第三章 毒の回廊
小章① 逃亡と接触
冷たい雨が真紀の頬を打つ。 隣のビルの非常階段に着地した衝撃で、足首に激痛が走ったが、構ってはいられない。彼女はびしょ濡れのまま路地裏を駆け抜けた。 背後の窓から、男たちが身を乗り出してこちらを探しているのが見えた。
(自宅には戻れない。携帯もGPSで追跡されるかもしれない)
真紀は携帯の電源を切り、タクシーを拾った。 行き先は、記者である田所の自宅ではない。彼もマークされている可能性がある。 彼女が向かったのは、かつての上司であり、現在は生活環境省の審議官を務める、佐々木という女性のマンションだった。彼女なら、この事態の深刻さを理解し、一時的に匿ってくれるかもしれない。
タクシーの中で、真紀はアグスから送られてきた画像を拡大した。 ドラム缶に書かれた化学式。 『PCB(ポリ塩化ビフェニル)』。 かつて日本で製造され、その強い毒性から製造・輸入が禁止された「負の遺産」。処理には極めて高度な技術とコストが必要で、国内には未処理のまま保管されている在庫が大量にあるはずだ。
「……まさか」
テラ・ジェネシスの久遠寺は、国内で処理に困っているPCB廃棄物を「バイオマス燃料」と偽ってインドネシアに輸出し、現地で焼却処分しているのではないか? そして、その処理費用として裏金を受け取り、さらに表向きは「森林再生」としてグリーンボンドで資金を集める。 完全なる錬金術だ。地球を汚染しながら金を稼ぐ、悪魔のシステム。
佐々木のマンションに到着した真紀は、インターホンを押した。 深夜の訪問に驚いた様子の佐々木だったが、真紀の様子を見てすぐに招き入れてくれた。
「……大変なことになったわね、真紀」
事情を聞いた佐々木は、青ざめた顔で言った。 「テラ・ジェネシスのバックには、大物政治家がついているわ。生活環境大臣経験者の、大河内代議士よ。彼が『アジアの脱炭素モデル』として久遠寺を強力に後押ししている」
「じゃあ、このPCB輸出も、国が黙認していると?」
「黙認どころか、主導している可能性すらあるわ。国内の保管期限が迫るPCBを、見えない場所で安く処分したい勢力がいるのよ」
敵は一企業ではない。国家の闇そのものだ。
小章② ジャングルの黒い霧
一週間後。 真紀はインドネシア・カリマンタン島の奥地にいた。 日本にいては消される。ならば、現地で決定的な証拠を掴み、世界に向けて発信するしかない。ケインが用意してくれたプライベートジェットと、現地の傭兵ガイドの助けを借りて、彼女は「プロジェクト・エデン」の核心部へと潜入していた。
熱帯の湿気と、腐敗臭が混じった風が吹く。 ジープを降り、密林を数時間歩いた先に、その場所はあった。 衛星データで見た通りの、不自然な更地。 そこには、巨大な焼却プラントが聳え立っていた。煙突からは、夜闇に紛れてどす黒い煙が吐き出されている。 周囲の地面は黒く変色し、異様な蛍光グリーンの藻がへばりついている。 ガイガーカウンターのような測定器を持ったガイドが、顔をしかめた。
「……ダイオキシンの数値が異常だ。長居はできないぞ」
真紀はカメラを構えた。 プラントの入り口には、日本語で書かれたドラム缶が山積みにされている。 そして、その横には、銃を持った私兵たちが警備に当たっていた。 その中の一人が、一人の男を引きずり出してきた。 暴行を受け、ぐったりとしているが、見覚えがある。 アグスだ。
「アグス!」
真紀は思わず声を上げそうになったが、ガイドに口を塞がれた。
「助けるのは無理だ。数が多すぎる」
私兵のリーダーらしき男が、アグスに拳銃を突きつけた。 そして、引き金を引こうとしたその時。 プラントの奥から、一台の黒いSUVが現れた。 降りてきたのは、ラフなシャツを着た日本人。 久遠寺翔だった。
「やめろ。殺すな」
久遠寺が私兵を制した。 彼はアグスの前にしゃがみ込み、何かを話しかけている。 真紀は、指向性マイクを向けた。
「……君の勇気は称賛するよ、アグスさん。だがね、これは必要な犠牲なんだ」
久遠寺の声は、東京のホテルで聞いた時と同じように、穏やかで、狂気じみていた。
「日本という小さな島国は、もうゴミで溢れかえっている。誰かが掃除をしなければならない。私はその汚れ役を引き受けただけだ。この星全体で見れば、この程度の汚染エリアは『誤差』に過ぎない。その代わり、私が生み出す莫大な資金で、他の場所に本当の森を作る。……プラスマイナスで考えれば、私は地球を救っているんだよ」
歪んだメシアコンプレックス。 彼は本気で、自分を救世主だと信じているのだ。
「証拠映像は撮れたか?」
真紀はガイドに尋ねた。 「バッチリだ。音声もクリアだ」 「よし、撤収しましょう。これを公開すれば、彼は終わりよ」
しかし、運命はそう簡単には微笑まなかった。 撤収しようとした真紀の足元で、枯れ木がパキリと乾いた音を立てた。 静まり返った森に、その音が響き渡る。 私兵たちが一斉にこちらを向いた。
「誰だ!」
銃声が轟いた。
小章③ 泥濘の逃走
ガイドの男が素早く真紀の肩を掴み、地面に伏せさせた。 頭上を銃弾が薙ぎ払い、熱帯樹の葉がバラバラと降り注ぐ。
「走れ! ジープまで戻るんだ!」
ガイドが腰から拳銃を抜き、威嚇射撃を行う。その隙に真紀は泥だらけの地面を這い、茂みの奥へと駆け出した。 背後で怒号が飛び交う。私兵たちが追いかけてくる気配がする。 足元はぬかるみ、蔓が足に絡みつく。呼吸をするたびに、湿った熱気が肺を焼くようだ。
ジープにたどり着いた二人は、転がり込むように乗り込んだ。 ガイドがエンジンを始動させる。タイヤが泥を跳ね上げ、車体は大きく揺れながら急発進した。 直後、バックミラーに映る闇の中で、数台のバイクのヘッドライトが点灯した。
「追ってくるぞ! 掴まってろ!」
ジープは道なき道を暴走する。 真紀は助手席で、震える手で衛星携帯電話を取り出した。ケインから渡されていた、軍用レベルの通信機だ。 このジャングルの奥地でも、これなら繋がるはずだ。
「ケイン! 聞こえる!?」
『……マキか? ひどいノイズだ。無事なのか?』
「証拠は撮ったわ! PCBよ! 日本からの有害廃棄物を焼却している! 今からデータを送るわ!」
真紀はカメラと携帯をケーブルで繋ぎ、データ送信を開始した。 しかし、通信速度は遅い。プログレスバーは遅々として進まない。
『PCBだと……? なんてことだ。それが事実なら、テラ・ジェネシスは破産どころか、国際犯罪組織として認定されるぞ』
ケインの声にも焦りが混じる。
「あと五分! 五分あれば送信できるわ!」
その時、銃声と共にリアガラスが粉砕された。 バイクの追っ手がすぐ後ろまで迫っている。 ガイドがハンドルを切りながら叫ぶ。
「五分ももたんぞ! 前を見ろ!」
ヘッドライトの先に、川が見えた。橋はない。 増水した濁流が渦を巻いている。
「突っ込む気!?」
「泳ぐよりはマシだ!」
ジープは減速することなく、川へとダイブした。 激しい衝撃と水しぶき。 車体は半ば沈みながらも、勢いで対岸の浅瀬へと乗り上げた。 エンジンが悲鳴を上げ、停止する。 追っ手のバイクは川の手前で止まり、ライトでこちらを照らしている。彼らは銃を構え、一斉射撃を開始した。
真紀は車の床に伏せながら、携帯の画面を見つめた。 送信完了まで、あと10%。 弾丸がボディを貫通し、火花が散る。
「神様……!」
99%。 100%。 『送信完了』の文字が表示された瞬間、真紀は携帯を抱きしめて叫んだ。
「ケイン! データは送ったわ! あとは頼む!」
『受け取った。……よくやった、マキ。生き延びろ。必ず迎えに行く』
通話が切れると同時に、ガイドが真紀の腕を引いた。
「車を捨てて森へ入るぞ。ここからは徒歩だ」
二人は闇のジャングルへと消えていった。 背後で、燃料タンクに引火したジープが爆発し、夜空を赤く染め上げた。




