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アトラースの天盤  作者: のぎく
1/1

1 合間


L.A.240.02.01.12:32










今日の現場は、私が到着する頃には既にすべて終わった後だった。




心拍の停止により「処理」が決まった “人間だったもの” が転がっている。






――おててを はなせば おそらの底へ


  真っ逆さまに 落ちてゆく






遠くから、子どもの笑い声と共に童歌が聞こえてくるのに、現場は静まり返り冷静な指示を出す声しか聞こえない。




私は無情にも“それ”が運ばれ「処理」されるのを見ていることしかできなかった。




目の前にそびえる巨大な下水の配管。暖かさに乗った甘い匂いに、少し気分が悪くなる。






一瞬視界の隅で物質としてのデータが表示され、反射で目をそらし細める。どんなに目をそらそうとも、目を瞑らない限りデータが視界から消えることはない。






――明日のパンに なれるのさ




二人がかりで持ち上げ配管に投げ入れる。


担ぎ上げた瞬間腕がだらりと垂れ下がり、指先がまだわずかに痙攣しているのが見えた。






私の背丈を超える太さの金属筒が、ゴボリ、と重い音を立てて獲物を飲み込む。


この先で待っているのは、有機物を再び資源として再利用するための行程。






すなわち、文字通りの「処理」だ。








今朝食べたパンの、あの妙に甘ったるい後味を思い出して吐き気がした。


























管理区画へ戻る途中、






一定の足音に、頭の中で童歌が勝手にループする。子供たちの明るい笑い声が、静まり返った現場の記憶と重なる。






金属筒が立てた重い音。




下水のあの独特な甘い香り。




配管の先に待ち受ける、分解やその先すら想像してしまう。




流され、凍り、砕かれる。その後、成分へ抽出。




それを元に私たちの食事は作られる。




いつか、学習した循環システムの仕組み。












そんな感情を、デバイスは『警告:心拍数の乱れ(安静を推奨)』という文字で塗りつぶした。








――何か他の事を。






もう記憶に薄い家族の顔を思い出そうとし、やめた。




私は「塔の人間」である。




仕事に集中しなければならない。しかし、今日は現場での仕事も特に無かったので、塔へ戻るしかない。






ただひたすらに、考えを断ち切るように足を進めた。


















硬い足音だけが、折り重なる影の奥へと吸い込まれていく。入り組んだ建物の中を進む。


薄暗くどこか不気味だ。




建物と建物をつなぎ合わせ、積み上げて出来たようなこの層はデバイスのナビ機能が無ければ迷ってしまう。








まるで出来の悪い立体迷路だ。




建物が積み重なる中層から階段を上り、塔の建つ上層へ向かった。






















「疲れた……。」



私は上層へ繋がる長い螺旋階段の途中で立ち止まり、手すりに触れた。


体温を奪うほどに冷たい。


塔を構成する特殊合金は、自身の損耗を検知すると、周囲の熱を吸い上げて自己修復を行う。この冷たさは、塔が「生きている」証だった。












まばたきを一つ。右目のコンタクトレンズ型デバイスが私の「現在」を無機質に表示する。




『環境ステータス:正常。管理権限:レベル2 記録員(補助員)』






記録員の権限に含まれる「注釈」。


これは私の能力ではない。塔という巨大なシステムから一時的に貸与された、世界を操作するための権限だ。








注釈を付けるには、独特のコツがいる。




ただ願うだけでは、システムは動かない。意識のピントを、指先から触れている対象の「核」へ、細い針を通すように滑り込ませる。適性検査で選ばれた者にしか分からない、あの指先が物質の深層へ沈み込んでいく感覚。脳の裏側を針でつつかれるような鋭い頭痛。その不快な感覚の果てに、対象の状態を事実として確定させる。












――この手すりに「亀裂」を願うと、私の脳波をシステムが受理し、塔内の物理リソースを即座に割り当てる。数秒後には頭上の暗闇から修復ドローンが飛来し、火花を散らして溶接を始めるだろう。






……もっとも、そんな権限の私用がバレれば、次は私が「再資源化」の対象になる。


























――「判断はしなくていいから。」






上司の声を思い出す。穏やかだが、すべてを諦めたような投げやりな声。




最初にそう言われたのは、確か十四のときだった。








適合性検査で「事物の固定に適している」と診断され、私はこのデバイスを与えられた。


初めてのコンタクト型デバイス。レンズ部分が硬質で装着が難しく、装着ができても異物感が強かった。




度重なる検査や研修を受けた後。










初めての現場では、デバイスの指示通りに地面に倒れている人の腕に触れたとき。


視界には『推奨:「停止」を付与』という青いログが明滅していた。




私は指示に従い、ピントを合わせ、後頭部の鋭い痛みと共にその人の生存状態を「停止」として確定させた。






――この人は「動けない」






瞬間、塔のシステムが私の意志を物理現象へと翻訳した。


どこかで機械音が鳴り、一人の警備員が男の首にベルトのようなものを巻き付けた。








それは治療ではなかった。ただ、システムが「動かさない」という目的を最も効率的に遂行した結果だった。




遠くで意識が戻ったのであろう男が、動こうとしているのか断続的な悲鳴が聞こえる。






「よくやった。」








上司はそう言って、うつむく私の肩を叩いた。




「君は、判断はしなくていいから。システムの指示に従っただけだ。」






システムは効率を守り、私は手順を守った。


誰も悪くない。誰も間違っていない。






ただ、その人の悲鳴だけが、私のデバイスには記録されていなかった。






















注釈といっても私の意志は関係ない。これは、単なる手動でシステムを「同期」をする作業だ。




感情を排し、システムという巨大な論理回路の、末端にある「スイッチ」として機能しなければならない。




塔の中で働くには「適合性検査」を受け、適合する必要がある。


選ばれたものしか就くことができない塔での仕事。


人々が羨む特権を持つ「塔の人間」である。




別れを告げる事も無く、家族に何も伝えず一人でここにきてしまった。


“自分だけ”という罪悪感が数年経ち、深さを増して未だ私の胸に残り続けている。
















腰で呼び出し端末が震える。




また現場だ。






私は壁に映る自分の顔を横目で見ながら、元来た螺旋階段を下り始めた。


右目の中では、常にシステムが「推奨される事実」を提案し続け、私にピントを合わせろと促してくる。




今日はまだ、一度も同期させていない。




この「権限」という借り物の重みが、今の私には少しだけ恐ろしかった。

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