08. 三つの影、ひとつの決意
本日2話投稿です。(2/2)
翌夜。
雨はすでに上がっていたが、スラムの空気にはまだ湿り気が残っていた。
頭上の広告塔から滴る紫と緑のネオンが、水たまりの薄い膜に反射し、路地裏をゆらゆらと染める。
まるで街全体が濁った水底に沈んでいるかのように見えた。
ユキヤは黙したまま歩を進める。
足音は闇に吸い込まれるように静かで、胸の奥では淡い高揚と冷えた緊張がせめぎ合っていた。
指定された路地は、普段ならゴミ拾いの子どもや物売りが屯する一角だったが、今夜は奇妙なほど人影がなかった。
狭い路地の奥には、二つの影が待ち構えていた。
ひとりは痩せぎすで小柄な男。
三十前後に見える顔はひどくやつれているのに、口元だけはいやに愛想よく吊り上がっていた。
甲高い声で笑いながら、靴のつま先で小石を蹴っている。
その目は細く鋭く、値踏みするようにユキヤを射抜いた。
「冗談じゃねぇ。協力者って聞いたが、ガキじゃねぇか」
男――ジロは鼻で笑い、わざとらしく肩を揺らした。
その声音にはあからさまな嘲りが混じっていた。
もう一人は対照的に、巨躯の男だった。分厚い肩幅と丸太のような腕を組み、地面に腰を下ろしている。
脂肪に覆われた腹はだらしなく膨れ、咀嚼のたびに揺れた。
今も屋台で買ったらしい干し肉をむしゃむしゃと噛みながら、面倒くさそうにジロへ言葉を投げた。
「ジャックスが決めたんだろ。文句あんならあのデブに言え」
低くくぐもった声。だがその響きには妙な圧があった。
ユキヤが近づくと、肉を噛み切る音が路地にいやに大きく響いた。
ジロは舌打ちし、吐き捨てるように呟いた。
「デブのお前が言うな」
しかし大男――バクはまるで気にせず、肉を喉に流し込んで豪快に笑った。
「ははっ」
その笑い声は狭い路地の壁を震わせ、夜気をさらに重くした。
「ユキヤだ」
ユキヤは声を荒げることもなく、観察するように両者を冷ややかな眼差しで見返した。
「俺はジロ。こいつはバクだ。仲良くしようや、ガキ」
ジロはわざと肩をすくめ、嘲るように口角を吊り上げた。
だがユキヤは一歩も動じず、無言のまま鋭い眼差しを返す。
怯えも反発もない、ただ冷たい視線。
「……チッ」
小さな舌打ちが湿った路地に落ちた。
自分の挑発に食いつかず、笑い飛ばすこともしないユキヤの態度が、自分を見下しているように感じた。
彼の無反応は、かえってジロの神経を逆なでした。
(つまらねぇガキだ。怖がって泣きでもすりゃまだ楽しめるってのによ)
指先が落ち着きなく小石を弾き、笑みが引きつる。
バクはそんな様子を横目にちらりと見やり、干し肉を噛みちぎりながら鼻を鳴らした。
「お前のほうが子どもみてぇだぞ」
そう言うでもなく、ただ目尻に浮かんだ揶揄の色が、ジロの苛立ちをさらに募らせた。
ユキヤの頭の奥で淡い数値の羅列が浮かぶ。
〈対象:ジロ〉
〈歩行パターン:不安定。重心の移動遅延0.3秒〉
〈戦闘適性:低〉
細かく刻むような歩き方、目の動き。それは、臆病ゆえの癖だと拡張知能は告げていた。
小細工や逃走には長けていても、正面からの戦闘には不向き。
続いて、巨漢の影に数値が走る。
〈対象:バク〉
〈筋繊維密度:平均値+42%〉
〈握力推定:常人比1.5倍〉
〈戦闘適性:中(近接)〉
干し肉を握り潰す指の動きだけで、その膂力が推し量れた。
巨体のせいで鈍重に見えるが、一度まともに組み合えばユキヤでは抗えない。
ユキヤは無意識に結論を導き出した。
(一対一なら、まだ勝機はある)
拡張知能が示す計算と、自身の訓練で得た実感。
それを合わせれば、この二人が敵に回っても、決して絶望ではないと冷たく理解できた。
微かな風が路地を抜け、紫の光を揺らした。
その瞬間を断ち切るように、ジロが手を叩く。
「よし、時間だ、出発するぞ」
ジロの目が狡猾に細められる。詳細な段取りを握っているのはどうやら彼らしい。
自分が先導し、現場で指揮を執るのだと、態度そのもので告げていた。
「へっ、ガキは足引っ張んなよ」
吐き捨てる声は湿った壁に反響し、不快な余韻を残した。
バクは立ち上がり、肉片を飲み込んで大あくびをした。
「ああ……腹減った。終わったら肉と酒だ」
まるでこれから危険な仕事に挑むのではなく、ただの散歩に出かけるかのような呑気さ。
ユキヤは二人の言葉に反応せず、冷たく夜空を仰いだ。
上層の広告板が紫の光を断続的に点滅させ、濡れた路地に影を歪ませている。
ユキヤの決意は、夜の静けさの中で鋭く研ぎ澄まされていく。
こうして三人は、ギルド管轄倉庫での没収品奪取へ向けて、暗い路地を進み始めた。
スラムを抜けた先、街の灯りが途切れる境界にギルドの倉庫群は並んでいた。
表通りからは外壁しか見えず、薄汚れた鉄板で覆われた無骨な建物にしか映らない。
だが裏に回れば、常に兵士が二人一組で巡回し、ネオンの光が届かぬ暗がりを警戒している。
紫と緑の光が遠くにぼんやり滲むだけの、街の喧噪から切り離された冷たい領域だった。
「よし、ここからだ」
ジロが前に出る。薄い唇を歪めて、声を潜めながらも妙に得意げに言った。
「巡回兵が角を曲がる、その一瞬の隙に入る。あいつらは決まった経路で回ってるからな。俺が調べてきた。タイミングは完璧だ」
その言葉に、ユキヤは返事をしなかった。ただ視線を兵士たちの動きに合わせ、頭の奥に流れ込む数値を追う。
〈巡回間隔:42秒〉
〈死角持続時間:3.7秒〉
拡張知能が冷ややかに告げる数列を、呼吸と心拍に合わせて刻み込む。
「へへっ、ガキでもこれくらいの算段は分かるだろ」
ジロはにやりと笑い、わざとらしくユキヤの肩を小突いた。
その横で、バクが干し肉を最後の一欠片まで噛み切ると、鉄扉の取っ手に手をかけた。
「腹減った……」
呻くように呟きながら、彼は扉を軽々と持ち上げるように引き、錆びた蝶番を無理やり軋ませた。
厚みのある鉄扉が、まるで空き缶でも押し潰すかのように持ち上がる。
「……ほらな」
ジロが冷や汗をかきながらも誤魔化すように鼻を鳴らした。
ユキヤは何も言わず、その巨腕の動きを注視する。
〈握力推定:常人比1.5倍〉
〈扉重量:推定100kg以上〉
無骨な力の数字が浮かび、ユキヤは内心でわずかに息を呑む。
三人は闇の中へ身を滑り込ませた。
敷地内は、外の湿った夜気とは異なり、冷ややかな空気が満ちていた。
壁や扉には螺旋状、幾何学的な符号が刻み込まれている。
普段は目に映らないはずのそれらが、青白い光脈となって浮かび上がり、倉庫全体を覆う網のように広がっていた。
ジロが吐き捨てるように呟いた。
「おいおい……こんなもん、本当に解読できんのか。触れた瞬間、脳が焼き切れるぞ」
ユキヤは答えず、工具袋から細身の刻印針を取り出す。
ジロの制止を無視し、防壁に指を近づけた瞬間、脳内に錯乱するようなコード列が奔流となって流れ込んできた。
視界が白く揺らぎ、幾何学模様が目の前の空間いっぱいに展開する。
〈解析開始〉
〈回路パターン:三重螺旋型〉
〈最短解読ルート算出……完了〉
〈呼吸:1.2秒保持〉
〈手首回転:+6度〉
〈針動作:軌跡長23cm、時間0.8秒〉
淡々と告げられる数値を受け取り、ユキヤは針先を滑らせた。
符号の一部を削り、別の線を繋ぐ。その瞬間、空中の光脈がひとつ、またひとつと途切れ、音もなく崩れていく。
ジロが唾を呑む音が背後で響いた。
「……馬鹿な」
訓練を行った魔術師が数人規模で行って初めて可能な解読が、たった一人、しかもわずか数十秒で終わろうとしている。
最後の線を繋いだ瞬間、青白い光が霧散した。倉庫の内部へ続く道が、音もなく静かに開かれた。
ユキヤは針を収め、ひとつ息を吐いた。
「終わった」
ジロは目を見開いたが、次の瞬間には顔を歪めて吐き捨てた。
「ふん、この程度普通だ」
そう吐き捨てながらも、声の震えは隠しきれなかった。
対照的に、バクは肉を噛みながら素直に言った。
「早ぇな」
三人は慎重に足を踏み入れた。
倉庫の奥部、闇に沈んだ空間には木箱や金属のコンテナが高く積み上げられ、重苦しい匂いを漂わせていた。
ユキヤの目は、すぐにその先に立つ影を捉える。
見覚えのある背中。
魔導警棒を肩に担ぎ、ゆったりとした姿勢で待ち構える男。
ユキヤの胸が冷たく軋んだ。
ゆっくりと振り返ったギルド兵は、仮面の下で低く笑う。
「また会ったな」
紫のネオンが狭い窓から差し込み、男の輪郭を鮮烈に照らし出す。その肩には国家紋章が輝いていた。
倉庫全体に緊張が走る。
ジロが舌打ちし、バクが拳を握りしめる。
ユキヤは呼吸を整え、静かに一歩踏み出した。
戦いの予兆が、冷たい空気を裂いていった。