死をのぞむ人々
― 眠りを選び、死を待つ人々との邂逅
南へ。
風がやわらかくなった。
砂は消え、代わりに湿った土の匂いが漂っていた。
遠くで鳥の鳴く声がした。
この世界に、まだ飛べるものがいた。
わたしは久しぶりに、木々の間を歩いた。
枝が折れ、葉が落ち、積もった枯葉が足元で音を立てる。
森はかつてのような生命の喧騒を失っていたが、
それでもなお、死の中にゆるやかな呼吸を残していた。
やがて、森が開けた。
そこにあったのは、沈黙の街。
建物の壁には苔が生え、道には人影がなかった。
しかし窓という窓の奥に、人が“いた”。
動かない。
目を閉じ、まるで眠っている。
けれど、呼吸のリズムが確かにあった。
街の入口に、小さな立て札があった。
《永眠区》
広場には長椅子が並び、
そこにひとりの女が腰掛けていた。
髪は白く、顔は穏やかで、手には小さな砂時計を持っていた。
「外の人だね」と、女は言った。
「そうだ」と答える。
「もう歩く人は少ないよ。
ここに来る人は、だいたい、もう歩くのをやめた人ばかりだから」
「歩くことを、やめる?」
女は小さく笑った。
「みんな眠るの。生きたまま。
死ぬのを待つのでもない。ただ、止まるの」
街の通りを歩くと、至るところにベッドが並んでいた。
路地にも、公園にも、教会の中にも。
そこに人々が静かに横たわり、目を閉じていた。
チューブも、機械もない。
ただ眠るだけ。
目覚めることも、拒まない。
風が吹くと、髪が揺れた。
まるで、みんなで同じ夢を見ているようだった。
女が言った。
「能動的な死は、救いじゃなくて、諦めだって言う人もいたよ。
でもね、わたしたちは死を“選んで”はいないの。
ただ、生をやめたの」
「やめることと、終わることは違う」
「そうかもしれないね。
でも、世界が動かなくなったら、
わたしたちも動く理由をなくしただけ。
それだけのこと」
通りの奥に、古い時計塔があった。
針は午前三時を指したまま止まっている。
その下で子どもが一人、座って空を見上げていた。
声をかける。
「眠らないのかい」
子どもは首を振った。
「ぼくは、みんなが寝てるあいだに“時間”を見張ってるんだ」
「時間?」
「うん。
時計が動かない間にも、
時間はちゃんと生きてるか、見張ってるの」
「それで、どうだい」
「ううん、分からない。
でもね、たまに風が吹くとき、
“時間がくしゃみした”って思うんだ」
わたしは笑った。
子どもの目は透き通っていて、
眠っている人々とはまるで違う光を宿していた。
夜になった。
街の灯りは一つも点かなかった。
かわりに無数の窓から、月光が漏れていた。
眠りについた人々が、月に反射しているようだった。
中央の広場では、女がまだ椅子に座っていた。
「眠らないのか」と尋ねる。
「そのうち眠るよ。
でも、あなたを見送るまでは起きていたい」
「どうして?」
「昔、誰かを待っていたの。
その人は“動き続ける人”だった。
でも、あの人は、もう動かない。
だから、今度はわたしが見送る番なの」
「その人のことを、まだ想ってるんだね」
「ええ。
たぶん、想うことも、生きることの一部だったのよ」
女は立ち上がり、
手にしていた砂時計をわたしに差し出した。
「持っていきなさい。
もう、砂は落ちきっているけど、
それでも時間は止まっていないことを、思い出せるから」
わたしは受け取り、
その重みを掌に感じた。
軽く見えるのに、驚くほど重かった。
彼女の声が、胸の奥でひびく。
――“能動的な死は救いじゃなくて、諦め。
でも、眠るのは、祈りに近い。
世界が眠っている間に、
きっと誰かが、また夢を見るから。”
翌朝。
街は完全な静寂に包まれていた。
女の姿はもうなかった。
椅子の上には、彼女の砂時計と同じ形の石が置かれていた。
まるで、眠るように消えていったのだろう。
わたしは立ち上がり、再び歩き出した。
足元に風が流れ、葉が揺れる。
その音は、どこかで彼女が笑った声に似ていた。
世界が止まっても、
時間だけは歩き続けている。
それが希望だと言えるなら、
わたしはまだ歩ける。
森の出口で、振り返る。
眠りの街は、朝の光の中で霞んでいた。
空は淡く、雲は低い。
どこかで誰かが、夢を見ている気がした。
わたしの死は、まだ遠い。
けれど、その分だけ、あなたに近づいている。




