9(途中)/過去過去現在
よく考えてみれば凄いことなんだよね。失敗を帳消しに出来るなんてさ。
人間がタイムマシンで過去へ行きたがるのは、大半がそう願っているからなんだって。
あの時、ああしておけば。止めていれば。違う方を選んだら。手を貸せば。助けられたのに。未来を変えたい……
綺麗な道を、歩きたい。
誰かが、否定していた気がする。誰だっけ。
誰だっけ……
・・・
吹く風に、僅かに砂が混じっていた。陸上競技が行われるトラック、フィールド内では、集まった体操服姿の小学生たちで賑わっていた。本日これから競技大会が行われるという。晴天ではなく曇り空だったが、天気予報では降水確率20%と雨の心配は特になさそうだった。
(ここ、覚えてる……)
泉は、立っていた。
周回走路のトラックと、囲まれて中央にあるのが幅跳びなどで使用されるフィールド、それらを全て一望できる傾斜スタンドにいた。階段に立って暫くは考えながら、泉は記憶から記憶の欠片、また欠片と時間をかけてゆっくりと思い出していった。場所、そして自分の『失敗』、何歳だった、いつの頃の。TPO、時と場所と場合、思い出された泉は、何も言うことがなくなった。「……」単純な自分の失敗を、悔いている。
隣で同じく時を過ごしていたヒューマは、泉に問いかけていた。
「どうしますか、それで」
ヒューマをひと目見た泉は、くす、とだけ笑ってみせていた。「そうだな……」これはゲームと、ならばどんな酷いことでもしてみせようと泉は意地悪になってみていた。
「確か小学5年生。小5の『泉』を、そうだな……トイレにでも閉じ込めちゃおうか」
そう提案している。
「何でまた」
ヒューマの問いに、泉は素直に答えていた。
「コケちゃったの。それで1番になれなかった。途中までは先頭を走っていたのに」
目には見下ろしたトラックが映っていた。生徒たちが集合し列をつくり名前を呼ばれ、スタートと同時に駆けていく。我先にと、ゴールを目指し区切られたレーンを走者は競っていた。
あのなかに交ざり自分は躓くのだと、分かっていた。
「悔しい思いをするなら、走らなければいいでしょ?」
それでトイレへ? と、ヒューマは辺りを見回して探してみた。「たぶん、トイレにいるんじゃないかな……」泉はよく覚えていた。
記憶に自信たっぷりの泉に導かれてヒューマと一緒にトイレへと向かうと、今の泉にそっくりだった子どもが通りすぎていた。髪は短いが後ろで束ね、用だけを済まそうと足早だった。2人とも姿は見えないので、泉は予想通りに現れた過去の『泉』に安心して近づくことができている。だがヒューマにとっては女性用のトイレへ入るには抵抗があるため、「外で待ってます」とだけ告げて泉から遠ざかっていった。
トイレの個室には『泉』が入って、鍵をかちゃん、とかけた音がしていた。
このまま外からドアを封じてしまえば、『泉』は出てこられない。出てこなければ、参加する競技は棄権だ、先生が捜しにくるかもしれないが、泉はどうなろうと、そんなことはどうでもいいと思っていた。
(恥をかかなくて済むんだよ)
実態のないもうひとりの『泉』がいて、泉に教えていた。
(走って、コケて、それでも何とかゴールへ足を庇いながら行って――泣いたよね、悔しくって)
うん、と泉は確認するかのように頷いていた。
(『修正』しちゃえ……)
泉がドアに手を差しかけた、そのときだった。
『それでいいのか?』
どの『泉』でもない男の声が耳元でしていた。「誰?」ヒューマではない、男の声だった、としか泉は判別できなかった。振り向いて男の姿を探すが、男どころか泉のいる半径1メートル以内には人はいなかった。個室から出た洗面台で数人、小学生の女生徒がたむろっていただけである。それに女子トイレに男がいるはずもない。
だとしたら誰なのか。気のせいだという判断しかできなかった。
「違う。今のは……」
気のせいだ、と否定しながら、実は肯定していた。「思い出した。穂摘が言ってたんだ」泉は今の声が自分の記憶によるものだと解った。よく思い出してみる。
泉は部活動で、数少ない男子との交流のなかでも穂摘とはよく話をしている方だった。泉にとっては先輩と後輩、男と女、同じ中学生というだけで、育った環境も空気も立場も性格も違う、なのにすれ違わず、接点ができている。
場所は、テニスコートを出てグラウンドを通るとある水飲み場だった。端の蛇口を捻って思い切り水を放出しているのは穂摘で、泉は後から水に用があって来ていた。土曜午後の昼下がりは春で陽気とはいえど動くと暑く、練習の合間の休憩に汗をかいた顔を洗い流そうと思って足が向かった。すると先客に用が同じく、背中が汗ばんだシャツを袖なしに捲り上げて穂摘は来た泉に挨拶を交わしていた。「よう女王」
端までは行かず、穂摘から離れて泉は蛇口を捻って水を出していた。
「やめてくれます、その言い方」
抵抗を忘れてはいなかった。
「さっき練習試合に勝ってたじゃん。さすが女王だね、って褒めようかと思ったのに」
「いつも勝ってるわけじゃありません。たまに……負けます」
水で顔を洗っていた。
「そらそうか」
穂摘は泉を見ていた。タオルで首の後ろを拭い、肌の上には汗が光っていた。
泉は視線に気がついているのかいないのか判らない素振りで、水をかけた手首や顔を持参したタオルで拭いていた。始め眼中にはなさそうだった泉だが、横をふいと向けば穂摘が見ていたので視線が重なって、言わずにはいられなくなった。「何ですか」怒っていたつもりはなかった。
「試合は楽しい?」
穂摘が、泉に聞いていた。「は? ……はあ、楽しいですけど」変なことを聞くなと泉は引いていた。
「そう、ならいいけどね。楽しくなきゃ何で部活してんのって言いたくなるし。そんなに強いんならさ、敵知らずで退屈じゃん。勝つ勝負をして楽しいのかなーなんてさ……」
聞いた泉は大きな誤解だと言っていた。
「私は無敵じゃありません。冗談じゃない。勝手に女王とか能面とか冷たいとか、言わないで下さい」
泉は暑さやだるさもあったのか、イラついていた。泉にとって穂摘は非常に腹立たしい存在だった。つい先日に顔が怖いと言われたばかりでもある。
「……だな。能面とかは言った覚えはないけど。悪かった、ごめんな」
詫びていた。思いもしなかった彼の謝罪に泉はうろたえたが、「いいです、別に」と顔を背けることしかできそうではなかった。素直に素直で返すことが、今の泉には困難だった。『謝らないで。謝られても』、何度泉のなかで回ったことだろうか。
調子を整えて、泉は落ち着きを取り戻すために考に出る。
「……勝つか負けるかなんて……する前から分かるでしょうか……?」
泉は誤魔化すために話題を微妙に変えてみていた。変えられて穂摘は間が空いたが、「……負けると分かって勝負しない、とかは……ありかもな」と言って、さらにこう言っていた。「……でもそれでいいのか。本当に」……
疑問である。
「未来なんて……分からない」
だから勝負をするのだと、泉は穂摘に言っていた。
表情は、崩れなかった。