便利な女だと婚約破棄されましたが、冬の荷を受け取りに来る騎士様は、ずっとわたくしの名前を知っていました
今夜の夜会の席次を決めたのは、私だった。
楽団の曲目を選び、広間を飾る花を手配し、仲の悪い東と南の領主が隣り合わないよう卓を動かしたのも私。王太子殿下の誕生を祝う夜会なのだから、殿下の婚約者がそれを整えるのは当然のことで、誰かに褒められるようなものでもない。
けれど、大広間の入口に立った私の隣に、殿下の姿はなかった。
「エレオノーラ様、お一人で……?」
案内の侍従が、気まずそうに目を伏せる。
「殿下は先にお入りになっていると伺っております。わたくしのことは、お気になさらず」
婚約者を迎えに来ない夜会は、今年に入ってこれで3度目になる。
数日前、夜会の段取りをまとめた書類を届けに、殿下の執務室を訪ねた。
扉を開けると、長椅子にミア様が座っていた。殿下はその隣で、学園で流行っているという札遊びの手ほどきをしているところだった。
「殿下。夜会の席次と、ご挨拶いただきたい方々の一覧でございます」
「そこに置いておけ」
殿下は札から目を離さない。
「それと、こちらは北の砦に関するご報告です。今年は例年より――」
「北? またか」
面倒そうに、片手が振られる。
「お前の報告はいつも長い。要るところだけ口で言え」
「……かしこまりました。では、夜会のあとで改めて」
「あとでいい」
書類の束を机の端に置くと、ミア様がくすりと笑った。
「エレオノーラ様って、いつも紙を持ってますよね。なんだか学園の先生みたい」
殿下が声を立てて笑う。私は一礼して、部屋を辞した。
机の端に積まれた報告書の束は、私が置いたときから少しも低くなっていない。去年の分も、その前の分も。
広間へ入ると、殿下はすぐに見つかった。中央の、いちばん明るいシャンデリアの真下。薄桃色のドレスの令嬢が、その腕に手を絡めている。
ローレン男爵家のミア様。学園で、殿下がいつもそばに置いている方。
私は壁際へ下がり、給仕に目配せして、殿下の卓へ運ぶ葡萄酒の銘柄を確かめた。殿下は南の甘い酒しか召し上がらない。去年、うっかり北の辛口を出したときには、夜会のあとで長いこと叱られた。
そうして目を離した、ほんの少しの間のことだ。
「エレオノーラ・ヴァイス!」
広間じゅうに響く声で、名を呼ばれた。
楽団の音が、ぴたりと止む。
振り向くと、アルフレート殿下がまっすぐ私を指さしていた。
「お前との婚約を、今この場で破棄する」
ざわめきが波のように広がっていく。私は手にしていた酒の目録を給仕へ返し、人垣のあいだを抜けて、殿下の前へ進み出た。
「……理由を、お聞かせいただけますか」
「分からないのか?」
殿下は鼻で笑い、腕にすがるミア様の肩を抱き寄せた。
「お前はミアに嫌がらせを繰り返した。教本を破き、茶会から締め出し、根も葉もない噂を流した。そしてとうとう先月の3日、学園の西階段から突き落とした」
ミア様が、小さく肩を震わせる。
「わたし、怖くて……ずっと言えなかったんです。エレオノーラ様に睨まれたら、男爵家なんてひとたまりもないから」
扇の陰で、夫人たちがささやき交わす。ちらりとこちらを見ては、すぐに目を逸らす令息たち。
10年。
8つの年に婚約が決まってから、私はずっとこの人の隣に立ってきた。
殿下が嫌う書類を読み、殿下が忘れる約束を覚え、殿下が苦手な異国の客に、殿下の代わりに頭を下げてきた。
それでも殿下は、一度も「ありがとう」とは言わなかった。名前で呼ばれたことさえ、数えるほどしかない。
「お前」。それが、私の名前のようなものだった。
婚約が決まった日のことを、今でも覚えている。
知らない大人ばかりの王宮の庭で、8つの私は怖くなって泣いた。やっぱりおうちに帰りたい、と言った。それを聞いた10歳の殿下は、ひどく怒った。
『王家の言葉は取り消せないんだぞ。父上がお前を俺の婚約者だと決めたんだから、お前はもう俺のものだ』
あの日から、私は人前で泣くのをやめた。
「何か言うことはあるか」
「わたくしは、ミア様を突き落としてなどおりません」
「証拠はあるのか」
「先月の3日の夕刻でしたら、わたくしは学園におりませんでした」
「では、どこにいた」
答えようとして、口をつぐむ。
王都の北門にある、兵站の倉。そう言えば、なぜそこにいたのかを話さなければならなくなる。
毎年冬の初め、北の砦へ送り出される荷がある。毛布と薬と、干し肉と。荷札には「王太子殿下より」と書いてある。
その荷が本当は誰の手から出ているのか、殿下はご存じない。
ご存じないままでいてほしかった。北の兵たちが殿下を慕っているのは、あの荷があるからだ。いずれ王になる人を、国境を守る兵が慕っている。それはこの国にとって、決して悪いことではないはずだから。
「言えないのか」
殿下の口元が歪んだ。
「やはりな。お前はいつもそうだ。肝心なときに黙る。可愛げもなければ、面白みもない。ただ便利なだけの女だ」
便利なだけ。
胸の奥で、何かが小さく軋む。
泣いてはいけない。ここで泣けば、ヴァイス公爵家の名に泥を塗る。10年かけて覚えた顔を、私は崩さないまま保ち続けた。
「――お話の途中に、失礼」
広間の端から、低い声がした。
人垣が割れる。
歩いてきたのは、黒い軍服の男だった。肩章には北の辺境伯家の紋。夜会には似合わないほど日に焼けた顔に、短く刈った灰色の髪。
息が止まる。
知っている顔だった。
◇
初めて北へ荷を送ったのは、5年前の冬のこと。
13歳の秋、北の国境で小競り合いが起きる。冬を前に砦の補給が滞り、何人もの兵が寒さで命を落としたという。
私は自分の小遣いで毛布を買った。30枚。それが、13歳の娘の精一杯。
荷札に自分の名を書くわけにはいかない。王太子の婚約者が勝手に兵へ施しをすれば、殿下の顔を潰すことになる。だから「王太子殿下より」と書いた。それ以外の書き方を、当時の私は知らなかったから。
翌年は100枚。その次の年には薬も足した。刺繍の注文をこっそり受け、仕立てるドレスを一着減らし、それでも足りない分は亡くなった母の宝石を一つずつ手放していった。
荷は毎年、北門の兵站倉から出る。私は地味な外套の頭巾を深くかぶり、荷が積まれるのを見届けに通うようになる。
2年目の冬、荷を受け取りに来たのが、あの人だった。
「これを手配したのは、あなたか」
倉の前で、そう訊かれた。
「わたくしは、王太子殿下の使いでございます」
「そうか」
それだけ。彼は名乗らなかったし、私の名も訊かなかった。
受領書に署名を求められ、私は「王太子殿下代理」と書いた。その下に、小さく自分の名も添えた。名がなければ書類として通らないと、倉の役人に言われたからだ。
翌年も、その翌年も、受け取りに来るのは同じ人だった。
交わす言葉は、いつも短い。
「去年の薬で、3人助かった」
「毛布の縫い目がいい。兵が喜んでいる」
「今年は雪が早い。帰り道に気をつけて」
3年目の冬は、ひどく冷え込んだ。荷箱を一つずつ数えていた私の指が赤くなっているのを見て、あの人は黙って自分の革手袋を外した。
「使ってくれ」
「いえ、そのような――」
「返さなくていい」
大きすぎる手袋だった。指の先が余って、どうにも不格好で。それでも、あれほど温かいものを身につけたのは、初めてのことだったと思う。
それからの冬、倉へ行くときには、いつもその手袋をはめた。あの人はそれに気づいても何も言わず、ただ少しだけ目元を緩めた。
4年目の冬は、荷を揃えるのに苦労した。
その年は北で疫病がはやり、薬の値が倍に跳ね上がった。刺繍の稼ぎではとても足りず、最後まで残しておこうと決めていた母の首飾りも、とうとう手放すことになる。
倉の前で荷箱の数を確かめたあと、あの人は珍しく私のほうへ顔を向けかけた。けれど、やはり途中で荷へ視線を戻してしまう。
「……無理をしていないか」
「いいえ」
「去年より、痩せた」
頭巾の下の顔など、見えていないはずなのに。
「わたくしは平気でございます。こういうことには慣れておりますので」
「慣れる必要のないことだ」
低い声だった。叱られているのだと、少し遅れて気づく。殿下に叱られるときとは、まるで違う響きをしていた。
「あなたがいなければ、この荷はない。それだけは覚えておいてくれ」
返事はできなかった。頷くので精一杯で、頭巾の端を握ったまま、荷車が門を出ていくのを見送る。
その夜、自室で一人、少しだけ泣いた。人前でなければいいだろうと、自分に言い訳をしながら。
年に一度、倉の前で交わす数言。
それだけが、私のしていることが誰かに届いていると知れる時間だった。殿下に報告書を出しても読まれない。父に話しても、殿下のお役に立てとしか言われない。けれどあの人だけは、荷がどう使われたのかを毎年教えてくれる。
先月の3日も、私は倉にいた。
今年は荷が多い。毛布が1,200枚に、薬箱が80。積み終えたのは日が沈んでからで、あの人は最後の荷車を見送ったあと、しばらく黙ってから言った。
「来年も、来るのか」
「はい。殿下のお許しがあれば」
あの人は何か言いかけて、結局やめてしまった。
その続きを聞ける日を、私は一年待つつもりでいた。
◇
「グレンフォード辺境伯か」
殿下が眉をひそめる。
辺境伯。
倉の前で荷を数えていたあの人が、北の辺境を治める家の当主――ユリウス・グレンフォード。考えてみれば、兵站の受け取りに毎年同じ騎士が来ることのほうが、ずっと不自然だったのかもしれない。
「祝いの席に呼ばれて来てみれば、ずいぶん賑やかなことになっておりますな」
「口を挟むな。これは王家の問題だ」
「先月の3日、夕刻とおっしゃいましたか」
辺境伯は殿下の言葉など聞こえていないかのように、淡々と続けた。
「その刻限、この方は王都北門の兵站倉におられた。私がこの目で見ております」
広間がどよめく。
ミア様の顔から、すうっと血の気が引いていった。
「な、何を……そんなの、いくらでも口裏を合わせられるじゃないですか」
「そうですな。ですから、証拠をお持ちしましょう」
辺境伯は、壁際に控えていた侍従へ目を向けた。
「兵站部の書庫に、北の砦宛ての受領書の控えがある。先月3日付けのものを持ってきてくれ。署名には刻限も入っているはずだ」
侍従が、困り果てた顔で殿下をうかがう。殿下は苛立たしげに手を振った。
「……持ってこい。どうせ何も出ん」
待つ間、誰も口を開かない。
私は辺境伯の横顔を見ていた。あの人は、一度もこちらを見ようとしない。倉の前でもそうだった。いつも荷のほうばかり見ていて、私の顔をまっすぐ見たことは、ついに一度もなかった。
やがて侍従が、分厚い綴りを抱えて戻ってくる。
辺境伯はそれを受け取ると、迷いのない手つきで一枚を探し当て、声に出して読み上げた。
「先月3日、日没後。北門兵站倉にて、毛布1,200枚、薬箱80、干し肉樽40。受け取り、北辺境伯ユリウス・グレンフォード。引き渡し、王太子殿下代理――」
そこで、一度だけ言葉が切れた。
「エレオノーラ・ヴァイス」
私の名前だった。
この人の声で、初めて聞く。
10年、「お前」と呼ばれ続けてきた。倉の前では、名を隠し続けてきた。
それなのに、この人は知っていた。
綴りを持つ大きな手が、ほんのわずかに強ばっているのが見える。広間の誰も気づかないほどの、小さな震え。
◇
殿下は受領書の綴りをひったくるように奪い、目を走らせた。
「……王太子殿下代理? なんだこれは。俺はこんな荷を送った覚えはないぞ」
「ええ。ご存じないでしょうな」
辺境伯の声は、どこまでも静かだった。
「毎年冬、北の砦には『王太子殿下より』と札のついた荷が届きます。この5年、一度も欠かさずに。最初の年は毛布が30枚。今年は1,200枚」
広間の空気が、少しずつ変わっていく。
「兵たちは殿下を慕っております。冬を越せるのは王太子殿下のおかげだと、皆そう信じている。……私も、最初はそう思っておりました」
辺境伯が、初めてこちらを見た。
灰色の目。倉の前で、あれほど近くにいながら一度も合わなかった目。
「ですが毎年、倉まで荷を見送りに来るのは、殿下ではなかった。頭巾をかぶった若い娘が、寒さで指を赤くしながら、荷箱を一つずつ数えていた。荷札の字も、受領書の字も、すべて同じ手です」
「お、お前……」
殿下が私を振り返る。
「どういうことだ。説明しろ」
「……北への荷は、わたくしが手配いたしました」
「誰の金でだ」
「わたくしの、私財でございます」
ざわめきが、先ほどとはまるで違う色を帯びた。
「なぜ俺の名を使った」
「殿下のお名前でなければ、兵の皆様は受け取ってくださらないと思ったからです。それに……」
言っていいのだろうか。
迷って、それでも口にした。
「いずれ王となられる方を、国境の兵が慕っている。それは、殿下のためになると思いました」
殿下は口を開け、何も言えずに閉じた。
ミア様が、慌てたように殿下の袖を引く。
「で、でも殿下、階段のことは本当なんです! 日にちを、わたしが間違えたのかもしれません。3日じゃなくて、もっと前の――」
「ミア嬢」
辺境伯が、穏やかに遮る。
「では、正しい日をおっしゃってください。兵站部の控えには、この方の署名が入った日付がいくつも残っております。いくらでも照らし合わせましょう」
ミア様は、黙った。
それきり、何も言わなかった。
殿下の顔が赤くなり、それから青くなる。
周りの貴族たちの視線は、もう私に向いてはいない。殿下と、その腕にしがみついたままのミア様へ。扇の陰のささやきが、今度ははっきりと耳に届いた。
――冤罪ではありませんの。
――5年も、ご自分の財で。
――殿下は、何もご存じなかったと。
――では北の兵の忠誠は、いったいどなたに向いておりますの。
人垣の中から、年配の夫人が一人、進み出た。ハルトマン伯爵夫人。北の砦に息子を出している方だ。
「エレオノーラ様」
夫人の声は、わずかに震えていた。
「息子からの手紙に、毎年書いてありましたの。殿下からの毛布は縫い目が丁寧で、どこかの娘さんが一枚ずつかがったようだと。……わたくし、殿下はお優しい方なのだと、ずっと周りに申しておりました」
夫人は殿下のほうを一度だけ見て、それから私に向かって深く腰を折る。
「息子の命を、ありがとうございました」
伯爵夫人が、年下の娘に人前で頭を下げる。その意味が分からない者は、この広間に一人もいない。
殿下が、私のほうへ一歩踏み出す。
「……エレオノーラ」
名を呼ばれたのは、いつ以来だろう。
「その、なんだ。俺も少し、言いすぎた。婚約破棄の件は、一度持ち帰って改めて――」
「殿下」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「殿下はたった今、この場の皆様の前で、わたくしとの婚約を破棄すると仰せになりました」
「それは、だから」
「王家のお言葉は、取り消せないものでございましょう?」
殿下の目が、わずかに見開かれる。
「わたくしにそう教えてくださったのは、殿下です。8つの年、王宮のお庭で」
覚えていらっしゃらないのだろう。あの日、泣いていた私に何と言ったのかも。
「それに、殿下はこの10年、わたくしがお出しした報告書を一度もお読みになりませんでした。お読みいただいていれば、北への荷のことも、いつでもお分かりになったはずです」
全部、書いてあった。毎年。
荷の数も、届いた先も、兵たちからの礼の言葉も。殿下宛ての報告書の束の、いちばん下に。
殿下は何も言わなかった。言えなかったのだと思う。
◇
「殿下」
辺境伯が、私の隣へ並んだ。
「この方との婚約は、破棄なさったのですな」
「……だから、それは」
「でしたら」
辺境伯は殿下に背を向け、私の前で片膝をつく。
広間が、息を呑む音で満たされた。
「エレオノーラ・ヴァイス嬢」
もう一度、名を呼ばれる。
「私はずっと、あなたの名を知っていた。初めて倉の前で受領書を受け取った、その日から」
「……ずっと、ご存じだったのですか」
「知っていた。だが、呼べなかった。あなたは王太子殿下の婚約者だ。一度でも名を呼べば、それ以上を望んでしまう気がした」
だから、一度もこちらを見なかったのか。
荷のほうばかり、見ていたのは。
「北は寒い。王都のような夜会もない。あなたが10年かけて学んできたことの大半は、向こうでは役に立たないかもしれない」
「それでも……わたくしに、何かできることがあるでしょうか」
口に出してから、気づく。
私はいつも、こう訊いてきた。何をすればいいのか。何ができれば、そばにいてもいいのか。
辺境伯は、ゆっくりと首を振った。
「何もしなくていい」
「え……」
「便利だから来てほしいのではない。あなたに、来てほしい。砦の兵は皆、毎年荷を送ってくれる誰かに、一言礼を言いたがっている。それを、あなたの名で受け取ってやってほしい」
視界が滲む。
10年崩さなかった顔が、あっけないほど簡単に崩れていった。
「……はい」
声が震える。
「はい。参ります」
背後で、殿下が掠れた声を出した。
「待て……北の兵は、俺の――」
ユリウス様は立ち上がり、私を背にかばうようにして殿下へ向き直る。
「殿下。北の兵は、冬を越させてくれた人に恩を感じているだけです。それが誰だったのか、ご自分の口で伝えにいらっしゃい。そうすれば兵たちはきっと、殿下の正直さだけは覚えておくでしょう」
助言の形をした宣告だった。広間にいた誰もが、それを分かっていた。
ミア様はいつの間にか殿下の腕を離れ、人垣の向こうへ消えている。殿下は一人、シャンデリアの真下に立ち尽くしている。
いちばん明るい場所なのに、ひどく寒そうに見えた。
◇
その夜のことは、翌朝には王都じゅうに広まっていた。
陛下は殿下の婚約破棄をそのまま認めたうえで、殿下に北の砦への慰問を命じられたという。5年分の荷の本当の送り主を、殿下自身の口から兵たちに伝えること。それが、陛下の下された罰だった。
ミア様は学園を去った。階段から落ちたという日、本当は自分で足を挫いただけだったらしい。殿下の気を引くための作り話だったと、男爵家から詫び状が届いたそうだ。
翌日の昼、ユリウス様が正式な申し入れのために屋敷を訪れた。
父の執務室で、私はユリウス様の隣に座った。父は向かいの椅子で腕を組み、辺境伯家からの書状に長いこと目を落としている。
「北への荷のことは、聞いていなかった」
やがて、父が口を開いた。
「……申し訳ございません。殿下のお名前で送っておりましたので、お父様にもお伝えできず」
「母の宝石を売ったそうだな」
肩が強ばる。叱られるのだと思った。
けれど父は書状を机に置き、深く息を吐いただけだった。
「あれは、お前のものだ。どう使おうと、お前の自由だった」
それから父は、ユリウス様のほうへ顔を向けた。
「辺境伯殿。この子は、自分のことになると何も言わない。何がほしいのかも、どこが痛いのかも。……それを、訊いてやってくれるか」
「毎日訊きます」
ユリウス様の答えには、一瞬の迷いもない。
父は少しだけ口の端を上げ、私を見た。
「……お前は、よくやっていたのだな」
それが、父から聞いた初めての労いの言葉だった。
◇
王都を発つ朝、私は北門の倉へ寄った。
今年の荷はもう送り出したあとで、倉の中はがらんとしている。それでも、最後にもう一度だけ見ておきたかった。
5年間、毎年通った場所。頭巾をかぶり、名を隠し、殿下の使いとして荷を数えた場所。
「エレオノーラ様」
倉の役人が、驚いたように駆け寄ってきた。顔なじみの老人だ。毎年、私の署名を受け取ってくれた人。
「頭巾を、おかぶりにならないので?」
「ええ。もう、隠す必要がなくなりましたから」
老人は目を瞬き、それから皺だらけの顔をほころばせた。
「さようでございますか。……辺境伯様には、毎年訊かれておりましたよ。今年も、あの方はお元気かと」
振り返ると、倉の入口にユリウス様が立っていた。聞こえていたのだろう。珍しく、気まずそうに目を逸らしている。
「……毎年、訊いていらしたのですか」
「訊くくらいは、許されると思った」
思わず笑ってしまう。
声を出して笑ったのは、いつ以来だろう。
倉の外には、辺境伯家の飾り気のない旅馬車が待っていた。ユリウス様が手を差し出す。
「行こう、エレオノーラ」
名を呼ばれるのは、まだ慣れない。けれど、慣れなくてもいいのかもしれない。これから何度でも呼ばれるのだから。
私はその手を取って、馬車に乗り込んだ。
馬車が北門をくぐったあと、ユリウス様は懐から小さな布包みを取り出した。
「これを、返しておこうと思った」
包みの中から出てきたのは、色褪せた木の札。角がすり減り、紐の通し穴が少し欠けている。
荷札だ。
「王太子殿下より」――その下に、小さな字でもう一行。
『どうか皆さまが、冬を越せますように』
13歳の私が書いた字だった。差し出がましいと思い直して消そうとして、結局そのまま荷に結んだもの。
「最初の年の荷に、ついていた」
ユリウス様は札に目を落としたまま言った。
「あの冬、俺は砦の副官だった。凍えて死んだ部下の数を数えていた夜に、この荷が届いた。殿下からだと聞いても、正直、信じられなかった。殿下が北のことなど気にかけているとは、とても思えなかったからな」
「それで、確かめに……?」
「翌年、自分で受け取りに行くと言い張った。辺境伯を継いでからも、受け取りだけは誰にも譲らなかった」
札が、私の手のひらにのせられる。
「この一行を書いた人に、会って礼を言いたかった。……結局、5年もかかってしまったが」
手のひらの札は、ひどく軽い。
5年前の私は、誰にも届かないと思いながら、この一行を書いた。
届いていた。
ちゃんと、届いていたのだ。
「ありがとう、エレオノーラ」
札を握りしめたまま、私は窓の外へ顔を向ける。泣き顔を見られたくなかった。けれどユリウス様は何も言わず、私が泣き止むまで、ずっと隣にいてくれた。
◇
ひと月後、私は北の砦にいた。
王都よりずっと早く雪が降る。門をくぐると、兵たちが列をなして待っていた。
砦は、思っていたよりずっと小さい。灰色の石を積んだ壁に、雪除けの低い屋根。この壁の内側で毎年あの荷がほどかれていたのだと思うと、足が少しすくんだ。
殿下の慰問は、私たちが着く10日前に終わっていたらしい。兵たちの前で殿下が何を話したのか、ユリウス様は詳しく教えてくれない。ただ、「最後まで話された」とだけ。
列の端にいた年かさの兵が、一歩前へ出る。腕には、古びた毛布を抱えていた。
縁の縫い目に、見覚えがある。最初の年の30枚。夜更けまでかかって、私が自分の手でかがったもの。
「5年前の冬、これがなかったら、俺は死んでいました」
兵は毛布を胸に抱いたまま、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、エレオノーラ様」
私の名前。
それに続くように、列のあちこちから声が上がる。
「エレオノーラ様、ありがとうございます」
「去年の薬、助かりました」
「エレオノーラ様」
何度も、何度も。
返事をしようとしても、言葉にならない。
隣に立つユリウス様が、黙って私の手を取った。その手が、ふと止まる。
私がはめていたのは、あの大きすぎる革手袋だった。
「……まだ、持っていたのか」
「返さなくていいと、おっしゃいましたから」
ユリウス様は少しだけ目元を緩めて、手袋ごと私の手を包み込んだ。倉の前では、一度も触れなかった手。
「言っただろう」
「何をですか」
「何もしなくていい、と」
雪が降っている。頬に落ちては、すぐに溶けていく。
私はただ、何度も頷いた。
名前を呼ばれるたびに、10年分の冬が、少しずつ溶けていく気がした。
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