第一章 金色の森
小章① 救世主の登壇
令和八年、五月。 東京・大手町の高級ホテル「ニブスホテル東京」の大宴会場は、熱気と高揚感、そして微かなシャンパンの香りに包まれていた。 『第十回 アジアESG投資サミット』。 会場を埋め尽くすのは、ダークスーツに身を包んだ機関投資家、証券会社のアナリスト、そして生活環境省や産業省の官僚たちだ。彼らの胸元にはSDGsのカラフルなバッジが光り、口々に「持続可能性」や「脱炭素」といった美辞麗句を交わしている。
会場の後方、プレス席のさらに後ろの壁際で、滝川真紀は冷めた目でその光景を眺めていた。 三十三歳。環境コンサルティング会社『ガイア・ソリューションズ』のシニア・コンサルタント。 ショートカットの黒髪に、飾り気のないパンツスーツ。手にはシャンパングラスではなく、ミネラルウォーターのボトルが握られている。彼女の仕事は、投資対象となる企業の環境負荷を数値化し、その適正さを評価することだ。いわば、資本主義が環境を食い物にしないための「番犬」である。
「……随分と景気が良さそうですね、真紀さん」
隣に立った男が声をかけた。経済紙記者の田所だ。
「ええ。地球を救うという名目でお金が集まるなら、悪いことじゃないわ。……中身が伴っていれば、の話だけど」
真紀は皮肉っぽく笑った。 ステージの照明が落ち、巨大なスクリーンに映像が投影された。 鮮やかな緑。広大な熱帯雨林。空を飛ぶ極彩色の鳥たち。そして、その森を守るように立つ巨大なバイオマスプラント。 荘厳な音楽と共に、一人の男がスポットライトを浴びて登壇した。
久遠寺 翔。 新興エネルギー企業『テラ・ジェネシス』のCEO。四十歳。 Tシャツにジャケットというラフなスタイルは、かつてのスティーブ・ジョブズを彷彿とさせる。彼は若くしてIT企業を売却し、その莫大な資金を元手に環境ビジネスに参入した「グリーンの寵児」だ。
「皆さん、聞こえますか。森の呼吸が」
久遠寺が両手を広げた。
「我々テラ・ジェネシスは、インドネシア・カリマンタン島(ボルネオ島)において、東京ドーム一万個分に相当する荒廃地を再生させました。独自のバイオテクノロジーを用いた早生樹『テラ・ツリー』の植林により、通常の十倍の速度でCO2を吸収し、バイオマス発電によって現地の電力を賄っています」
スクリーンに、青々とした森の衛星写真と、右肩上がりのグラフが表示される。
「そして本日、我々はこのプロジェクトをさらに拡大するため、過去最大規模となる一千億円の『グリーンボンド(環境債)』を発行します。この債券は、単なる投資ではありません。地球の未来へのチケットなのです」
会場が割れんばかりの拍手に包まれた。 一千億円。国内のグリーンボンド市場でも類を見ない規模だ。 投資家たちの目が「金」の色に輝いている。高い利回りと、「環境に貢献した」というESGスコアの両方が手に入るのだから、彼らにとっては垂涎の的だ。
「……出来すぎね」
真紀は呟いた。 通常の十倍の成長速度を持つ樹木。短期間での広大な森林再生。そして、バイオマス発電の高効率な稼働。 すべてが理想的すぎる。自然界の摂理を無視したような数字だ。
「疑ってるんですか?」
田所が小声で尋ねた。
「私の仕事は疑うことよ。特に、綺麗すぎる数字と、饒舌すぎる経営者はね」
真紀は久遠寺を見つめた。 彼の笑顔は完璧だった。だが、その瞳の奥には、自然への愛着ではなく、もっと冷たく、硬質な光が宿っているように見えた。
小章② 依頼人
翌日。 真紀は、港区にある外資系ヘッジファンド『ダビデ・ストーン・キャピタル』のオフィスに呼び出されていた。 依頼主は、ファンドマネージャーのジェームズ・ケイン。ロンドン出身の冷徹な投資家で、「ハゲタカ」というよりは、獲物の死角から音もなく忍び寄る「豹」のような男だ。
「単刀直入に言おう、ミス・タキガワ。テラ・ジェネシスのグリーンボンドについて、君の専門的な意見が聞きたい」
ケインは、久遠寺が発表したプロジェクトの目論見書をデスクに放り投げた。
「一千億円の案件です。御社も引受を検討されているのですか?」
「表向きはね。だが、私の鼻が何かが腐っていると告げている。……利回りが良すぎるんだ。カントリーリスクの高いインドネシアの奥地で、これほど安定した収益とCO2削減効果が出せるものなのか?」
真紀は目論見書を手に取った。 美しい写真と、希望に満ちたグラフ。第三者機関による「セカンド・オピニオン(適合性評価)」も取得済みで、最高ランクの「Green 1」が付与されている。 形式上は完璧だ。
「彼らが主張する『テラ・ツリー』の成長データ、そして現地の森林再生状況。これらが事実かどうか、裏を取ってほしい。期間は一週間だ」
「一週間? 現地調査に行く時間はありませんよ」
「だから君を呼んだ。君は衛星データ解析のスペシャリストだと聞いている。現地に行かずとも、宇宙から森の嘘を見抜けるはずだ」
真紀は少し考え、そして頷いた。
「分かりました。ただし、私の調査結果が御社の利益になるとは限りませんよ。もし本当に素晴らしいプロジェクトだったら?」
「その時は喜んで一千億を出そう。だが、もし『メッキ』だった場合は……」
ケインは口元を歪めた。
「空売り(ショート)を仕掛ける。徹底的にな」
環境保護と投機。相反するような動機だが、真実を暴くという点では利害が一致している。 真紀は契約書にサインした。 報酬は破格だった。だが、それ以上に彼女を突き動かしたのは、あの会場で感じた「違和感」の正体を知りたいという探究心だった。




