元禄の雪の日、赤穂浪士の商い談議「磯貝十郎左衛門と堀部安兵衛――忠臣蔵異聞」
元禄十五(1702)年、十二月上旬の雪が降っている日。江戸の町の一隅。
かつて赤穂藩浅野家に仕えていた武士――今は浪々の身となっている礒貝十郎左衛門のもとへ、堀部安兵衛が訪ねてきた。
磯貝も堀部も、旧主・浅野内匠頭の仇である吉良上野介を討つべく、その機をうかがっている――後世『赤穂四十七士』と呼ばれることになる浪士である。
この時、磯貝十郎左衛門は二十四歳。赤穂藩では物頭・側用人として百五十石の禄を受けていた。
堀部安兵衛は三十三歳。赤穂藩での役職は使番・馬廻役であり、禄は二百石であった。
磯貝は眉目秀麗な若者であり、堀部は見るからに武張った風貌をしている。
対照的な外見の二人の男性が、向かい合う。
「これは堀部様。私に何か、ご用事でもおありでしたか?」
磯貝は、堀部を丁寧な物腰で迎えた。しかし、その言辞には疑念の気配が漂っている。磯貝と堀部は旧主の無念を晴らすことを誓い合った同志とはいえ、それほど親しい間柄では無い。むしろ一時期、彼らはかなり険悪な関係となっていた。
磯貝に問いかけられ、堀部は少しばかり気まずそうな表情になる。
「磯貝……いや、十郎左衛門。俺のことは堀部では無く、安兵衛と呼んでくれ」
「それは――」
「頼む」
「……分かりました。安兵衛様」
「〝様〟も、いらないんだが……まぁ、十郎左衛門は真面目な性分だからな。仕方が無いか」
堀部は苦笑する。
「十郎左衛門。お主とはこれまで、様々な行き違いがあった。けれど、いよいよ吉良邸へ討ち入る日も、今月の十四日に決まった。お主と落ち着いて話が出来るのも、今日が最後かもしれん。それでな……お主に、詫びておかねばならんと思ったのだ。あの時は、本当にすまなかった」
そう言って、堀部は深く頭を下げる。
磯貝は慌てた。
「頭をお上げください。安兵衛様!」
堀部が述べるところの『あの時』の意味を、磯貝は悟った。
磯貝は以前、個々の浪士が独自の思惑を持ちながら、仇討ちへ向けての行動をなしていた折、江戸の源助橋の近くで酒店を出していた。むろん、酒屋を営んでいたのは表向きの顔で、その裏では必死になって吉良の動静を探っていたのであるが……。
磯貝は、身なりをすっかり町人風にしていた。そんな時に偶然、磯貝は堀部と出会った。
牢人になっても、ごく自然に武士の姿のままであった堀部は、磯貝を嘲笑した。
「はっはっは。お主には、似合いの恰好だな。いっそのこと仇討ちはやめて、町人として暮らしたらどうだ?」
「…………」
磯貝は黙って、その場を立ち去った。
今、堀部はあの折の自らの言動を大いに恥じているらしい。
「俺が、愚かであった。『浅野家の家中で、真の忠義の士の名を挙げるとしたら、その第一となるのは自分だ』と思い上がっていた」
「それは、私も同じですよ。安兵衛様」
元禄十四(1701)年三月、赤穂藩の藩主である浅野内匠頭が江戸城本丸の松の廊下で、高家旗本の吉良上野介に小刀で斬りつけた。内匠頭は公儀(幕府)より切腹を申しつけられ、赤穂藩は取りつぶされた。
その後、遺された旧赤穂藩士をまとめ、吉良への仇討ちを主導してきたのは、言うまでもなく藩の筆頭家老であった大石内蔵助である。
とはいえ、大石は主君による刃傷事件を知ってから、すぐさま吉良への復讐に動いたわけでは無い。大石が最初に取り組んだのは、浅野家の家名復興と吉良家への処罰を、幕府へ願い出ることだった。
内匠頭に子供は無かった。けれど、実弟の浅野大学が居る。彼は内匠頭から三千石を分与され、幕府の旗本となっていた。兄が起こした事件に巻き込まれる形で閉門(謹慎・監禁刑の一種)の身となったが、その大学に浅野家を正式に継いでもらえば、家名の復興はなるのである。
しかしながら同時に、武士にとっては、何よりも面目が重要である。浅野家が復興したとしても、大学が江戸城で吉良と顔を合わせ、普通に挨拶を交わす事態が起これば、浅野大学は武士失格の烙印を押されてしまう。それを避けるためにも、大石としては、主家の再興とともに吉良を罰することは、絶対に譲れない条件だった。
浅野家再興と吉良への処罰――二つの目的を達成しようと、大石は積極的に活動した。
そんな大石の計画に対して、旧赤穂藩士の中で、強烈に異議を唱える二つの徒党が現れる。それぞれの党の構成員は三人ずつで、ひとつは堀部安兵衛らの党であり、もうひとつは磯貝十郎左衛門らの党であった。
堀部らの徒党の三人とは
・堀部安兵衛――赤穂四十七士随一の剣客。赤穂藩に仕官する(堀部家の養子となる)前の中山安兵衛時代に、高田馬場の決闘で名を馳せる。
・奥田孫太夫――江戸の剣術家である堀内源左衛門から教えを受ける(堀部安兵衛も同門)。大太刀の使い手。
・高田郡兵衛――宝蔵院流高田派槍術の達人。
であり、磯貝らの徒党の三人とは
・片岡源五右衛門――浅野内匠頭の寵臣。元禄十五年において三十六歳(内匠頭とは同年の生まれ)であり、赤穂藩では側用人・児小姓頭を務めていた。
・磯貝十郎左衛門――内匠頭の側近。片岡とともに内匠頭の遺言(「あらかじめ知らせておくべきと思ったが、その暇もなく、今日のようなことになった。不審に思うであろうが……」という内容)を伝えられた。
・田中貞四郎――内匠頭の近習。切腹した内匠頭の遺体を、片岡や磯貝と一緒に引き取りに向かい、泉岳寺に埋葬した。
である。
この六人は江戸において、内匠頭の吉良への刃傷、及び同日のうちに行われた内匠頭の切腹という極限の状況に直面した。それだけに、彼らが抱いた内匠頭への哀惜と吉良への憎悪、その念の量には、凄まじいものがあった。
彼らは「亡き主君である内匠頭様の鬱憤、吉良への恨みを受け継ぐことこそ、家来の使命である。一日でも早く、吉良を討つべし」と強く主張したのである。
大石らを『漸進(少しずつ進む)派』と呼ぶなら、堀部・磯貝らは『急進派』とでも呼ぶべき存在であった。
しかし、この急進派の二つの徒党は、相互の連携が上手くいかなかった。はっきり言えば、仲が悪かった。
堀部らは揃って武辺者であり、磯貝らは内匠頭の寵臣である。
片岡・磯貝・田中の三人は、内匠頭の衆道(男色)の相手として寵愛を受け、上士階級へと出世した者たちであった。
そのため堀部らは、磯貝たちを佞人(口先ばかり巧みな、へつらい者)として軽蔑していた。
一方、磯貝たちからすると、堀部らは『殿への忠誠よりも、己の武勇への誇りを大事にする者たち』としか思えなかった。
元禄十四年十二月に、吉良上野介は隠居を申し出て、それを幕府から許された。また翌年の七月に浅野大学は、閉門を解かれたものの、所領の三千石は召し上げられ、広島浅野本家へお預けの身となった。
これによって『吉良への幕府による公的な処罰』と『赤穂浅野家の再興』は、どちらの可能性も無くなったのである。
ついに大石内蔵助は『もはや赤穂浅野家の名誉を守るためには、吉良邸へ討ち入って上野介の首をあげる他に、道は無し』と決意する。
元禄十五年九月に、大石は二度目の江戸入りを果たす。赤穂藩断絶後の一度目の江戸入り(元禄十四年十一月)は旧主・内匠頭の墓へ参ることと、討ち入りを焦る江戸の急進派を宥めるのが目的であったが、今回の江戸入りは、紛れもなく吉良への復仇(かたき討ち)のためである。
ここにおいて、討ち入り急進派の二つの党も、大石たち主流派と合流することになる。大石は寛容に、彼らを迎えた。大石との関係は、彼の人柄のおかげもあって、堀部も磯貝もしっかりと構築できた。が、堀部らの党と磯貝らの党の間には、その後も、わだかまりが残った。
今までの経緯もあり、両者の気質の相違は、如何ともしがたいものがあったのである。
けれど――
両徒党の者たちへ反省を迫る事件が起こった。
小山田庄左衛門の逃亡と、田中貞四郎の脱落である。
小山田庄左衛門は赤穂藩における武辺者の一人であり、堀部安兵衛と仲が良かった。牢人となって以降、安兵衛と同居していたのだが、討ち入りを控えた大事な時期に、こともあろうに片岡源五右衛門の留守宅から金子と小袖を盗んで、行方をくらました。
既に武辺者の徒党の一味で、共に行動していた高田郡兵衛が元禄十四年の十二月に脱盟していたこともあり、小山田の逃亡に堀部は大きな衝撃を受け、落胆した。
片や、田中貞四郎の脱落は、彼が酒色にふけり、生活に窮迫したのが原因であった。単なる貧乏暮らしの苦しさからなら、同志に助けを求めることも出来たであろう。しかし田中は乱淫の不行状の果てに梅毒にかかり、面相まで変わってしまっていた。
小山田が逃げ去ったのと同じ頃、田中は大石へ『盟約を脱ける』との書状を送った。
磯貝は田中との付き合いが長かっただけに、この顛末には、怒りと悲しみの感情で胸が塞がった。
高田・小山田・田中の脱落を受けて、堀部・奥田・片岡・磯貝たちは『自分たちこそ、真の忠義の武士である』との自信を失いかけた。それと同時に彼らの中に、自らの徒党以外の同志たちの事情も理解しようとする心持ちが生まれたのである。
赤穂浪士たちの間では、討ち入りが迫る時期(元禄十五年の十一月から十二月)になっても、脱盟する者が少なからず出た。その反面、残った同志たちの結束は、より強固になっていった。
そして、現在。ここは、磯貝十郎左衛門の宅。
磯貝は、訪ねてきた堀部安兵衛と膝をつき合わせるようにして、語りあった。考えてみれば、磯貝が堀部と二人きりで長く話したのは、これが初めてである。おそらく、最後の経験にもなるであろう。
「安兵衛様。一杯、やりませんか?」
「大丈夫か? 十郎左衛門。俺は酒豪だぞ」
「幸い、酒店を営んでいたときの伝手が残っていまして。良い酒を手に入れたのですよ。飲んでしまわねば、惜しいのです」
「ならば遠慮なく、頂くとしよう。雪を見ながらの酒とは、風流しごく…………おい! この酒は、美味いな!」
「そうでしょう」
「十郎左衛門は、酒を扱う商人としても、充分にやっていけたな。これは皮肉では無いぞ?」
「分かっております」
堀部は上機嫌に、盃を傾ける。
「そもそも、どうして十郎左衛門は酒を商っていたのだ?」
「浅野のお家がお取りつぶしになったあと、暮らしていくための稼ぎが必要だったのです」
「金が要るなら、同志に借りれば……ああ、すまん」
磯貝は衆道によって主君の寵愛を受けたため、堀部に限らず、彼を厭っている者は同志中も多かった。同じ寵臣であっても、浅野家に仕えていた際に特に高禄取りであった片岡源五右衛門には、それなりの蓄えがあった。
対して磯貝十郎左衛門は浪々の身となってからの困窮の度合いが大きく、しかし同志に気安く借金を申し込むことも出来なかったのだろう。
そこで、酒の商売を始めた……そんな磯貝の苦労を知らずに、彼を蔑視した自分の行いを、堀部は改めて後悔した。
「俺は、本当に考え無しの発言をするな。俺は馬鹿だ」
「私は安兵衛様のそういう正直なところが、好ましいと思います」
二人は、盃を交わす。
少し酔ったのか、磯貝は赤い頬をして、しみじみと語りだした。
「私は商人の真似事をしていて、気付いたことがあるのですよ」
「ほぉ。それは、何だ?」
「商人も私たち武士も、やっている事は、実は変わりないのではないのか? と……」
「ん? どういう意味だ?」
「商人は物を売って、その代金を貰います。客からすると、物を買って、代金を払うわけです」
「ふむ」
「武士である私たちも、内匠頭様……殿から『恩』という商品を頂き、これから吉良邸へ討ち入ることによって『己の命』という代金を支払おうとしている」
磯貝の言葉を聞き、堀部は眉をひそめた。
「十郎左衛門。それは、極論ではないか? 俺たちの働きは、商いとは違うぞ。商売をするのに計算は相違なく必要となるだろうが、俺たちがする吉良への復讐は、小賢しい計算を度外視して行うものだ。あくまでも、亡き殿への真情にもとづいている」
「そうでしょうか? 安兵衛様。切腹による殉死は、追腹と言いますよね?」
突然に『切腹』という話題を、磯貝は持ち出す。
戸惑いつつ、堀部は肯定の返事をした。
「う……うむ」
「追腹には《本腹》と《商腹》があります」
「亡き主君への純粋な感謝の念や、惜別の情から腹を切るのが、本腹だな」
「ええ。そして家禄を守ろうとしたり、子孫への禄高の加増を狙って切腹するのが、商腹です。殉死であっても、商腹は打算ずくの行為です」
「打算による腹切り……か」
「しかし、私は思うのです。ある者が切腹による殉死を遂げたとして、本腹であるか商腹であるか、それを区別するのは『腹を切った者の真意が、どこにあったのか?』という一点にしかありません。そして切腹した者の真実の思いを知るのは、その当人しかあり得ないではないですか」
「そのように言われると……十四日に俺たちは吉良邸へ討ち入るが、無関係な他者には『報恩や復仇のための討ち入り』に見えるかもしれんし、『打算や商いのための討ち入り』に見えるかもしれんわけだ」
「まぁ、私たちの真意は、私たちのみが知っていれば良い……それで済む話ではあるんですけれどね」
「十郎左衛門は欲が無いな。俺には、仇討ちを江戸の民に盛大に讃えてもらいたい気持ちは、やはりあるぞ」
「高田馬場の決闘の時のように……ですか?」
「それは言うな」
二人は、笑い合った。
ちなみに磯貝も堀部も、吉良邸への討ち入りの結果、自分たちが命を失うのは当然と考えている。
『赤穂浪士による仇討ちは、他家への仕官(就職)を目的とする売名活動だった』との説があるが、現代に残っている浪士たちの書簡や手記を確かめると、それを推測させるような記述は全く無い。
旧主である浅野内匠頭への不満や、同志に対する悪口なども、気にすること無く、書き記しているため、真意を誤魔化したり、表面を取り繕っていたわけでも無いだろう。
・予想される、吉良側の武士との戦い。
・加勢にくるであろう上杉家(上杉家の当主は、吉良上野介の実子)との戦い。
・吉良を討つのに失敗した場合、一同は吉良邸で切腹する。
・吉良邸への討ち入りは、幕府への反抗同然の所業である。仮に復仇に成功しても、待っているのは死罪で間違いない。『打ち首・獄門になることも覚悟している』と述べた浪士の書面も残っている。
これだけの事があって『浪士たちは最終的に生き残れると考えていた』と結論づけるほうが、おかしい。
いわゆる『討ち入りは就職が目的』という説を唱えたのは、赤穂浪士が幕府の裁定によって切腹したあと『浪士たちの復仇は誤った行為であり、浪士たちは非難されるべき存在である』と論じた一部の儒学者(佐藤直方や太宰春台)だった。
もちろん、これには別の儒学者たち(浅見絅斎や松宮観山)から猛反論がなされている。
赤穂浪士が吉良の首をあげた後、仇討ちの詳細を知った幕閣たちが感激のあまり「浪士らの処分は、保留すべし」と助命を視野に入れた声をあげたのは事実であるが、まさか吉良邸への討ち入りが、これほど完璧な成功をおさめるとは、浪士たち自身も想像していなかったに違いない。
堀部は酒をゆっくりと飲みながら、磯貝と話す。
「よくよく考えれば、師走の大晦日は、掛け売りした品の代金を商人が集めてまわる日だったな。今は既に師走……。仇討ちが商いだとしたら、こうも言えるぞ。俺たちは『己の命』という商品を売る。だったら、それに釣り合う代金……いや、金に代わる『何か』を得ても良いはずだ」
「なるほど」
「たとえば大石様は、いまだに『浅野のお家の再興と、吉良への公儀からの処罰』を諦めていない。だからこそ、あれほど〝討ち入りの形〟に、こだわっておられるのだ」
「確かに、そうですね」
磯貝は、頷いた。
十二月になって直ぐに、大石は同志たちへ《討ち入りの起請文の前書》と《心得の覚書(討ち入りに際して守るべき規則)》を示してみせた。堀部も磯貝も、特に覚書の内容に驚かされた。
そこには敵との戦闘に関すること以上に、同志が吉良邸から引き上げる際に注意すべき事柄について、非常にこまかく記されていたのである。
『ともかくも、吉良を討てれば良い』と堀部や磯貝は、考えていた。しかし大石の見識は、段違いに深かった。
大石は討ち入りを完全な形に仕上げることによって、武士たちの共感を得て、更には江戸の民の世論と幕閣の心を動かし、自分の死後であっても、主家の復興を成し遂げたい……そう思っているのだろう。
そのためにも『赤穂浪士は、法を破った。けれど決して、乱臣賊子では無い』という事実を、最後の最後まで世間へ広く証明しつづけなければならない。それが、浅野家再興の未来へと繋がっていく。
大石内蔵助は、己の命と同志の命を、可能な限り、高く売りたいのだ。
大石の思慮に感心しつつ、磯貝は堀部へ尋ねる。
「では安兵衛様は、自らの命を売って、何を得たいのですか?」
「そうだな。亡き殿への俺の忠義を世に示すのに加えて、やはり己の武勇を天下に明らかにしたい。『〝高田馬場の決闘と吉良邸への討ち入り〟――二つの戦で剣を振るった堀部安兵衛は、元禄の世の剣豪であった』………そう後世に伝われば、俺は満足だ」
「安兵衛様らしいですね。豪快です」
「ならば、十郎左衛門は、どうなのだ?」
「私は……内匠頭様に、あの世でもう一度、お会いしたいです。そして『十郎左衛門、良くやった』と褒めてもらいたい……それだけです」
「……そうか」
堀部は己よりも十歳も若い磯貝の顔を、じっと見つめた。
「俺には衆道というのはサッパリ分からんが、お主の殿への真情が、どこまでも純粋であることは認める。きっと殿も、あの世でお主を待っていてくださるよ」
「ありがとうございます」
「討ち入りの十二月十四日は、月は違えど、殿の命日だ」
「ええ。その日を必ず、吉良上野介の命日にしてみせましょう」
浅野内匠頭は、死んだ。
吉良上野介も、数日後には死ぬ。
自分たちも、遠からず死ぬだろう。
けれど『死』があってこそ、『生』もある。
死ぬべき運命の己たちだからこそ、今の生を心ゆくまで楽しめる。
穏やかに時が流れていくのを、二人は感じた。
白い雪が舞い、静かに積もっていく。
磯貝十郎左衛門と堀部安兵衛は、その日、夜おそくまで酒を酌みかわした。
元禄十五年十二月十四日の夜半すぎ、明け方が近くなる時刻に、赤穂四十七士は吉良邸へ討ち入った。
一刻(2時間)ほどの激闘のあと、浪士たちは吉良上野介の首をあげ、亡君の復讐をなしとげる。
そして、元禄十六年二月四日。
赤穂浪士四十六人は、幕府の命により切腹した(※同志の一人である寺坂吉右衛門は討ち入り後に一党とは別行動をとり、天寿を全うした)。
大石・堀部・磯貝の、命をかけた商いの結果は――
討ち入り後、吉良上野介の養子であった吉良義周(上野介の孫)は所領を召し上げられ、信州諏訪家にお預けの身となった。義周は二十一歳で病没し、吉良家は断絶する。
宝永六(1709)年、浅野大学は将軍・徳川綱吉の死去にともなう大赦によって許された。翌年に旗本へ復帰し、五百石の所領を与えられる。赤穂浅野家は旗本の身分ながら、家名を復興をした。
幕府は吉良家への処置を過酷にし、浅野大学へは温情を与えた。赤穂浪士による吉良邸討ち入りの評判が、幕府の判断に大きく影響したのは間違いない。
《高田馬場の決闘》と《吉良邸への討ち入り》という二つの事件で大活躍した堀部安兵衛は、元禄時代を代表する剣豪として、後世にその勇名を伝えた。
現在においても堀部は、赤穂四十七士の中で大石内蔵助に並ぶ人気者であり、ドラマや小説の主人公として描かれることも多い
大石と堀部の〝復仇という名の商い〟は見事な成功をおさめた。
切腹した磯貝が、あの世で主君・浅野内匠頭と再会できたかどうかは、誰にも分からない。
それを知っているのは、元禄の世に冥界へと旅立った磯貝十郎左衛門と浅野内匠頭の二人だけである。
了
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ご覧いただき、ありがとうございました。
※赤穂事件における吉良側の視点で『師走の本所一ツ目、吉良の武士道』という短編を書いています。( https://ncode.syosetu.com/n6593jw/ )
そちらのほうも見ていただけると嬉しいです!