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サブリミナル  作者: 藤夜 要
本編
1/16

01. 黒尽くめの少年――境界領域に干渉する能力者

 若者たちの喧騒が溢れる街として名の知れたTOKYOシティ・S区。今日は歩行者天国のため、駅前を縦横に走る主要幹線道路やそこに連結する公園通りが車両進入禁止になっている。

 もう陽が傾いて薄闇が空を包み始めている時刻なのに、大きな通りは久々に訪れた梅雨の晴れ間を「これ幸い」と出掛けて来た人たちで溢れていた。

 目黒キリヒトはキャップのツバを少しずらして、垂れた前髪の隙間から盗み見るように辺りへ視線を走らせた。

(これだけたくさんの人がいるのに、それでも俺みたいな真っ黒なヤツはゼロなのな)

 キリヒトは自分と似た昔さながらの日本人らしい造形の通行人が一人もいないのを確認すると、またキャップを目深にかぶり直した。

 和暦を用いていた時代と違い、グローバル化が進んだ今の日本は人類のるつぼと化している。それは日本に限った話ではないようだが、三年前まで偽りの世界で生きて来たキリヒトにとって、その現実は未だに違和感を拭えない。

 色とりどりの髪をした人の間を、影のようにすり抜けていく。艶やかな濡れ羽色の髪はキャップをかぶることで目立たなくさせているが、理容室へ行くのを怠るとすぐに目立ってしまう。

 百七十センチという小柄は、今の日本では性別不詳に見られがちだ。性別不詳に見られる理由はそれだけでなく、病気かと思われるほど青白い肌の色も一因だろう。だがキリヒトとしては、男のくせにメイクをするなど自分の美意識に反する。なので放置を決め込んでいた。

 濃い色つきレンズのデザイングラスも、黒い瞳がよくも悪くも人の関心を惹きつけるから携帯必須である。

 黒髪や黒い瞳を持つ人間自体はいる。ただ、それを併せ持つ生粋の東洋系が今の時代だと希少価値になってしまっている、というだけだ。希少に憧れる若者の中には、黒曜石のようだからと虹彩に黒のカラーリング手術をする者がいたり、黒髪にしたいからと染め続けている者もいたりする。だが、ニセモノの前にキリヒトのような本物が現れると、その差が歴然としてしまう。だからキリヒトは自分の造形に困るのだ。

“できるだけ目立たないこと”

 それはキリヒトにとって、生き続けるための必須事項だった。

 蒸し暑い初夏の陽気にも関わらず真っ黒なパーカーに身を包み、黒のダメージジーンズとボロボロのトレッキングシューズで交差点をのろのろと渡っていく。誰もがその奇異な服装に気を取られてキリヒトの顔そのものは見ようとしない。だが、そんな奇妙なモノを見る視線も、公園通りまで行けばなくなることをキリヒトは知っていた。彼と似たような恰好の若者で溢れ返っている街だからだ。だから彼はこのS区をねじろにしている。

 キリヒトを象徴する黒い影は、公園通りへ進むに従いほかの黒い影に混じって目立たなくなっていった。


 幹線道路をしばらく進んで公園通りの坂道を半分ほど上った辺りで、キリヒトは歩道に据えられたプランター花壇に腰を落ち着けた。ポケットからモバイルを取り出して、依頼内容を今一度確認する。

《松崎がもう二度と私のような被害者を生み出さないようにしてください。恨みを晴らして》

 それは、キリヒトが“クロネコ”のハンドルネームで商っている何でも屋サイト経由で届いた依頼だ。この書き込みをした女子高生の訃報を知ったのは昨日の深夜だった。やっと物証が取れたので昨日の朝一番でSNSのメッセージを使って報告した。いつもなら即返信を送って来る彼女が昨日の深夜になっても無反応だったので、不審に思ったキリヒトは彼女のSNSアプリのアカウントをハッキングして友人のグループのログを見た。そのログから彼女が自殺していたことを初めて知った。十中八九、松崎から受けた仕打ちを苦にしての自殺だろう。

(待ちくたびれさせて、ごめんね)

 松崎の素行調査と物証の確保に手間取ったために依頼の遂行が遅れた。そのせいで、なかなか依頼人の女子高生に調査結果を報告できなかった。報酬の前金として、五百JPドルを受け取っていたのに。そんな罪悪感から詫びの言葉を思い浮かべたが、ひとしきり感傷に耽ったあとはその依頼メッセージを削除した。

 キリヒトはモバイルをパーカーのポケットに収め直し、反対側の歩道で垢抜けない女子高生に声を掛けている中年男へ視線を向けた。

(ターゲット、今日もここで発見、か)

 ないまぜの想いがキリヒトに目を細めさせる。

 キリヒトのターゲットは、小綺麗な身なりで気さくな雰囲気を漂わせて女子高生に話し掛けている男、芸能プロダクションでアイドルのスカウトマンをしている松崎という男だった。彼は今キリヒトが削除したメッセージを送って来た依頼人のことも、同様の手口で罠に嵌めて我欲を満たしていた。彼は初心そうな女子高生をターゲットして「アイドルになれる」とそそのかし、彼女たちがトラブルを避けたいがために言葉を濁すのをよいことに、強引に自分の部屋やホテルへ連れ込んではアダルティな写真を撮った挙句、それを脅迫のネタに風俗で働かせていた。

(ま、そんなことは、この街ではザラだけど)

 今狙われているのは、田舎から出て来て間もないと一目で判る女の子。彼の語る唇を読むと、やはり今日も獲物探しに来ていると判断せざるを得なかった。

(自分のせいで人が死んでいるのに、全然懲りてないんだな)

 皮肉な笑みをこぼしながら、心の中でだけ愚痴こぼす。キリヒトは腰掛けていた花壇から重い腰を上げて道路を渡った。人混みに紛れて、音もなく彼らに近付く。

(退くなら、今だよ。おじさん)

 まるでクランク・インを遅らせるかのように、キリヒトは呟いた。それでも松崎は、近付いて来るキリヒトに気付かず、女子高生を騙す言葉を連ね続けている。やむを得ず、と言った溜息を漏らし、キリヒトは目許を隠していたデザイングラスを外して、それもポケットへ押し込んだ。

 この一ヶ月、キリヒトは松崎を追い続けた。もちろん話し掛けもしたし、何度も“目を合わせた”――境界干渉(サブリミナル)を仕込むために。

「だーいじょうぶ。確かに芸能プロを騙る悪い奴もいるけどさ。俺はそういうのじゃなくて、この事務所でスカウト部に所属しているんだ。有名な芸能プロダクションだから、君も名前くらいは知っているだろう?」

 松崎がポケットをまさぐり、小さな四角いカードを取り出した。それを少女に手渡しているようだ。多分、名刺だろう。

「はい、これ、名刺ね。これで信用してくれるかな」

 キリヒトは少し強引に人ごみを掻き分けて彼らの後ろに回り、より一層近づいた。

「あの、でも私、そういうのは、ちょっと」

「とか言って、本当は興味があるんでしょ? 分かってるよ。クラスの子たちに田舎くさいとかなんとか言われて服を買いに来た、そんなところじゃない?」

「な、なんでそんなこと」

「この大通りにある店は、そういう子のご用達が多いんだよね。君もファッション雑誌を見て来たクチと見た。キョロキョロ探しているふうだったから、俺にはすぐ判ったよ」

 そんな会話を注意深く聞きながら、キリヒトは気取られぬよう松崎の背後で足を止めた。

「判っちゃう、んですか」

「もちろん。これでもプロだからさ。もっと都会に馴染む華やかな自分になりたい。一番輝き出す年頃だもの、そりゃあ当然の気持ちだ。何も恥ずかしがることじゃない」

 と、松崎は女の子が反射的に名刺を受け取ったことに満足したのか、どこが得意げな笑みを浮かべて心にもない共感を口にした。

(仮に事務所が有名でクリーンだとしても、あんた自身がダーティ度MAXだろうが)

 キリヒトは心の中だけで毒づいて、松崎の背に人差し指を軽く掲げた。同時に剣呑な表情を引っ込めて作り笑いをかたどる。笑えば少女と間違えられることもあるので、この微笑で松崎を騙して接触したことを苦々しく思い出した。

「おーじーさんッ」

 まるで女の子がするような仕草で、ちょんと松崎の背をつついて声を掛ける。キリヒトの声と背中を突かれた感触に気付いた途端、松崎は大袈裟に肩を揺らして振り返った。

 松崎がこちらの瞳を見る、その一瞬が勝負だった。キリヒトはキャップを外し、ブラインドのように垂れた長い前髪を掻き上げた。

「てめ、な、まだ俺を追っ掛けてやがったの、か……?」

 と心底嫌がる松崎の視線をキリヒトの黒い瞳がまともに捕らえる。語尾に妙な疑問符がついた理由をキリヒトだけが知っていた。

 松崎が背にしているショーウィンドウに映る、彼自身の背中と自分の瞳から上。前髪を掻き上げたその刹那、キリヒトの両目が剥き出しになった。

 通常の人間ならあり得ない瞳。瞳孔を中心に、黒が広がってゆく。まるで澄んだ水の中に一滴の墨汁が落ちたかのように、漆黒が眼球を包むように滲んでいった。

「“ごめんね、おじさん”」

 キリヒトは松崎にしか聞こえないほどの声で囁き、同時にカモにされ掛けていた少女の腕を強く引いた。自分の瞳の変化を彼女に見せないためだ。

 一般人にサイキックだとバレれば研究機関にリークされてしまう。居場所を特定されれば捕縛され、研究対象としてモルモットにされてしまう。それはサイキックにとって死よりも過酷な状況を意味していた。

 少女を自分の背後に庇ったころには、キリヒトの両の瞳がガラス体まで漆黒に染まっていた。

「……」

 松崎が声も出さずに立ち尽くす。額にじわりと汗が噴き出し、そのくせ決してキリヒトから目を逸らすことはしない――否、“できない”のだ。

 キリヒトの瞳だけに映るニセモノの映像、会話、匂い、感触――シナリオ。それをこの男が生きた軌跡の随所に差し挟んでゆく。互いの瞳を介して、脳の奥の奥、意識と無意識の境界領域へ叩き込む。そのシナリオが、あたかも彼自身の経験だと認識させるかのように。

「う……」

 松崎が小さな呻き声を上げた。彼の瞳孔が一気に開かれる。キリヒトは、もう彼の目に現実世界が映っていないことを確認した。

(さあ、シナリオ通りに演じてくれよ。ばいばい、おじさん)

 焦点の合わなくなった松崎の瞳を確認し終えると、キリヒトはようやく少女の腕を解放した。そして横から覗かれても目が見えないほど太いテンプルのデザイングラスをポケットから取り出し、真っ黒な遮光レンズをはめ込んだそれで瞳をさりげなく隠す。境界干渉(サブリミナル)発動の兆候、異質な瞳が元に戻るまで、あと十数分ほど掛かるからだ。

「う……わああああああああああ!!」

 次の瞬間、公園通りに飛び交っていたすべての騒音を凌駕する絶叫が轟いた。

「な、なに?」

 怯えた少女が咄嗟にキリヒトの袖を掴んで身を摺り寄せた。

「冗談が過ぎたって謝っているのに、また発作かよ。ひどいなあ。そこまで毛嫌いしなくてもいいのに」

 ごく普通の高校生らしい口調と声で、そして少しばかり芝居じみた大袈裟な身振りを交えて愚痴こぼす。

「冗談? って?」

「俺、これでもモデル志望なんだよね。このおじさんは堀田プロの人だから、チャンスをくれるかもと思って付きまとっていたんだ」

「モデル志望、さんですか。確かに、キレイな顔立ちをしてますよね」

「ありがと。でもさ、俺、これでも一応男子だから、堀田プロで男性モデルとしてのデビューは望み薄だしさあ。だから最初のアプローチのときに女装して声を掛けたんだけど、あとで男と判った途端に嫌われちゃって」

 そう言ってカラカラと笑った。どこにでもいそうな、だけど少し頭の軽そうな高校生、くらいにしか見えないだろう。その証拠に、庇った少女は唖然とした顔をしてはいるが、自分への警戒は見受けられない。

「じょ、そう……ですか」

「あ、別に本当にソッチの趣味があるわけじゃないよ」

 慌てた素振りでそう付け加えると、少女がほんの一瞬だけほっとした表情を見せた。

 この三年間S区をさまよいながら“普通の人”を観察して培って来たイメージ像にズレはない。改めてそれが確認できると、また一つ安心要素が増えた。

 少女は笑った直後にはっとした顔をして、自分の不謹慎さを恥じるように話題を変えた。

「あ、えと、それは、別に、私は……というか、この人の発作ってよくあるんですか? 救急車を呼んだほうがいいでしょうか。この人がこうなってしまったのは私のせいですよね」

「いや、原因は俺でしょ。でもさ、結局またこの辺に姿を見せるし、別にほっといても大丈夫じゃない? 関係者でもないのに引き止められて色々聞かれるのも面倒じゃん?」

「あなたはいつもそうしているんですか?」

「うん。だって時間の無駄だもん」

「え……どうしよう。私だって、何か聞かれても困る。一方的に絡まれただけだし」

「じゃ、一緒に逃げちゃおっか」

 キリヒトが少しおどけた口調でそう言って微笑み掛けると、素朴で騙されやすそうな田舎出の少女は、わらにも縋るような仕草でキリヒトの袖を握り直した。

「あの、すごく今さらですけど、助けてくれたんですよね。ありがとうございました」

 キリヒトの脇の下にすっぽりと収まってしまうほど小柄な少女が、袖に掴まったまま深々とお辞儀をした。キリヒトはそれを彼女の意思表示と解釈し、妙な誤解をされないよう留意しつつ彼女の肩をそっと抱いた。

「実は俺もそれなりに、法に触れない意味合いでの下心があったりして」

「え?」

「君にお願い事があるんだ。これはそれの先払いのつもり。難しいお願い事ではないんだけど」

 キリヒトは悪戯な笑みを宿し、内ポケットからモバイルを取り出した。

「俺、実はこれの運営人」

 そう言って少女に見せたのは、キリヒトが“オンラインのみで依頼を受け付けます=匿名厳守”を謳い文句に運営している“何でも屋”稼業のサイト。さっき亡くなった依頼人のログを削除してまっさらになった管理モードの画面だ。

「え……えええええ!? こんなに若い人だったんですか、クロネ」

 思わず片手で彼女の口をふさぐ。

「しー! 不特定多数に顔バレするのはマズいから。知っていてくれてよかった」

 彼女はキリヒトの意向にすぐ気付いたようだ。小さく何度も首を縦に振り、口から手を放してくれるよう潤んだ瞳だけで訴えた。

「あ、ごめ」

 慌てて手を放すと同時に詫びを口にし掛けたが。

「もちろんですよ!」

 それまで彼女の周囲に漂っていた、おどおどとした雰囲気が瞬時に掻き消えた。かと思うと、彼女はキリヒトの謝罪も聞き流してマシンガントークを炸裂させた。

「学生でも依頼できる格安報酬で、なのに依頼はバッチリ確実に完遂。正体不明でも信頼できちゃう未成年の味方、って! うちの学校でも有名ですよ!」

 と興奮気味に語る少女へ、女子が喜びそうな笑みを浮かべて返す。

「それは褒め過ぎ。でも評判がいいならよかったー。ありがとう。それで頼み事ってのは、要は営業なんだけど――」

 そんな会話を続けながら、キリヒトは通行人の注目が松崎の奇行へ集まっている間にその場から立ち去った。


 助けた少女を駅まで送り、近場のスタンドコーヒーショップで休憩を摂った。情報収集を兼ねた休憩。そして今夜のねぐらを考えるための時間でもある。

(そろそろ、なんだけどな。どっか差し込み漏れがあったのかな。周りの反応が、まだ、ない)

 そんなことを思いながら、今回のシナリオを頭の中で遡ってミスがなかったかを確認した。


 キリヒトが松崎に差し込んだシナリオは次のとおりだ。

 堀田プロに悪事がばれて解雇された松崎は、逃亡のためにホームレスに身をやつして逃げ暮らす日々を過ごすようになる。

 追手に追い詰められた松崎がビルの屋上に佇んだところで、キリヒトと出会ったときの顛末――半ば強引にキリヒトをホテルへ連れ込んで服を剥いだ己の愚行を思い出させるよう、女装姿のキリヒトを登場させた。

『ホントはね、アイドルデビューなんてどうでもよかったんだ』

 シナリオの中のキリヒトは、ボーイッシュではあっても明らかに女の子の服だと判る出で立ちで松崎を追い詰める。

『おじさんの傍にいたかっただけなのに。どうしてボクから逃げるの?』

 そう言って、男とも女ともつかない顔で狂った微笑をくれてやる。松崎が最も怯えそうな顔で、笑って死の宣告を口にした。

『ボク、もう疲れちゃった。おじさんもでしょう? だから、一緒に死んであげる』

 かなり突飛過ぎる展開のシナリオだと自分でも苦笑したが、境界干渉(サブリミナル)で差し込んでしまえば問題ない。これが松崎にとっての現実となるのだから。

『俺にソッチの気はねえんだよ、気色悪ぃ!』

 当然の反応だ。松崎に同性愛嗜好はない。そして実際にあの男がこういう場に立ち会えば、そう叫ぶに違いない。陳腐な筋書きの違和感は、松崎の感情の流れによるリアリティで補った。

『ひどい。ボクが男だって判るまでは、おじさんのほうが強引だったくせに』

『寄るなァ!!』

 松崎は叫んだ直後、ダイブした。ビルの屋上、澄みわたった晴天の下に広がる、なにもない空間へ。

 その行為にどこか“自由”や“解放”といったポジティブなイメージを抱かせるシナリオにしてやった。

『やっと……楽になれる』

 キリヒトは死が幸せに満ちた選択だと強烈に印象付けるシナリオを構築した。

“ごめんね、おじさん”

 出会い頭に松崎へ告げた一言は、シナリオのクランク・インを告げるキーワードだった。


 特に発動をしくじるほどの漏れはない気がする。キリヒトがそう結論付けたとほぼ同時に、二人のサラリーマンが連れ立って入店して来た。メニューを見ながら興奮気味に大きな声で話している二人の会話に耳をすませる。

「遅れて悪かったな。飛び降りがあってさ。それに出くわしちまって」

「うへえ、どこ? おまえも見たのか?」

「白戸ビル。間一髪、野次馬が集まっていたおかげで見なくて済んだ」

「ああ、あそこは古いビルだもんな。屋上の鍵が壊れているとかで、よく飛び降りがあるって聞いた気がする」

「管理会社は何してるんだよ。っていうかさ、多分飛び降りたヤツが持っていた名刺だと思うんだけど。見ろよ、これ」

「何、拾ったのか……って、え、これ」

「何枚も落ちていたんだよ。堀田プロの松崎と言えば、バラエティ番組にも顔を出す有名人じゃん?」

「マスコミがまた喜びそうなネタだな」

 そんな話にかぶさって、キリヒトの前に置かれているアイスコーヒーの中で浮かんでいた氷が、からんと涼やかな音を響かせた。

(クランク・アップ)

 今回の依頼、これにて終了。依頼主の少女はもういないけれど。

(前金は必要経費ってことで、まあいいじゃん)

 キリヒトはそんな感想で冷徹を演じ、重い気分からの逃げの一手を決め込んだ。

(忘れよう。いちいち感情に振り回されていたら仕事にならない。次の依頼を選ばなくちゃ)

 ウィンドウに面した席で取り止めもなく思い巡らせるキリヒトの横には、公園通りに繋がる幹線道路。そこにひしめく人々が一斉に車道へ視線を投げる。遠くに聞こえていたサイレンが近付いたかと思うと、救急車がドップラー効果を感じさせる音をまき散らしながら窓の外を通り過ぎていった。

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