキックは、やっぱりガクなのかな)
キリヒトはいつも物理攻撃戦ではセカンドに連戦連敗していた。
(もし境界干渉以外の能力が俺のものじゃなかったとしたら?)
セカンドとは文字通り“半身”に近い関係だった。セカンドの身体がキリヒトの細胞に抗体を作って拒否しないための処置だと説明され、互いの骨髄を移植し合ったこともある。当時はセカンドの病気治療だと認識していたが、実はそれが能力のコピー実験だった可能性はないか?
(ガクがサイキック・Gだとしたら、得物を必要としない理由にも説明がつく。でも、それだけがあの余裕の理由と言い切っていいのか?)
古典映画研究部門の教授からAランクの個体識別コード申請を打診されたと言っていたが、それはいつの話だ? ユイが拉致されてからまだ数ヶ月、ユイの行方不明がきっかけでつくばに通うようになったとすれば、申請から交付までの期間が短過ぎる。では、それ以前にもう打診されていた?
(だとすれば、その理由や用向きはなんだ?)
そもそも、古典映画研究部門の教授とやらの話は、ついさっき聞いたばかりなのでリサーチをしていない。その部門や教授は実存するのか?
(まさか、ね……)
キリヒトの歩む足が一瞬止まる。豪奢な金髪をたなびかせて冷たく微笑むトウコの蒼い瞳が、キリヒトの脳裏をふとよぎった。
「もうっ、ガクと話しているとイライラが止まらないッ」
前方から聞こえたカナンの声でキリヒトは我に返った。
「森の中はオートマタがパトロールしているだけなんでしょう。怪しまれることもないし、ガクは森の出口まで先に行っていて。キリちゃんとモバイルを交換して使い方の説明をしがてら追い付くわ」
「交換?」
とカナンの言葉を繰り返しながら顔を上げて前を見れば、頬を膨らませたカナンが肩をいからせてキリヒトのほうへ引き返して来るところだった。
「そうよ。最近コールナンバーを替えたところなの。ガクにそのナンバーまでばれるなんて嫌だもの。キリちゃんが私のモバイルを持っていて」
と返すカナンの向こうから情けない声が被さって来る。
「えらい嫌われようやなあ」
「若者気取りで人のことを根掘り葉掘り聞いて古傷をえぐるおじさんなんて、私じゃなくても嫌うわよ」
「ひどい。俺まだ二十八なのに。ええよ、もう。ティーンエイジャー同士でイチャコラしてなはれ。森の手前で最終確認をするさかい、三十分以内には来ぃや」
ガクはそうこぼしながらもカナンの意向を汲み、こちらに背を向けたかと思うと目的地に向かって一足先に進んでいった。
なんとなく歩みを止めたキリヒトの前で、カナンもまた立ち止まる。
(はぁ……疲れた。やっとキリちゃんと二人きりになる口実を掴まえられた)
小さな声で呟かれたその一言にドキリとする。もちろん、カナンがそうしたかった理由を頭ではちゃんと分かっているのだが。
「ガクに聞かれたくない話がある、ということだよな?」
「ええ。でもまずはモバイルの交換を済ませましょうか。ガクは目端が利くから、交換していないとまた面倒くさいことを言い出しそうだしね」
「あ、うん」
てきぱきとやることをこなしていくカナンに引きずられる格好で、キリヒトも自分のモバイルパスを解いて、互いに自分が覚えやすいものに上書きした。
モバイル操作に関する説明を一通り済ませたあと、カナンは自分の用件の前に、「重い顔をしていたわね。何か考え事?」とキリヒトを促した。
「うん、ちょっと引っ掛かることが解消されなくて、そのことで頭がいっぱいになっていた」
キリヒトはセカンドから聞いたサイキック・Gに関する情報と、ガクに感じる不審な点、彼の目的が今一つ推測できないでいる現状をカナンに一通り説明した。
「ユイさんを助けようとしているのは信じていいと思うんだ。カナンを巻き込まないよう俺にそう指示したことや、セカンドが実行犯だと俺に説明したとき、演技ではなく俺に怒っていたふうだった。ただ、もしトウコ先生とグルなら、俺がガクの店を偵察しに行った段階で捕縛できていたんだよな。そのままトウコ先生へ引き渡してしまうほうが効率がいいし、カナンへのごまかしも楽だったと思うんだ。だけどそうしなかった。その理由が分からないから、ガクをクロとは断言できない」
時間稼ぎのようにゆっくり進みながら隣を歩くカナンを見下ろすと、彼女は考察に耽るように口許へ片手を寄せたまましばらく応答しなかった。
「カナンは、どう思う?」
あまり時間がないのでおそるおそる催促してみると、彼女はようやく顔を上げて
「ガクはワイルド・カードなのかも」
と苦々しげな表情で見解を述べた。
「どういうこと?」
「カフェテラスにいたときね、あの時間軸から向こう半日も視てみたの」
カナンはガクの視点で昼過ぎ辺りからの時間を視たそうだ。ガクの視点がキリヒトに絞られていたこと、キリヒトがカナンの知らない広間のような天井と奥行きの広い空間で何者かと戦闘状態になるらしい。
「相手はわからなかったのか?」
「ごめんなさい。頭痛で視界にジャミングが入ってしまったの。確認する前に時間軸から弾き出されちゃった」
「いや、頭痛、今は平気なのか?」
「ええ。カフェで鎮痛剤を飲んだから、それが効いて来たみたい。だいぶ治まったわ」
「なら、よかった。さっき言っていた“今日は偵察で終われない”というのは、それが根拠ってことだな」
「ええ。それから、ガクの隣にあの女がいたわ」
忌々しげに細められたカナンの目がキリヒトの心臓をバクンと一つ大きく脈打たせた。
「……トウコ先生?」
「やっぱり生きていたみたいね。ただ、未来は不確定要素次第で変わるから、必ず白金トウコと出くわすとは限らないけれど。ガクはキリちゃんと相手との戦闘を彼女の隣で黙って見ているの。姉様が人質に取られているからやむを得ずなのか、あの女とグルだからなのかまでは、姉様の姿が視えなくて判断ができなかったのだけれど」
「いや……情報としては、それでもかなり充分だ」
そう返すキリヒトの声が、彼女のせいではないのにひどく不機嫌な冷たい声になった。
感情が、三年前に戻っていく。一度は使わないと決めた能力を使ってTAMA研究区から逃げたあの日を思い出す。
「カナン、約束して。絶対に無理をしない、って」
頭痛を抑えていることにすら気付かなかった自分を歯痒く思う。カナンにそれ以上の無理をさせたくはない、と強く思った。
「俺はカナンが思っているほどセカンドに劣っているわけじゃないから、カナンは自分の手を汚さないで。得物はガクに渡して、何かあったら俺に連絡をして」
彼女にそう告げるとき、少しだけ勇気が要った。自分の手がすでに人を殺めたことのある汚れた手だと知っても、彼女は変わらずにいてくれるだろうか。そんな不安がキリヒトをしばらく沈黙させた。
「キリちゃん? 何か対策をして来てあるの?」
訝る彼女が身体を曲げてキリヒトの顔を覗き込む。不安げに揺れる瞳に、幼いころと今のキリヒトしか知らない“泣き虫で弱虫な弟分”が映っている。そして彼女の瞳そのものには、キリヒトを案じる色が滲んでいた。
「ぶっつけ本番だけど。カナンは俺とセカンドの訓練風景を視ていたと言っていたよな」
「ええ。セカンドくんから説明してもらったわ。跳躍者はセカンドくんのほうが得意で、境界干渉がキリちゃんの得意技で悔しがっていた。それから、もう一つは視たことがないから記憶が曖昧だわ。えっと、なんだったかしら」
聞いていたなら話が早い。
「風神だよ。俺が使うのをやめたから訓練相手にならなくて、セカンドは単独でトウコ先生のトレーニングを受けていた」
二人が三年前のTAMA研究区脱出のとき、互いにその能力で戦ったから“果て”が破壊され、外気にセカンドが触れることになって死に至ったのだと述べたとき、カナンの表情が明らかに強張った。
――風神。
セカンドに最期まで敵わなかったその物理攻撃の能力は、大気をコントロールする能力だ。キリヒトがTAMA時代に強いられていたトレーニングは、意図した場所に真空をつくる、風を生み起こす、大気の濃度の調節――どれも、破壊しかできないメニューだった。キリヒトはセカンドのように割り切ってトレーニングに専念することもできなければ、彼ほど巧く風神をコントロールすることもできなかった。非力という意味でならまだ救われた。だがキリヒトの場合は、過剰放出になってしまうのだ。
真空をすぐに解除できなくて、たくさんの動物を死に至らしめた。風の速度をコントロールできなくて、重機を吹き飛ばしてしまった。それに巻き込まれたスタッフが何人か死んだ。大気の濃度を調整できなくて、作った鎌鼬が強力過ぎたせいでセカンドに重傷を負わせた。それがキリヒトのトラウマになり、それ以来キリヒトは、どれだけトウコに説得されても風神の訓練を拒否し続けた。
「――でも、好き嫌いなんて言っていられないから。きっとセカンドだって、カナンの手を汚させたくはないはずだ。それに……俺も、カナンに、ああいう想いは、させたくない、かな、みたいな」
告げる声が震えた。今なら少しだけセカンドの気持ちが解る気がした。
「カナンには、セカンドの好きだった綺麗なカナンのままでいて欲しい」
十五歳当時のカナンにとって、初恋の人に初めて任せられたものの重さというものは、どれほどのものなのだろうかと改めて思う。いくらセカンドの頼みだからと言っても、そこまで気負う必要などないはずなのに。キリヒトのそんな複雑な想いがその一言には集約されていた。
キリヒトの想いがカナンに伝わることはなかった。彼女はみるみる眉尻を吊り上げて口をへの字に曲げて行き、そのまま歩き続けるキリヒトの腕を取って立ち止まらせた。
「そんな不安定な能力を当てになんてできるわけがないでしょう。言ったはずよ。キリちゃんに二度もセカンドくんを殺させやしない、って」
「セカンドの家族は俺だ。家族じゃないあんたに決める権利なんかない。セカンドは俺に望んだんだ。それくらい分かってやれよ」
「!」
言葉に窮したカナンが瞳を潤ませた。キリヒトは心の中で彼女に詫びを告げながら、乱暴に彼女の腕を振り払った。
「心配しなくても大丈夫。ノーコンでも火力が足りないんじゃなくて、過剰になっちゃうくらいだから。デカいのを出せるときは、研究棟の一つくらいぶっ壊せる」
いくじのなかった過去の自分を恥じる想いが、キリヒトを少しだけ足早にさせる。
「待ちなさいよ」
追いかけて来る靴音が、キリヒトをほんの少しだけ嬉しくさせる。
「ガクが何を考えているのか分からないけれど、少なくてもユイさんとカナンのことは守ってくれる。だから今はガクの言う通りにして様子を見よう。ちゃんと得物はガクに渡すんだぞ」
相手が白金トウコなら、やれる。彼女が相手であれば、なんのためらいもないから。
「セカンドの仇なんだから、俺がやるよ」
トウコと、そして弔い損ねたセカンドの欠片と、ガクがトウコに付くのであれば、彼もトウコとイコールの存在でしかない。
「動物を殺してしまったことですらトラウマになるようなキリちゃんに、そんなことをできるわけがないわ」
カナンがなおも食い下がってキリヒトの前に立ち、キリヒトの往く手を阻む。そんな健気な姿がキリヒトのどこかをくすぐったい想いにさせる。それが苦笑という形でキリヒトの面に表れた。
「できる。理由は分からないけれど、トウコ先生はサイキックに対して憎悪に近い何かを持っている気がするんだ。すごく執念深いから。それさえなければ、サイキック研究自体は俺たちにとっても一般人と共存できる糸口になると考え直すことも試してみたけれど、やっぱり研究のために飼い殺しなんて人間扱いじゃないし、そんなのはもうたくさんだ」
トウコがセカンドを再生させたのは確定だ。きっともう自分たちの知るセカンドではない。
「だからもう感傷はオシマイ。俺は俺がすべきことをするだけだから、カナンはカナンのすべきことをして。ユイさんを見つけ次第ここから離れることを最優先に考えて行動して欲しい」
まとまりが今いちだと思いながらも、キリヒトはカナンに自分の意向を伝えて話を締め括った。
彼女は返答に困りあぐねている様子で俯いたきり、微動だにしなくなった。多分、理性の面では納得できたのだろうと結論付けると、キリヒトは彼女の横を通り過ぎ、ガクの待つ森の出口に向かって一足先に歩を進めた。
「キリちゃん」
カナンはあっという間にキリヒトの前まで駆け抜けたかと思うと、くるりと振り返って――笑った。
「姉様を最優先に。それはちゃんと約束する。その代わり、条件があるわ」
彼女は後ろ向きで歩きながら、制服のポケットから黒くて小さな四角いものを取り出した。
「これ、私の分。キリちゃんへ渡したお守りの中にもう一式が入っているわ。モバイルではガクに連絡を取っているのが丸解りになってしまうでしょう? 私は元々ガクを信用し切っていたわけじゃないわ。万が一に備えて用意しておいたの。ガクと合流する前にキリちゃんもセットしておいてね」
と言った彼女はサイドの髪を梳き上げて、寒さでほんのり赤くなった耳梁をキリヒトに見せた。そこにはコードレスタイプのカナル型ヘッドホンが慎ましやかに収まっていた。
「インカム……マジか」
その周到さに思わず間抜けな声が出る。
「私が数分から十数分先を視るから、その都度視たものをキリちゃんに伝えるわ。それなら安全圏からでもできるし、その範囲内でできるだけ近くに行くことに反対はしないでしょう?」
頭痛の副作用はどうするんだ、と反論を口に仕掛けたが、彼女の瞳を見たら結局何も言えなかった。
「これ以上は妥協しません、って顔してるね」
代わりに彼女の意向を確認する。知らず下手くそな笑みが浮かんだ。
「キミは独りじゃない。そう言ったはずよ。せめてサポートくらいさせて」
カナンが強い瞳で、セカンドと同じ言葉を口にする。そこにこめられた想いを想像すれば、ここが折り合いの付け所だと観念せざるを得なかった。
「セカンドとの約束だから?」
「それだけではないのだけれど、わがまま過ぎてキリちゃんに呆れられそう」
「カナンにとっては大事な理由なんだろう? 少しでも自分のためだというのなら、俺もそれを知っているほうが少しは気が楽になる」
彼女はキリヒトの言葉を聞いてしばらく黙り込んでしまったが、
「変わっていてもいいから……セカンドくんに、一度でいいから、逢いたいの」
彼女は乞うような声でキリヒトにそう言った。
「……」
返す言葉が浮かばない。そこまで相手のことを想い合える“恋”というものが望む方向で成就されなかったら、こんなふうにいつまでも終われないものなのだろうか。
「だから、もしセカンドくんがキリちゃんの相手だったときは、教えて」
カナンの呟きを聞いて、キリヒトはなぜかひどく胸が痛くなった。カナンのそれは命令ではなく、切実な懇願に聞こえた。だから本当はノーと答えたかった。きっとセカンドもカナンの中で哀しい思い出として残りたくはないだろうとも思う――けれど。
「……分かった。もしセカンドを掴まえたら、必ずカナンを呼ぶ」
これからも生きていく彼女が、実らなかった恋にエンドマークを付けようとしている。それに気付いたら、反対することができなかった。