05.囁きと警告
本日6話投稿です。(5/6)
硬貨の冷たい重みを感じつつ、ユキヤは店を出た。
湿った路地には、雨粒に乱反射するネオンが紫の靄を漂わせ、頭上では広告板が絶え間なく点滅していた。
彼は歩きながら、手の中の硬貨を弄んだ。
わずかな報酬だが、昨夜までの自分なら手に入れるのに苦労したもの。
(……なぜ、俺にできた?)
修理の作業は、あまりにも自然だった。
頭の中に式が浮かび、最短の解を導き出す手順が、呼吸するように流れてきた。
まるで誰かが耳元で囁いているかのように――だが、それは声ではない。
言葉でも音でもなく、数値や波形のイメージが脳裏に直接染み込み、選択肢が樹状に広がっていく。
その中から最適な枝を選び取る感覚だった。
また、あの無機質な表示が頭にちらついた。
何を意味するのかは分からない。だが少なくとも、それは自分が変わった証左だった。
(これが、俺の力なのか?)
だが次の瞬間、強い倦怠感が襲ってきた。
視界の端に靄がかかり、頭が重い。立ち止まって壁に手をつくと、冷たい感触が指に広がった。
〈WARNING: NEURAL STRAIN〉
〈CAPABILITY: LIMITED BY HOST TOLERANCE〉
そう表示されたような錯覚。
いや、錯覚ではない。確かに「何か」が警告している。
つまり、これは無制限には使えない。
計算を続ければ続けるほど脳は悲鳴を上げ、最悪の場合は壊れる。
自分はただの人間で、器は小さい。そこへ旧文明の残骸を無理やり流し込んでいるのだ。
(あんまり使いすぎるな……ってことか)
ユキヤは唇を噛んだ。
だがそれでも、今までとは比べものにならない力を得ている。
昨日まで嘲笑され、軽んじられていた自分が。
足取りは重かったが、胸の奥には確かに熱が宿っていた。
数日後。
噂はすぐに広まった。
「ガキがジャックスの壊れた部品を直した」
「ありゃ普通の整備士じゃ無理だ」
「ギルドの認可を受けてないコードを走らせたらしい」
路地裏の労働者たちは口々に囁き合い、いつしかそれは別の形を帯びていった。
「インチキだ」
「違法改造を受けてる」
「頭に怪しい部品を埋め込んでるらしいぞ」
嫉妬と恐怖と無知が入り混じり、噂は肥大化していく。
スラムの人間は、他人が自分より少しでも抜きん出ることを許さない。引きずり落とし、同じ泥の中に沈めたがる。
ユキヤはそれを知っていた。
だから、何も言い返さなかった。
(どうせ、奴らの言葉に意味はない)
だが視線は確かに変わった。
同業者が彼を見る目は敵意と猜疑に満ち、背中に刺さる。工具を受け取る手も乱暴に、挨拶は皮肉交じりに。
一度、昼の現場で若い整備士に絡まれたことがある。
「ジャックスのとこで違法な義脳でも買ったのか?」
「そんなもん持ち込んだら、ギルドに処刑されるぞ」
ユキヤはただ睨み返しただけだった。
胸の奥で、無言の回路が冷たく組まれていくのを感じた。
脳裏に浮かんだのは、その男を殴り倒し、動きを止めるための方法。
肘の角度、足の位置、衝撃波の伝達経路。
一瞬で数十通りの手段が示された。だが彼は手を出さなかった。
(余計な恨みを買う必要はない)
手段に従えば勝てる。だが噂はさらに広がる。ギルドの目も早く向く。
黙ってやり過ごすことが、一番穏便な方法だった。
夕刻のスラムは、紫のネオンが雨水に反射して、濁った路地をまるで毒沼のように照らしていた。
排水溝からは腐った油の臭気が立ち昇り、遠くでは喧嘩の叫び声と鉄くずの崩れる音が入り混じる。それはシンカイ下層の日常そのものだった。
ユキヤは、現場の帰りにいつもの路地を歩いていた。
肩に食い込む工具袋。歩調に合わせ、包帯に滲んだ血が湿った音を立てた。
背後には、なおも誰かの視線がまとわりついていた。
噂が広がった今、誰もがユキヤを疑っていた。
(くだらない……)
心の中で吐き捨てるように呟いたその時だった。
「お前がユキヤ、だな」
路地の出口に、黒い影が立っていた。
鎧のような装甲服に包まれた巨躯。肩には国家紋章。顔は仮面に覆われ、赤い魔導センサーが一点の光を放つ。
この区画の管理を任されるギルド兵だ。
その名を、ユキヤは知っていた。
「……タカクラ」
彼の存在はこの街の労働者にとっては、憎悪と畏怖の象徴だった。
タカクラは腕を組んだまま、ユキヤを見下ろす。
「噂は聞いている。お前が軍用パーツを修復したと」
その声は低く、抑揚が少ない。だが、仮面の奥の眼光は鋭い刃のように感じられた。
「普通の整備工にできる仕事じゃない」
一歩、近づく。舗装の割れ目が踏み砕かれ、鈍い音が響いた。
「どう説明する?」
路地の奥にいた同業者たちが、ひそひそと囁き合う。
「ほら見ろ、やっぱり目を付けられた」
「インチキだって最初から分かってた」
その声は遠くで蠢く雑音のようだった。
だがユキヤは、正面のタカクラから視線を外さなかった。
胸の奥に、冷たい回路が走る。
〈RISK ASSESSMENT: HIGH〉
〈RECOMMENDATION: EVADE / DEFER RESPONSE〉
再び、無言の指標が頭に浮かぶ。逃げろ、と。
だが逃げることはできない。
タカクラの装甲には追跡の魔術コードが刻まれている。逃げ出せば即座に捕捉され、問答無用で制圧されるだろう。
「何もしていない」
短く答える。
タカクラは首を傾げた。仮面の奥の表情は読めない。
「なるほど」
その瞬間、彼の腰の魔導警棒が唸りを上げた。青白い光が宙を走り、空気が震える。
威嚇だ。次は本当に振り下ろされる。
背筋を冷たい汗が伝った。
頭の奥で、また無数の線が描かれていく。
逃走経路、遮蔽物、攻撃を受けた際の反撃手段。
タカクラの体格差、反応速度、武器の到達範囲――。
(勝てない)
答えは一瞬で出た。
彼は兵だ。訓練を受け、義体強化も施されている。
今の自分では抗うことすら難しい。
だが同時に、別の計算も浮かんだ。
言葉。沈黙。虚勢。最も被害を抑え、最も疑いを回避させる選択肢。
「……ただ、生き延びたかっただけだ」
低く、かすれた声でユキヤは答えた。
「危険な現場で死にたくなかった。だから……必死にやった。それだけだ」
それは本心だった。何も脚色していない。ただの事実。
タカクラはしばらく沈黙したのち、わずかに肩を揺らした。笑ったのか、鼻を鳴らしたのか判然としない。
「その言い訳を私が信じると思うか?」
仮面の赤いセンサーが、じっとユキヤを射抜く。
「ただ生き延びたいと願うだけで、軍用コードを走らせられるとでも? 子供の寝言だな」
ユキヤは唇を閉ざした。反論すれば言葉尻を捉えられる。沈黙することが、最善だと知能が告げていた。
タカクラは一歩踏み込み、装甲の軋む音を路地に響かせた。
「お前……誰かと取引をしたな?」
低い声が雨のしずくより重く落ちる。
「この区画に出入りする組織はいくつもある。密輸屋か、反ギルドの残党か。あるいは外から潜り込んだ商会か。どこにせよ、無能なガキが急に腕を上げる、いや、"腕を上げたように見える"理由は一つだ」
周囲にいた同業者たちが息を呑む気配が伝わった。
裏勢力とつるんでる。その烙印がすでに押されたも同然だった。
タカクラは魔導警棒を軽く傾け、青白い火花を散らす。
「お前を拷問して吐かせるのは簡単だ」
言葉を切り、仮面の奥でじっとユキヤを見据える。
(もし本当に組織の使い走りなら、安易に手を出せばこちらの損失になりかねる可能性がある。こいつの背後に何があるかが分からん)
それは冷徹な計算だった。目の前の少年を叩き潰すのは容易い。だが、軽率に処分して報復を招けば、それは彼自身の責任に跳ね返る。
ユキヤは何も答えなかった。否定しても、信じられることはない。肯定すれば、その瞬間に罠に落ちる。
だからただ、雨粒の落ちる音を聞きながら、沈黙を守った。
やがて、タカクラはゆっくりと警棒を腰に戻した。
「……いいだろう。泳がせてやる。だが覚えておけ。疑いを捨てたわけじゃない」
重い靴音が路地に響く。タカクラは背を向け、ゆっくりと去っていった。
雨に濡れた舗道に赤いセンサーの光が揺れ、やがて闇に消える。
残されたのは湿った空気と、沈黙のざわめきだった。
同業者たちが恐る恐る近寄り、口々に囁く。
「助かったな」
「でも、もう終わりだぜ。ギルドに睨まれたんだからな」
ユキヤは拳を握り締めた。
タカクラの言葉は脅しではなく、警告だった。
ユキヤは視線を返さず、静かに歩き出した。
胸の奥では、冷たい計算が淡々と告げていた。
(この力は、無暗に見せるべきじゃない)
言葉にしなくても理解していた。どれほど便利でも、どれほど欲しても、この街で突出することは標的になることと同義だ。
路地を抜けると、上層から垂れ下がった巨大な広告板が、赤と紫のネオンを交互に点滅させていた。
濡れた石畳に映ったユキヤの影は、その光を浴びて伸び縮みし、歪んで揺らめく。
胸の奥に、重苦しい予感がじわりと広がっていった。
ギルドに目を付けられた今、彼の自由はさらに遠のいた。
(舐められるわけにはいかない……だが、目立つのも危うい)
ユキヤは濁った空を一瞥し、歩みを速めた。
背後ではまだ、誰かのひそひそ声が雨に溶けていた。