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探し続けた人

― 最南端の教会で「彼女」と再会し、すべてが終わる


 


 海は静かだった。

 潮の音がほとんど聞こえないほど、穏やかだった。

 波は小さく、砂は白く、風は甘い。

 空と海の境界は曖昧で、

 世界の輪郭が溶けていくようだった。


 


 わたしは岬の端を歩いていた。

 足元には小石が散らばり、

 踏むたびに、かすかな音を立てた。

 長い旅の果てに、ようやくたどり着いた場所――

 《最南端の教会》と呼ばれていた。


 建物は崖の上に建っていた。

 白い石でできた小さな教会。

 壁はところどころ崩れ、

 屋根の一部は落ち、鐘は鳴らなくなって久しい。

 それでも、誰かの祈りの残り香が漂っていた。


 


 扉を押すと、静かな空気が流れ出した。

 中は思いのほか明るかった。

 天井の穴から光が差し込み、

 埃が金色の粒になって舞っている。

 空気は古く、それでいてどこか新しかった。


 祭壇の前に、一つの像があった。

 それは、わたしの姿に似ていた。

 銀髪、赤い瞳、細身の体。

 ただし、その顔はどこか柔らかかった。

 わたしよりも穏やかで、

 まるで長い赦しを受け入れた人のようだった。


 


 「何年ぶりになるかな」

 声をかけると、

 教会の奥からかすかな音がした。


 祭壇の陰から、ひとりの少女が現れた。

 黒髪の短い髪。

 緑に近い瞳。

 白い肌。

 あのころと同じ姿。


 「あなた……」と彼女は言った。

 「また、来てくれたのね」


 わたしは頷く。

 「探したよ。ずっと」


 「ええ、知ってた。

  ずっと、見ていたもの。

  あなたが、わたしの欠片を拾い集めて歩いているのを」


 彼女の声は、風のように静かだった。

 怒りも悲しみも、もうなかった。

 ただ、やさしい寂しさが残っていた。


 


 わたしは尋ねた。

 「君は……まだ、ここにいるのか」


 「いるよ。

  でも、もう“わたし”ではないの。

  わたしはこの世界に溶けた。

  海にも、空にも、風にも。

  ただ、あなたが呼ぶたびに、

  “彼女”の形を借りてここに現れるだけ」


 「それでもいい」

 わたしはそう言った。

 「形がなくても、声が届けば、それでいい」


 


 彼女は微笑んだ。

 「ねえ、覚えてる?

  昔、言ったでしょう。

  “死を恐れすぎてはいけない”って」


 「覚えてる」


 「わたしたちは何度も出会って、何度も死んだ。

  でもね、それは罰じゃない。

  それは、世界がわたしたちをまだ手放せなかっただけ」


 「もう、終わりにしてもいいのか」


 「ええ」

 彼女は祭壇の前まで歩き、

 両手を胸の前で組んだ。

 「わたしを信じてくれてありがとう。

  信仰としても、人としても。

  あなたが覚えていてくれたおかげで、

  わたしはここにいられた」


 「ありがとう」とわたしは言った。

 それ以外の言葉が見つからなかった。


 


 彼女はゆっくりと振り返り、

 わたしを見つめた。

 その瞳は、もう涙を含んでいなかった。


 「あなたは、これからどうするの?」


 「分からない。

  でも、たぶん――もう、探さない」


 「それがいい。

  探すことは、生きることだけれど、

  見つけたら、ようやく“死ねる”から」


 


 光が差し込んだ。

 天井の穴から入った陽光が、

 彼女の体を包みこんだ。

 白い衣が風に揺れ、

 彼女の輪郭が透けていく。


 「ねえ、最後に一つだけ聞いていい?」

 彼女が言った。


 「なんだい」


 「わたしを愛してる?」


 「愛してる」

 わたしは迷わず言った。

 彼女は少し笑い、

 「それなら、もう十分」と答えた。


 


 彼女の姿が光に溶けていった。

 声が、匂いが、気配が、すべて静かに薄れていく。

 風だけが残り、教会の扉を鳴らした。

 祭壇の上の像が、わずかに傾き、

 やがて崩れた。

 粉になった石が、陽光の中で輝いた。

 まるで、涙のように。


 


 外に出ると、海の色が変わっていた。

 青でも、灰でもない。

 ただ、静かな色だった。

 風が吹き、砂が舞い、遠くで鳥が鳴いた。


 わたしは振り返らなかった。

 教会の屋根の上で光がきらめき、

 そのままゆっくりと、空へと溶けていった。


 


 ――これでいい。

 彼女がそう言っている気がした。

 探すことも、嘆くことも、もう要らない。

 世界はようやく眠りについた。


 


 わたしは歩き出す。

 風の向こうで、彼女の声がかすかに響いた。


 ――「また、会えたね」


 


 その瞬間、世界が光に包まれた。

 音も、痛みも、名前も、すべて消えた。


 ただ、ひとつの記憶だけが残った。


 ――君を、愛していたという記憶。


 


 わたしの死は、ようやく届いた。

 そしてその分だけ、

 あなたは、永遠になった。


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