1(帰り)/現在
何故、あの時に声をかけてしまったのだろう。あの時に。あの時に……
あの時に、声なんかかけなければと――
・・・
今年も暑い夏がやって来ていた。
丸みの雲が地平の線奥先から昇るように見えたあと、空の色に薄くなってこちら側まで、小さな綿菓子が繋がっているように続いていた。入道雲と呼ばれたそれは、のどかで田舎によく合っている。
山の麓には沿って自然なカーブを描いた大道路、ひび割れたアスファルトからは野草が細く、葉先を枯らしながらも茎は真っ直ぐに伸びていた。人も車も気配のない静かな道を、緩やかに下っていくと見えてくるのは1時間に1本しか停車してくれない褪せてくたびれた電車の、屋根が台風でもきたら傾きそうで小じんまりとした木造の、蔦が柱や壁に絡みに絡まって通行人を隙あらば襲いかけそうなほどの……古い歴史ある駅舎だった。昔に近くで合戦があり、それのミニ展示室があるらしい。休憩所に使われていた。
柱に掛けられた温度計を見れば、太陽が一番に高く空に君臨する頃になると35度を越えていたという。
「暑いですねえ、今朝からも」
中肉中背の駅員が、町内会でもらったらしいロゴ入りのタオルで汗を幾度も拭きながら、来る人来る人に挨拶と声をかけていた。「ええ、本当に。見て下さいな、この日焼け。1日だけでこんなに」話しかけられた日傘をさす婦人は、足のつま先を指して嫌な顔をしていた。サンダルを履いた跡が日焼けでくっきりとついている。
するとその横を無言で、少し俯き加減になりながら通過しようとした少女がいた。
猛暑のなか黒の半袖ワンピースを着、黒のメッシュ靴を履いて、目にとかかる前髪の片方を上げてピンでシンプルに留めていた。「泉ちゃん。帰りかい?」肥えた駅員は、改札で切符を通そうとする泉にのんびりと呼びかけていた。
「はい」
振り向き小さな返事をするが、愛想もなく表情の変わらない泉に駅員も傍にいた婦人も、心配そうに顔を見合わせていた。
「泉ちゃん、ひとり?」
婦人がハンカチで口を押さえて、泉を見守っている。「他のみんなは、私の後に――」最後までは、擦れて言葉が続かなかった、すると……
風が一瞬だけ。
泉の首筋に……触れていた。
(あのなかに、居たくないし)
続かない言葉の代わりにお辞儀を軽くすると泉は背を駅員たちに向け、振り向かずホームへと進んで行く。改札を抜けるとすぐ、番線のない待つだけのホームが現れて、泉は歩きを止めずに右へと向かって行った。幸いにも屋根のある場の長椅子には、誰も座ってはいなかった。
ジーワ、ジーワ、ジーワワワ……
ギー……
裏手にはフェンス、超えるとそこは特に手をつけてはいない森林公園だった。草は自由に生え茂り、樹は根付いて枝は空に向かう。蝉の大合唱は騒音でも、何の問題にもしていない。
端から少しズレて椅子に座った泉は、流れてくる汗を手で拭いていた。
(暑い……真夏に黒服はこたえるわ……)
のぼせそうな頭を庇おうと手を上げて、まぶたの上の視界を暗くした、それでも暫く光がまぶたの裏では消えてはくれていない。残暑は厳しく、まだ中学生の泉にも容赦なく熱は襲ってくる。
(早く帰りたい……)
そう思わせるのは、暑さのせいだけではなかった。
数時間前に聞きたくもなかった友人たちの会話を、隠れて聞いてしまったためでもあった。
『見た? 相変わらず表情ないねー』
『冷たい人ね』
『そういえば知ってた? 噂だけどほら、事故現場にいたんだって。野崎さん』『嘘。何で? だって』
『穂摘先輩と何かあったんじゃない。喧嘩したとかさぁ……』
黒白の幕の裏で、当人はいないだろうと好き勝手に囁かれる噂は、こうしてひとり歩きをしていくのだろう。だが残念なことに、通りがかった泉は耳に入ってしまっていた。
体はこれも勝手に物陰に隠れて、泉の胸中、何度でも言葉の槍は、ぐさりと突き刺さっていっていた。
『冷たい人ね』
放っておけばと、泉は反発するしかなかった。だがそれも本心では空しく、気がつけば、落ち込んでいた。
(どうせ私は……)
冷たい、と、自分でもそれが誤解なのかどうだか判らなかった。顔が崩れてくれない。だからか神経質になって気分の下る泉に手をさしのべてくれる勇者はいない、孤独の前進は、泉の言葉に棘をさしていた。
ふと、思い出す。
(雨が降ってた……)
暑さでうだる泉の脳裏には、記憶の断片が重なっていた。歩く穂摘、振り向く穂摘、濡れた穂摘、『私』を見る穂摘、それから。
飛んでいく、……穂摘。
(ちゃんと救急車呼んだわよ……)
振り返らない。泉に一滴も、涙は流れなかったという。
別れを惜しむ声や鼻をすする音が頻繁に聞こえるなか、泉は先に友人たちを置いてひとりで。
前をみようとしていたのだった。