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教えにしたがう人々

― 死を解放と呼び、笑って死ぬ儀式を行う信徒たち


 


 さらに南へ。

 空の青は薄く、海の線は遠い。

 風は塩を含み、頬に白い粉の味を残した。

 道はまっすぐではなく、古い隆起に沿って波打ちながら続く。

 歩幅を合わせる相手はいない。

 それでも、わたしは“誰かと一緒に歩いている”感じを捨てられなかった。

 彼女の気配はもう長く、言葉ではなく沈黙のかたちで隣にいた。


 


 岬の根元に、石の町があった。

 壁は白く、屋根は低く、通りは狭い。

 笑い声が近づき、同時に鐘の音が遠のく。

 人影は多いのに、影そのものが薄い。

 門柱には素朴な字でこう書いてあった。

 《解放区》


 入るとすぐ、女たちが輪になって座っていた。

 柔らかな布をまとい、肩を寄せ合い、小さな声で歌っている。

 歌は陽気で、どこか子守歌にも似ていた。

 輪の真ん中には藁の寝台があり、老いた男が静かに横たわっていた。

 顔は穏やかで、息は浅く、目は閉じられている。

 誰も泣いていなかった。

 笑っていた。

 押し殺した笑いではなく、花のそばで自然とこぼれるような笑いだった。


 「外の方?」

 背後から声がして振り向くと、

 灰の衣を着た女司祭が立っていた。

 喉仏の動きが小さく、声は澄んでいる。


 「北から」と答える。


 「なら、寒い場所の礼法をご存じね。

  こちらでは、死は“解放”。

  涙は塩の無駄遣い。

  笑いで見送るのが習わしです」


 「泣いてはいけないのか」


 「いいえ、“いけない”ではありません。

  ただ、ここでは笑いが選ばれただけ」


 女司祭の目はやさしいが、底は深い。

 その底の深さに、わたしは自分の影が沈む音を聞いた気がした。


 


 広場の片隅に、木でできた案内板が立っていた。

 《解放礼》

 式次第が簡潔に記されている。

 ――集い、歌い、笑い、軽く食む。

 ――最後に手を振り、それぞれの生活へ戻る。

 ――振り返らない。


 「振り返らない?」とわたしは読み上げる。


 「ええ」と女司祭。

 「“戻らない者”に、こちらから戻ってはいけません。

  それが残る者の礼儀」


 わたしは彼女の言葉を思い出した。

 ――“死を自然に悲しむこと、それが何より死者への弔いだ。”

 ここではそれが「笑い」に置き換わっている。

 悲しみを否定しているわけではない。

 ただ、悲しみの表情を別の器で持つやり方を選んでいる。


 


 やがて歌が少し高くなり、輪の中心で誰かが短い話をした。

 内容はただの思い出話だった。

 川で足を滑らせたこと、若い日に盗み食いしたパン、

 雨の日に二人で笑いが止まらなくなったこと。

 笑いが伝染する。

 寝台の老いた男の口元も、かすかに緩んだ。


 女司祭がわたしを見た。

 「あなたは、泣きたいですか」


 「分からない」と答える。


 「ここでは、泣いても笑っても、沈黙でもいい。

  ただ、最後に“戻らない”を選ぶことだけは、皆で守る」


 「なぜ」


 「戻ろうとする心は、魂を引き留める。

  引き留められた魂は、重くなる。

  ここは“軽さ”を渡す場所」


 軽さ、と彼女は言った。

 わたしの胸で、何かが小さく軋んだ。

 軽さは救いの別名かもしれない。

 でも、軽さは時に、忘却の別名でもある。


 


 海に面した礼拝堂は、窓が広かった。

 祭壇の背には絵がない。

 代わりに、海しかない。

 潮が満ち引きし、光が波紋になって天井を揺らす。

 信徒たちがベンチに座り、笑いを湛えた顔で海を眺めていた。

 笑いは声だけではなく、姿勢のなかにも宿る。

 背筋が少し伸び、肩の力が抜け、

 目尻がほんのすこし下がる。

 それを見て、わたしは自分の体がこわばっているのに気づいた。


 女司祭が祭壇に立ち、短く祈りを唱えた。

 「海のように解け、風のように散り、光のように残れ」

 信徒たちはうなずいた。

 「感謝を。笑いを。さよならを」

 拍手はなかった。

 ただ、笑い声が柔らかく重なり合った。


 老いた男が最後の息を吐くと、

 窓から風が入った。

 布が少し持ち上がり、海の匂いが強くなった。

 誰も泣かなかった。

 誰も彼の名を呼ばなかった。

 いくつかのパンが配られ、甘い果実が回ってきた。

 人々はそれを一口だけ食み、ふだんの家路についた。

 振り返らない。

 夕方の光の中で、町は静かに薄くなった。


 


 わたしは礼拝堂の端で立ち尽くしていた。

 笑いの余韻は残り、空気は軽い。

 軽さは善だ。

 だが、軽さの中に置き忘れられるものがある。

 わたしが探しているものは、軽さよりも重さに近い。

 重力のように、落ちていく実感。

 わたしが彼女を失った日の、あの胸の落下。

 それが、わたしをまだ歩かせている。


 女司祭が近づき、祭壇の脇にあった小さな椅子を指さした。

 座ると、彼女は海とは逆の壁を示した。

 そこにはどの宗派にも属さない象徴が刻まれていた。

 円も十字も月も星も、すべてが中途で途切れている。

 ――「解放はかたちを持たない」


 「あなたは、誰かを探している顔をしている」

 女司祭が言った。

 「ここで見つかるでしょうか」とわたし。

 「ここでは、見つけないことを学ぶ場所です」


 「見つけない?」


 「ええ。

  “見つけない”と“諦める”は、似ているけれど違う。

  見つけないのは、相手の自由に歩数を譲ること。

  諦めるのは、自分の歩数を投げ捨てること」


 わたしは彼女の横顔を見た。

 頬に刻まれた細い皺が、笑いの分だけ増えている。

 その皺は美しかった。


 「あなたの笑いは、誰のため?」と彼女が問う。

 「分からない」と答える。

 「なら、まだ歩けます」と女司祭。

 「笑いが自分のためだけになるとき、人は止まるから」


 


 礼拝堂を出て、海沿いの道を歩く。

 波は低く、白い泡は少ない。

 浜に足跡は残らない。

 かわりに、風が筋を引いていく。

 わたしはその筋を読み違えないように、

 歩幅を小さく保った。


 町は夜に落ち、家々の中からまた笑いがこぼれた。

 笑いは灯りに似る。

 遠くから見ると温かいが、近づくと形を持たない。

 その形のなさが、ここでは恐れを追い払っていた。


 


 高台の小さな墓地で立ち止まる。

 墓標は低く、名は浅く、日付はない。

 女司祭の花らしい白い小花が、風に倒れ、また立つ。

 わたしは腰をおろし、目を閉じた。


 ――“死を自然に悲しむこと、それが何より死者への弔いだ。

   笑ってもいい。泣いてもいい。

   でも、笑いだけで終わらせないで。

   涙だけで終わらせないで。”


 彼女の声は、海の裏側から届いた。

 わたしは深く息を吸い、ゆっくり吐く。

 笑いも涙も、いずれどちらも消える。

 残るのは、歩いた距離だけだ。

 その距離が、わたしをあなたへ連れていく。


 


 町を離れる朝、門で女司祭が待っていた。

 手には小さな布包み。

 中には乾いた果実が入っていた。

 「旅の甘さに」と彼女は言った。

 「あなたが見つけるのは、人でも、神でもないかもしれない。

  でも、あなたが見つけたときには、

  きっと、あなた自身が“見つけられる側”になっている」


 「わたしは、見つけられるだろうか」


 「笑いにも涙にも寄りかからずに歩く人は、

  いつか必ず見つけられる。

  風が、その人を指すから」


 礼を言い、背を向ける。

 振り返らない。

 彼らの作法を借りて、門を出る。

 風が吹き、布包みの甘い匂いが胸に満ちる。


 


 岬は細く、道はさらに南へ伸びていた。

 古い道標が一本、傾いている。

 《最南端:教会》

 矢印は海の方角を示している。

 文字は剥げているが、意味は残っていた。


 わたしは指で文字をなぞり、

 塩で白くなった指先を見つめる。

 “彼女”は、そこにいる。

 恋人であり、信仰であり、

 神にもならず、人にも戻れなかったもの。

 わたしの終わりであり、はじまり。


 


 空は淡く、海はさらに淡く、

 両者の境目は朝の息でわずかに揺れていた。

 わたしは歩く。

 笑いも、涙も、背に置いて。

 軽さと重さの間で、ただ歩く。


 わたしの死は、まだ遠い。

 けれど、その分だけ、あなたに近づいている。

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