06.加速する適応
本日6話投稿です。(6/6)
タカクラと対峙したあの日以来、ユキヤの胸の奥には冷たい棘が刺さり続けていた。
あれはただの脅しではなかった。兵士が腰を傾けただけで迸った雷光は、次の瞬間には自分を黒焦げにしていたはずだ。
軌道は見えていた。しかし今の身体では、避けることすらできないと痛感した。
(速さが足りない)
回避の角度も、反撃の手順も、拡張知能は瞬時に示してくれた。
だが、それを実行するだけの筋力も反射神経も、今の自分には備わっていなかった。
拡張知能は刃を与える。けれど、それを振るう腕がなければ意味はない。
――このままでは潰される。
ユキヤはそれを骨の髄まで理解していた。
廃工場跡地の片隅。崩れ落ちた梁の下、誰も近づかない静寂の空間が、ユキヤの訓練場となった。
廃工場の空気は鉄と油の匂いが混じり、重苦しく淀んでいた。壁は崩れ、窓は割れ、雨漏りの跡が黒く染みている。
そんな誰も近づかないこの場所は、ユキヤにとって唯一の訓練場だった。
彼は床に落ちていた錆びついた鉄パイプを拾い上げると、残った鉄骨の梁に引っかけ、両手で掴んだ。
懸垂、ただそれだけの動作に過ぎない。だが細い腕は数回で震え、喉から熱い息が洩れた。
〈姿勢:不良〉
〈矯正:肩甲骨を寄せ、肘角度-12°〉
拡張知能が頭の奥で数値をはじく。ユキヤと完全に統合してからは、脳内に浮かぶ内容も、ユキヤが扱う言語になっていた。
骨の軋みや筋繊維の動きを数式に変換し、最適解として突きつけてくる。
「……っ」
ユキヤは歯を食いしばり、指示通りに肩を締め、肘を引く。
腕の負担が背筋に流れ、わずかに体が軽くなる。普段なら三回で限界だったはずが、五回、六回と数を伸ばせた。
〈呼吸:吸気0.6秒前倒し〉
息を吸うタイミングをずらすと、肺がさらに空気を取り込み、血流が熱を増す。
筋肉がまだ動けると錯覚するほどに。
次は走り込みだった。
工場を抜け出し、スラムの裏路地を全力で駆け抜ける。
路地の石畳はひび割れ、積まれたゴミ袋や古タイヤが障害物のように並んでいた。
拡張知能が次々と数値を突きつける。
〈歩幅調整:+7cm〉
〈着地角度:右足15°内旋〉
〈呼吸パターン:2歩ごと吸気、3歩ごと呼気〉
視界の端で、最適なラインが白く光った。
その線をなぞるように走ると、無駄な力が削ぎ落とされ、体はこれまでにない速さで路地を抜けていく。
だが筋肉は悲鳴を上げ、肺は焼けつき、脚は重りをつけたように動かなくなった。
それでも走る。なぜならまだ限界ではないと、知能が冷たく告げていたからだ。
工場に戻ると、床に転がる壊れた義体部品を背に抱えた。
かつて人を補助したはずの鉄塊は、今はただの重しだ。それを担いでスクワットを繰り返す。
膝が笑い、腰が抜けそうになるたび、数値が訂正を加える。
〈膝角度:+5°〉
〈背筋保持:直線率78% → 90%必要〉
その通りに意識を修正すると、不思議と再び立ち上がれる。
普段なら崩れていた姿勢が、まだ続けられる形に整えられる。
汗が床に滴り落ち、膝が震え、呼吸は荒い。
それでもユキヤは止めなかった。
(俺には、速さも力も足りない)
タカクラの魔導警棒が振り下ろされる光景が脳裏に焼き付いている。
あの軌道を見えたのに避けられないことを理解する無力さ。
夜が更けても、彼は訓練をやめなかった。
鉄の匂いが満ちた空間で、汗の雫が絶え間なく滴り落ちる。
拡張知能が突きつける数字と角度、時間の単位は洪水のように押し寄せ、頭蓋の内側を叩き続ける。
通常なら一週間かかる成長を、わずか一日で得ているかのようだった。
義体部品を背から下ろし、ユキヤは膝に手をついて息を荒げた。
肺は焼けるように熱く、視界の端がちらつく。それでも、拡張知能は無機質に指示を続けていた。
〈次の動作予測:0.2秒後、右足を前方62cmの位置へ〉
〈肩の角度:-5°矯正〉
〈体幹の捻転:左方向に+8°〉
〈吸気:残り0.4秒以内〉
次々と流れ込むガイドは洪水のようだった。
数字と角度、時間の単位が一斉に押し寄せ、頭蓋の内側を叩く。
「……っ、ま、待て……」
思わず声が漏れる。
脳が処理しきれず、耳鳴りが広がる。
視界のネオンの残像と、知能の数値が重なって溶け合い、世界がぐらついた。
〈警告:処理遅延 過負荷〉
その表示が最後に点滅すると、指示の流入が途切れた。
ユキヤは壁に手を突き、荒い息を吐く。
(全部は……受け止められない……)
この拡張知能は、動作予測を最適化の名の下に容赦なく叩き込んでくる。
だが、人間の脳は機械ではない。一度に処理できる量には限界がある。
〈選択肢提示:優先度〉
新たな数値が浮かぶ。
脚の動作、肩の矯正、呼吸のタイミングそれぞれに優先度がつけられて表示された。
ユキヤは息を整えながら、脚の数値だけを選んだ。
――次に足をここへ置け。
白いラインが視界に引かれる。
指示に従い足を運ぶと、体の揺れが消え、次の動作へ自然に繋がった。
(なるほど、全部を追うんじゃない。必要な指標だけを拾えばいい)
試しに肩の数値だけを意識して腕の角度を修正すると、筋肉の負担がわずかに軽くなった。
走る時は歩幅と呼吸、懸垂のときは肩と肘――状況に応じてどの指標を取るかを選ぶ。
それができれば、頭は焼き切れずに済む。
再び義体部品を背負い、スクワットに入る。
今度は膝角度の数値だけを注視し、他は切り捨てた。
余計な情報に振り回されず、動作が安定する。
(……これなら)
汗が顎から滴り落ちる。
背筋はまだ震えている。だが先ほどまでの混乱はなかった。
取捨選択。情報を扱うとはそういうことだと、初めて理解した。
(俺は……少しずつ、こいつを使えるようになってきている)
訓練の後には、必ず代償が訪れた。
頭蓋の奥を鋭く突き刺す頭痛。胃の中が掻き回されるような吐き気。骨の髄にまで染み込む倦怠感。
鉄の梁に背を預け、ユキヤは汗に濡れた額を押さえた。
(……っ、やっぱり来るか)
拡張知能を稼働させればさせるほど、その反動は強くなる。
初めは数分で意識が霞みかけたが、今は十分以上も高稼働を続けられるようになっていた。
吐き気を堪えながらも、ユキヤの胸には奇妙な満足感があった。
(慣れてきた……いや、少しずつ俺のものになってる)
数値は冷酷で、容赦がない。だがそれを選び取り、肉体に馴染ませる術を掴み始めていた。
昨日よりも走れる。昨日よりも耐えられる。昨日よりも速い。
わずかでも成長を感じるたび、胸の奥で熱が灯る。
同時に、別の感覚が芽生えていた。
廃墟の隅、雨水を溜めた鉄片に自分の姿が映る。
汗に濡れた顔、痩せた体躯。その背後に、影が揺らめいた。
それはユキヤ自身の影のはずだった。だが、どこか歪に膨れ、鋼の外装を纏った人型兵器の輪郭と重なって映った。
(自由になれる力が欲しい)
脳裏に、あの日見た旧文明の兵器の残骸が蘇る。
焼け焦げた装甲、虚ろな光を宿したセンサー。
その奥に眠っていた拡張知能が、今は自分の中で息づいている。
鉄片に映る影は微かに震え、まるで「お前はもう人間ではない」と囁くかのように揺らめいていた。
ユキヤは拳を握り、目を逸らした。
冷たい倦怠感と、確かな成長の実感。その狭間で揺れる意識は、どこか既に人の域を踏み越え始めていた。
夜の廃工場に滴る水音だけが、静かにその余韻を刻んでいた。
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