堂々巡りをくり返す人々
― 知識を蓄えながらも、同じ過ちを繰り返す知性体
南へ。
地平線はさらに低くなり、空が広がった。
風は乾き、砂の粒が歯にあたる。
昼は過剰に明るく、夜は過剰に暗い。
世界はもう、ほどよさという調整を忘れていた。
丘を越えた先に、白い建物群が現れた。
遠目には岩塩の塊のようで、近づくとすべて書庫だった。
縦横に走る回廊、積み木のように積層した部屋、
壁一面に、紙と合成樹脂と薄い金属板。
かつての学都の末裔――いまは「総覧庫」と呼ばれている。
入口に誰もいない。
階段を下りると、冷えた空気が胸を刺した。
呼吸するたび、紙の匂いと微かな油の匂いが混ざって入ってくる。
照明は白く、音は少ない。
足音さえ、ここでは遠慮深く響いた。
最初の広間で、黒衣の人々が机を囲んでいた。
年齢は分からない。
顔は痩せ、目だけが異様に静かで、
瞳孔の奥に薄い光が宿っている。
視線が触れ合っても、感情の濁りが起きない。
彼らはゆっくりと頷き合い、同じ速さで首を傾けた。
知性は、熱を失ってもなお作動するらしかった。
「外から?」
ひとりが問う。声は乾いていた。
「北から」と答える。
「ようこそ総覧庫へ。ここには世界の複製がある。
失われたものはない。あなたの探す“答え”も、ある」
わたしは少し笑った。
「答えが本にあるなら、世界は滅びていない」
彼らは頷いた。
反論ではなく、記録としての頷きだった。
回廊を案内される。
棚には印の付いた背表紙が並び、
各巻の隙間に細い端末が差し込まれている。
「同じ過ちの地図」と書かれた棚を指される。
引き抜いた冊子のページには、
疫学、経済、政治、倫理、気象、戦争――
終末に至るあらゆる経路が、数式と図で淡々と並んでいた。
「我々は千の“もし”を検討し、
あらゆる“つまずき”に名前を与えた。
名が与えられたものは、回避できる。
そう信じていた」
案内人は言う。
その声の末尾で、わずかな自嘲が震えた。
地下へ。
そこは書ではなく、鏡で満ちていた。
壁一面のスクリーンに、分割された世界が映る。
都市の俯瞰、群衆の流れ、河川の温度、言語の分岐。
無数のシミュレーションが並行し、
数字が常に増減している。
「学習器官」だと彼らは呼んだ。
「ここでは、人類の意思決定を再現し、
誤りの挙動を先回りして抑制する。
何千回、何万回も試した。
結果は同じだった」
「同じ?」
「はい。
知識は増え、判断は速くなり、
それでも初期条件のわずかな利己と恐怖が、
全体の崩壊に拡大する。
“気づいている”ことは、“変わる”ことと無関係だ」
スクリーンの片隅で、赤い線が音もなく下がっていく。
それは出生率でも、信頼度でも、資源残量でもよかった。
どれであっても、線は同じ角度で落ちていった。
広間の中心に、丸い机があった。
その上に一枚の紙。
手書きでこう記されている。
《我々は知ってから滅びた。知らずに滅びるより賢いが、
救いではない》
「これを書いたのは誰」と問う。
「初代の“総覧者”だ」と案内人が答える。
「彼は最後に自分を実験にかけた。
最良の知と最短の行動が、人を救えるかどうか。
結果、救えなかった。
彼はその晩、静かに眠った」
堂々巡りの図が壁にあった。
中心に小さな円。
その外側に、同心円が幾重にも重なる。
矢印は外へ外へと伸び、最後には紙の端で途切れている。
「これが世界の運動」と誰かが言った。
「同じ場所を回りながら、すこしずつ外へ広がり、
やがて縁から落ちる」
わたしは尋ねた。
「ここにいる人々は、なぜ出ていかない」
「出て行ったことがある。
だが戻ってきた。
外は感情が強すぎて、判断が熱で歪む。
ここでは冷たい。だから測れる。
測れれば、いつか違う“もし”にたどり着く気がする」
「たどり着いたか」
「まだだ」
その「まだ」に、彼らの信仰が宿っていた。
信仰は、必ずしも神を必要としない。
夕刻、閲覧室に一人の若い女が来た。
黒衣の下から、骨の細い手が伸びる。
机に青い布を広げ、
そこへ古い紙片を一枚ずつ、丁寧に並べた。
新聞の切れ端、手紙、落書き。
どれも名もなく、発見した土地の砂がまだ付いている。
「何をしている」と問う。
女は微笑んだ。
「“知らないもの”を増やしているの」
「知らないもの?」
「総覧庫の欠点は、すべてを知ろうとすること。
知らなさを保存しないと、知の形が固まってしまう。
固まった知は、同じ過ちを別の名前で繰り返す」
女は紙片を指で押さえ、
砂を払い、端をそろえる。
「わたしは“欠け”の司書。
ここに、穴を作るのが仕事」
彼女の爪に、薄く紙の粉がついた。
その粉は陽の傾きに浮かび、柔らかく光った。
夜。
総覧庫の屋上に上がると、風が強かった。
星は近く、塔は白い。
下から機械の低音が伝わる。
わたしは手すりに背を預け、目を閉じた。
――“知っている、は武器だよ。
でもね、あなたの優しさは、
いつも武器より少し遅れて届く”
彼女の声。
あの夕暮れの色を伴って、胸の浅いところに落ちた。
遅れて届く優しさは、たしかに役に立たない。
でもわたしは、それ以外の届け方を知らない。
翌朝、出立の前に案内人が小さな端末を差し出した。
「これは道具ではない。忘れものだ」
画面には、短い文だけが保存されていた。
《学んだことは、学んだことを超えない。
救われるのは、学んだ後に選ぶ“くだらない選択”だ。
手をつなぐ。水を分ける。眠らせる。見逃す。
それらはモデル化に失敗する。だから、残る。》
わたしは端末を返した。
「持っていきなさい」と案内人は言う。
「ここには複製がある。あなたには現物がいる」
わたしは受け取らなかった。
複製があるなら、ここに置いておくのが一番いい。
現物は、手に持った瞬間から、自分の過去になる。
出入口に立つと、黒衣の人々が一斉に頷いた。
挨拶でも、見送りでもない。
計測された動作。
だが、そこに微かな温度が混ざった気がした。
温度の正体は、名付けがたい。
わたしは礼を返し、門を出た。
振り返ると、総覧庫は遠くから塩の丘のように見えた。
風が白い面を撫で、角を削る。
いずれ、ただの地形になるだろう。
それでいいと思った。
知識は、地形に似ている。
天気が変われば、意味を変える。
砂地に足跡を刻みながら、彼女の言葉を思い出す。
――“堂々巡りは、罪じゃない。
ただ、目印を間違えた散歩。
目印を、誰かの涙じゃなくて、
誰かの笑いに変えればいい”
砂の上に笑いは残らない。
でも、歩き方は変わる。
わたしは肩の力を抜いて、南の風を吸い込んだ。
空は薄く、雲は低い。
世界はまだ、終わりきらない。
わたしは歩く。
わたしの死は、まだ遠い。
けれど、その分だけ、あなたに近づいている。




