夜行バスへの挑戦
第一話の夜行列車から始まった紗奈の物語。
第八話では、紗奈が夜行バスに挑戦します。
再び訪れた「あと少し」。
それでも今の紗奈には安心がありました。
そして旅の終わりには、新しい出会いも待っていました。
温泉旅行から数週間後。
紗奈はバスターミナルに立っていた。
夜の空気は少しひんやりしている。
目の前には大型の夜行バス。
第一話の夜行列車を思い出しながら、紗奈は小さく息を吐いた。
あの頃は不安ばかりだった。
しかし今は違う。
積み重ねてきた安心がある。
受付を済ませ、バスへ乗り込む。
車内は静かだった。
隣には同年代くらいの男性が座っていた。
軽く会釈を交わし、紗奈は席に腰を下ろす。
やがてバスは夜の高速道路を走り始めた。
深夜。
紗奈はふと目を覚ます。
強い尿意だった。
時計を見る。
次のサービスエリアまではもう少し。
大丈夫。
そう思う。
けれど時間は思ったより長く感じられた。
焦らない。
慌てない。
そう言い聞かせる。
しかし尿意は強くなっていく。
やがてサービスエリアの案内表示が見えた。
あと少し。
そう思った瞬間だった。
第一話の夜が脳裏をよぎる。
夜行列車。
あと少しだった時間。
そして――
じゅわぁっ……
紗奈は静かに目を閉じた。
悔しかった。
あと少しだった。
本当にあと少しだった。
それでも以前とは違う。
安心のための備えがある。
だから慌てなくていい。
やがてバスはサービスエリアへ入っていった。
紗奈は落ち着いてトイレへ向かう。
個室に入り、鍵を掛ける。
そして状況を確認した。
今回の失敗は思っていたより大きかった。
長時間の移動だったこともあり、備えにはしっかりとした重みが感じられた。
「あぁ……」
思わず小さく声が漏れる。
あと少しだった。
その思いは残る。
けれど絶望ではない。
安心があった。
紗奈は旅行前に準備していた新しい備えを取り出す。
落ち着いて身支度を整える。
慌てる必要はない。
準備を終えた時、ようやくほっと息を吐いた。
その時だった。
「あっ……」
ほんの一瞬、力が抜ける。
そして――
じゅわぁっ……
ごくわずかな感覚。
紗奈は思わず苦笑した。
「もう……」
思ったより緊張していたらしい。
それでも慌てない。
安心のための準備がある。
そして対処できることも知っている。
今の紗奈はそうなっていた。
鏡の前で身だしなみを整える。
荷物を持つ。
忘れ物を確認する。
そして個室を出た。
サービスエリアの明かりは明るかった。
紗奈は温かいお茶を買う。
夜風が心地よい。
空には星が見えていた。
「きれいだな」
第一話の頃なら、こんな景色を見る余裕はなかっただろう。
失敗したことばかり考えていたはずだ。
しかし今は違う。
失敗しても立ち止まらない。
安心があるから前を向ける。
やがて休憩終了のアナウンスが流れる。
紗奈はバスへ戻った。
夜が明けた頃。
夜行バスは目的地へ近づいていた。
車内にも少しずつ動きが出始める。
隣の男性も目を覚ましたようだった。
やがて終点へ到着する。
乗客たちは荷物を持って降り始めた。
紗奈も通路へ出る。
すると後ろから声が聞こえた。
「どうぞ」
振り返ると、隣の席だった男性が荷物を取るのを待っていてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「いえ」
穏やかな人だった。
それだけの短い会話だった。
だが、不思議と緊張しなかった。
バスターミナルへ出る。
朝の空気は少し冷たい。
案内板を見ていると、その男性も同じ方向へ歩いてきた。
「あの」
男性が少し困ったように笑う。
「この辺、詳しいですか?」
「私も初めてなんです」
紗奈も笑った。
それが二人の最初の会話だった。
結局、二人は観光案内所まで一緒に歩くことになった。
名前は悠斗というらしい。
年齢も近かった。
話してみると気さくな人だった。
移動の話。
旅行の話。
好きな景色の話。
会話は意外と続いた。
「前は移動が苦手だったんですけど、最近は少し好きになりました」
紗奈がそう言うと、悠斗も笑う。
「分かります」
その言葉に紗奈は少し驚いた。
詳しい事情は聞かなかった。
けれど、それで十分だった。
人にはそれぞれ事情がある。
それぞれの安心がある。
案内所の前に到着する。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
悠斗は笑った。
「またどこかで会うかもしれませんね」
「そうですね」
紗奈も笑う。
偶然隣の席になっただけ。
それだけの出会いだった。
けれど旅には、こういう出会いもあるのだと思った。
朝日が街を照らしている。
紗奈は新しい景色へ向かって歩き出した。
その背中は、以前より少しだけ軽くなっていた。
第八話では、紗奈は夜行バスで再び「あと少し」に出会います。
しかし第一話との違いは、その後の行動でした。
失敗しても慌てない。
落ち着いて対処する。
そして再び前を向く。
さらに今回は悠斗という新しい出会いもありました。
安心とは失敗をなくすことではなく、失敗しても前へ進める力なのかもしれません。
紗奈はまた一歩、自分なりの安心へ近づいていました。




