価値のないものを欲す人々
― “死者の声”に執着し、墓に住む民たち
南へ。
海からの風が、しょっぱく、冷たくなる。
雲は薄く、陽は低い。
歩くたびに靴底に湿り気が移り、土の匂いが立つ。
世界は終わりに慣れ、音を失い、代わりに匂いだけが濃くなっていた。
丘を越えるたび、灰色の建物が点々と現れ、やがてそれは一面の石の野へと繋がった。
墓標は背丈より高く、低く、倒れ、重なり、風で鳴った。
石と石が擦れて、乾いた鈴の音に似たものがした。
「墓の街」と呼ぶのが早かった。人の住処は墓の合間に建てられ、洗濯物が墓標の影に揺れている。子どもが駆け、鍋のふちで湯が音を立て、スープの匂いが漂う。墓は住まいで、住まいは墓だった。
通りの角に、古い看板が立っていた。
《聞き屋》とある。
扉の向こうは薄暗く、奥の棚に円筒形の容器がぎっしり詰められていた。ガラスのふたの内側で小さな金属片が光り、側面に名前が刻まれている。
店主は痩せた男で、骨ばった指を擦り合わせながら言った。
「ひとつ、聞くかい。三十分なら魚の干物一本。声は新しい方が高い」
「声?」とわたしは訊く。
「死者の声だよ。生きていたときの呼気と音を集めて、ここに収めてある。耳当てをつければ、会える。話せる気がする」
棚の最下段に、やけに擦り減った一本があった。
《母》とだけ手書きしてある。他より小さい。
男はそれを指で弾いて、微笑んだ。
「これはよく出る。どこでも売れる名だ。だが本物なんて、どこにもない。ここにあるのは、ご遺族の“聞きたい形”に整え直した声だ。そうしないと、売れないからね」
わたしは首を振る。
「いらない」
男は頷いた。
断られることに慣れている顔だった。
店を出ると、斜向かいに別の小屋があり、入口に《墓守》と書いてあった。
中では老女が墓石の破片を磨いている。
わたしを見ると、顔だけこちらに向けた。
「どこから来た」
「北から」
「北の墓は静かかい」
「静かだった」
老女は磨く手を止めない。
「ここは静かに見えて、うるさい。夜になるとみんな話し出す。誰もが誰かの話を代わりにする。死者のために、死者の声の“形”を保つ。それがわたしたちの仕事だよ」
「死者は、語らない」とわたしは言う。
「語るのは、生きている者の罪さ」と老女は言い、また石に向き直った。
街の中心へ向かう道で、少女が墓の上に腰をおろしてパンをかじっていた。
黒い服に、白い靴下。頬は紅い。
「そこに座っていいのか」と問うと、少女は肩をすくめた。
「ここ、家だから。中の人は、おじいちゃん。怒らないよ。わたしが生まれたときに死んだから」
「おじいちゃんの声は、聞くの?」
「ううん。声は聞かない。おばあちゃんが、毎日話してくれるから。声は人の中にあればいいんだって」
少女はパンの欠片を墓の上に置いた。
「おじいちゃん、パン好きだったんだって。わたしは嫌い。硬いから」
わたしはパンを拾い、半分に割って少女に返した。
彼女は笑い、頷いた。
墓の街は、思ったより温かかった。
夕方になると広場に人が集まり、輪になって座った。
中央に小さな箱が置かれる。箱はスピーカーで、周囲の壁に取り付けられた古いマイクに繋がっていた。
《声の食事》と呼ばれる時間だった。
司会役の若い男が、笑って言う。
「今日は“父”を三人、“母”を二人、“自分”を一人。順番に流すよ。長いのは飽きるから短く」
ひとりが手を上げ、円筒を差し出す。ラベルには《父》とある。
箱に差し込まれ、雑音のあと、低い声が流れた。
『おい。飯はどうした』
笑いが起きた。
次は《母》だった。
『寒くないの、上着着なさい』
また笑いが起きた。
やがて《自分》の番が来た。ラベルは《わたし》。
押し黙る時間があり、微かに笑う声が流れた。
『ここにいる。ここにいる。ここにいる――』
繰り返し、繰り返し。
笑いは消え、誰かが咳払いをした。
司会は手を叩いた。
「はい、以上。食べたね。夜はよく眠ろう」
人々はばらけ、広場は再び石の匂いに満ちた。
わたしは箱の前に立ち、周囲を見た。スピーカーの隅に、紙切れが挟んである。
《声は水に似る。容器がなければ、形を持てない。容器を作っているのは、わたしたちだ》
誰の手書きかわからなかった。
夜。
墓の街は暗く、星が濃い。
遠くから、低い唸り声が続いて聞こえた。
風の音とも、獣の声とも違う。
「風経」と誰かが言った。
墓石の隙間を通る風が、声に似た音を作るのだという。
それを死者の言葉だという者もいれば、ただの空気だと言い切る者もいる。
わたしは聞いた。
耳を澄ますと、確かに文にならない断片が浮かび、消えた。
「寒い」「痛い」「おかえり」「だいじょうぶ」――
誰のでもあり、誰のでもない声。
わたしは目を閉じ、昔の彼女の声だけを探した。
――“死者は語らないよ。語っているのはいつも生者の方。
聞こえるのは自分の罪悪感の形で、
慰めも赦しも、結局は自分で自分に与えるものだ。”
彼女の声は、はっきりしていた。
風の音から区別できるほどに。
けれどそれでも、わたしは墓の街の夜を嫌いになれなかった。
人が誰かを失ったときに作る、ぎこちない器の、無邪気さのせいだと思う。
翌朝、墓守の老女が川べりで石を洗っていた。
「今日は葬列があるよ」と言う。
「誰の?」
「《声拾い》の男の」
《声拾い》は廃墟から声の素子を集めてくる者たちだった。
事故で死んだのだという。
人々は静かに列をなし、石の板に男の名を刻む。
スピーカーの箱は回ってこなかった。
代わりに、誰かが声に似た風を起こした。
布を振り、尾根を通し、石の間を通過させる。
風は鳴り、泣いた。
列が解けると、老女がわたしの方を見た。
「あなた、探してる人がいるのかい」
「いる」と答える。
「生きてるのかい」
「分からない」と言うと、老女は何度か頷いた。
「なら、ここに長居しない方がいい。声は、容易く人を飼う」
わたしは礼を言い、街を出る準備をした。
出発の直前、《聞き屋》の男が走ってきて、細い筒を差し出す。ラベルは空白だ。
「いらないよ」と言うと、男は首を振った。
「これは売り物じゃない。昔の恋人の声だった。もう要らない。忘れたくて商売を始めたが、逆だった。忘れないように売ってた。ばかな話だ。持って行くか捨てるかしてくれ」
受け取ると、手の中で温度のない重みが移った。
わたしはそれを川へ投げた。
筒は短く光り、水に沈んだ。
男は小さく笑い、手を振った。
墓の街を離れると、風が軽くなった。
石の気配が遠ざかり、土の匂いが戻る。
背中の骨の一枚がゆっくりと解けるような感覚がして、わたしは歩調を落とした。
道ばたに白い花が咲いていた。名を知らない。
摘まない。ここに置いていく。
彼女の言葉がまた浮かぶ。
――“死者はわたしたちの中にだけいる。
だから、ほんとうはいつでも会えるし、
ほんとうは決して会えない。
それでいいの。
それが、生きてる者の礼儀だから。”
わたしは南を見る。
地平線は淡く、空は薄い。
人は価値のないものに手を出し、
価値のないものに救われる。
それを、わたしは赦す。
彼女なら赦すと信じられるからだ。
夕暮れ、丘の上から振り返ると、墓の街は小さな石の海になっていた。
風が吹き、海はさざめく。
遠くで、誰かの笑い声がした。
死者の声ではない。
生者の、少し軽い笑い声。
それで十分だと思った。
夜になる。
星が現れる。
わたしは歩く。
わたしの死は、まだ遠い。
けれど、その分だけ、あなたに近づいている。




