過去を亡きものにした人
― 滅びた世界を歩き、死の儀式に出会う(想い流しの少年)
これは、終わりのものがたり。
世界と、きみと、わたしの。
大波が大地を飲み込み、地が割れ、疫病が街を呑みこんだ。
人々は互いを疑い、祈りを忘れ、やがて沈黙を覚えた。
人口は急速に減り、国はひとつ、またひとつと地図の上から消えた。
日本と呼ばれたこの島国も例外ではなかった。
今ではもう、名前を呼ぶ人間すらいない。
都市は倒れ、森は街を飲み込んだ。
鉄骨の残骸の間から木々が伸び、
人の手で築かれた文明は、自然にゆっくりと回収されていった。
かつての電光掲示板は風に晒され、そこに映るのはもう広告ではなく、
太陽の反射と、時折通りすぎる鳥の影だけだ。
わたしはその廃墟のひとつに身を置いていた。
ビルの七階。
窓はなく、床は割れ、壁は黒ずんでいる。
けれど、夜になると見える星は、どんな時代の光よりも澄んでいた。
春のはじまり。
風が少しやわらかくなり、どこからか綿毛が流れてきた。
それを見て、わたしは歩き出すことを決めた。
長い眠りのような日々に区切りをつけるために。
あなたを探すために。
あなたなら、きっと、すべてを終わらせてくれる。
そう信じていた。
終わりとは破壊ではなく、ただの静寂のこと。
わたしはそれを、ようやく受け入れられるようになっていた。
廃線路をたどって南へ向かう。
錆びた鉄の上を歩くと、かすかに音が鳴る。
誰もいない世界では、それすらも音楽のように聞こえた。
線路の両側には、かつての駅舎の残骸。
窓は抜け落ち、柱は崩れ、
けれどどこかでまだ、列車の通る幻聴が聞こえるようだった。
このあたり一帯は、もう何十年も前に人が住むことをやめたらしい。
それでも、草花は途切れることなく咲き、
まるでそこに新しい秩序が生まれたようだった。
風は暖かく、鳥の声が響く。
文明が滅びたあとの世界は、驚くほど静かで、驚くほど美しい。
人がいなくなって、世界はようやく世界になった。
いくつかの季節を過ぎたあと、
夜空に淡い光が見えた。
丘の向こうで、ゆらゆらと瞬く無数の明かり。
はじめは火事かと思ったが、違った。
それは、まだ“人”が生きている証だった。
近づくと、廃港を中心に小さな集落があった。
海の匂い。
風の湿り気。
朽ちた倉庫を改装した市場があり、
そこには笑い声が満ちていた。
わたしは長いこと、人の声を忘れていた。
それを耳にした瞬間、心の奥で何かが軋んだ。
まだ、ここに“生”がある。
その事実が、どこか怖かった。
川沿いの通りに人々が集まっていた。
手には木でできた小箱。
中に蝋燭を立て、静かに水面へ浮かべていく。
小箱は光をまとい、流れに沿ってゆっくりと進む。
灯りが集まり、やがて川全体がひとつの流星群のように輝いた。
誰かが笛を吹いていた。
音は寂しげで、それでいて柔らかい。
子どもたちは踊り、大人たちは笑い、
涙を流す者はいなかった。
それは、死者のための祭りだった。
群衆から少し離れた場所に、小さな少年がいた。
他の誰よりも大きな箱を抱えている。
少年は川を見つめたまま、動かない。
わたしは近づき、声をかけた。
「君も流すの?」
少年はわたしを見上げ、少し考えてから言った。
「うん。これはお母さん」
「お母さん?」
「先月死んじゃったんだ。
でもね、僕たちの街では、想いを全部箱に入れて流すの。
そうすると、その人はほんとうに消えるんだよ」
わたしは答えに詰まった。
“消える”という言葉が、あまりに軽やかで、
そして残酷だったから。
少年はつづけた。
「だって、思い出が残ってると、ずっと泣いちゃうでしょ。
だったら全部流した方がいい」
そう言って、少年は箱をそっと水面に置いた。
蝋燭の火が、夜風に揺れて波の上で踊った。
箱はやがて小さくなり、闇の中へ消えていく。
少年はそれを見届けず、笑って言った。
「ね、お兄さんもお祭りを楽しんでいって」
そして、人混みの中へ走り去った。
川には数え切れないほどの灯りが流れていた。
風が吹くたび、炎が揺れ、影が水面に沈む。
わたしはしばらく立ち尽くしていた。
“人は生命活動を終えたら死ぬんじゃない。
全ての人の心の中から消えたときが、本当の死だ。”
――彼女が、昔そう言っていた。
彼女の言葉は、時間を越えて胸の奥に響いた。
忘却こそが死の完成なのだと。
思い出の重さに耐えられない人々は、
自ら死を完成させるために“流す”のだろう。
わたしは祭りを離れた。
音楽と笑い声が遠ざかる。
足元の石畳には、誰かの落とした花びらが一枚貼りついていた。
指でそれを拾い、しばらく眺めたあと、
ゆっくりと風に放った。
空には雲がなかった。
星が、無数に光っていた。
どこかで聞こえる波の音と混ざって、
世界そのものが呼吸しているように感じた。
過去は、確かにここにあった。
けれど、もう二度と取り戻すことはできない。
そしてそれでいいのだと思った。
――忘れられるということは、愛された証でもあるのだから。
夜が明ける。
東の空がゆっくりと白み、
遠くの山の稜線に光が差した。
わたしは再び歩き出す。
線路はまだ、南へ続いている。
どこまでも、終わりの気配を探して。
わたしの死は、まだ遠い。
でも、その分だけ、あなたに近づいている。




