些細な中の大きな
硲美紅璃は人付き合いというものに、てんで興味がなかった。理由は母が所謂風俗で働いているからである。
父親はいない。母曰く、逃げられたのだそうだ。母は殊勝な性格をしていないので、そのことで美紅璃に苦労させただの、かまってやれなくてごめんだのということはなかった。美紅璃はそんな言葉が欲しいわけでもないので、静かな家でのひとときを受け入れていた。
そうやって、美紅璃が納得していても、周りも同じとはいかない。風俗をやっているやつの娘という称号はどちらかというと、貶されるものであった。
別に美紅璃は母の仕事を誇らしいとも思っていないし、蔑まれるのは仕方ない、と割り切っていた。だが、それで自分まで貶されるのは何故だろう、と疑問に思う。母は母、自分は自分、別個の人間である。風俗嬢の娘が、将来絶対に風俗嬢になるわけでもないのに。
心を閉ざしたつもりは、美紅璃には毛頭ない。が、周りと話さなくなっていき、美紅璃は自然と一人になっていた。
学校でも一人、家でも一人。それでも美紅璃は寂しくなかった。いつものことである。今更どうこう言う気も起きない。
だから驚いた。
「あの!」
美紅璃に声をかけてきたのは、今時、男子でもここまで短くないぞ、というくらい短髪の女子生徒だった。女子だと見分けられたのは、体育の授業は男女別だからだ。
自分に声をかけてくるのなんて、奇人としか思えない。からかって面白がるのが目的なのだとしたら……だとしたら?
どうでもいい。どうでもよかった。
だから驚いた。
「あなたの髪、結わせてください!」
あまりに突飛で、裏表のない要求をされたから。
「髪……?」
思わず聞き返すと、その女子は興奮に頬を赤らめたまま、あわあわとする。その姿は年相応の女の子みたいで可愛かった。
「あ、あのですね、私、髪がこんなですけど、髪を結うのが趣味でして……」
変わった趣味だな、と思った。けれど同時に納得もした。自分の髪でできるものなら、とうの昔にやっていることだろう。それくらい前のめりな様子だった。
ただ、美紅璃が疑問なのは、どうして自分なのか、ということだった。自分以外にも髪の綺麗な女子はいるだろう。例えば、立ち上がるだけでざわつくくらいの美人のなんとかっていう人とか。残念ながら、美紅璃は他人に興味がないので、名前までは覚えていない。
「なんで私、なんですか?」
「髪を育てるところからやりたくて。ヘアケア、あんまりやってないですよね?」
「まあ。髪洗うくらいしか」
そんなことまでわかるのか、と美紅璃は思った。これは予想より面白いことになりそうだ、なんて考えたら、鼓動が高鳴る。
何故高鳴る? とも思ったが、悪いことじゃない。それよりも、ヘアケアができていなさそうな子が自分に目をきらきらさせるほどの「可能性」を感じていることの方が面白い。
「リンスとか、コンディショナーとかつけてます? 時間ないならリンスインシャンプーでもいいんですけど。あと、櫛もちゃんと通してないでしょう? 櫛を通すだけでも、髪の艶とか変わりますからね!」
「はあ」
あ、しまった、と美紅璃は思った。いつも、他人の話なんて興味なく聞いているので、思い切り気のない声が出てしまった。内心ではこんなに関心しているというのに。
見る間に女子がしゅんとなる。テンションの違いにはっとしたのだろう。
「ご、ごめんなさい。いきなりこんな話されても困りますよね」
「あ、いえ」
「で、では、失礼しました」
ちょっと待って、と美紅璃は言うつもりでいた。が、言葉より先に手が出ていた。無意識のうちに、相手の手首を掴んでいたのだ。
美紅璃はそこから、上手く言葉が紡げなかった。元々口下手な方なのだ。何度か息を吸ったり吐いたりして、何も出てこないながらに、無理矢理言葉を出す。
「土曜日」
「は、はい?」
「土曜日なら、都合つく。いきなりだから、道具とかないし」
「あ、はい。そうですよね。って、え?」
まさか受け入れられるとは思っていなかったのか、少女は目を丸くする。美紅璃は、思いつきではあるが、自分にしてはまあまあできた答えだったんじゃないか、と一人で満足していた。
少女は目を白黒とさせながらも、頭の中で話をまとめたらしく、美紅璃に頷いた。
「土曜日ですね。次の土曜日で大丈夫ですか?」
「はい」
「じゃあ、よろしくお願いします! あ、私は一組の由比ヶ浜咲咲音です」
「二組の硲美紅璃です」
美紅璃の心はこの出会いに弾んでいた。
咲咲音はというと、もう緊張と興奮でどうにかなりそうだった。一度気まずくなりかけたものの、了承を得られたことが嬉しい。
もっとちゃんと、コミュニケーションの取り方を考えないとな、と反省していた。
別に、咲咲音はコミュ障というわけではないが、美紅璃があまりにも綺麗な声をしていたので、緊張してしまった。髪の手入れがなくても、美人とわかる顔立ちは、ふとしたときに息を飲んでしまうような美しさがある。
そんな人物が目の前にいて、その視線がこちらを向いていて、緊張しないはずがない。緊張と興奮で前のめりになりすぎた、と反省する。
受け入れてもらえたが、ドン引きされていないだろうか、と不安になる。いきなり来て「髪を結わせてください」だなんて、想像の斜め上にも程がある。だが、それ以外の言葉が思い浮かばなかった。普段なら、直前で怖じ気づいて、身を引いてしまうはずなのに、何故か彼女の前には行けた。
——たぶん、悔しかったのだ。昨日の美人に言われたことが。だからどうやってか見返したい……だなんて、あまりにも安易で、意地汚いだろうか、と咲咲音は少し自嘲する。
だから「ヘアケアから」なんて言葉が口をついたのだ。美紅璃は確かに綺麗な子だが、髪がごわついたり、まとまりきっていなかったり、と問題点のある様子だった。本人はそれで満足しているかもしれないのに、「私が直しますよ」なんて、傲慢だ。
と、つらつら考えているうちに、教室に辿り着く。
そこではっとした。
「待ち合わせとか聞いてない!」
メアドやチャットIDを聞いておくべきだった。だが、まあ、隣のクラスだから、すぐに確認できるだろう。名前だけでも聞いておいて良かった。
……というか、その名前も相手から名乗ってくれたんじゃん! と咲咲音は再び自分に突っ込む。どれだけ緊張していたのだろう。自分が抜け作すぎて泣けてくる。
土曜日か、と咲咲音はふと思った。
美紅璃は休みなのかもしれないが、咲咲音の入部したコスプレ部は学校公式SNSで、写真をアップしたりするので、土曜登校も普通にある。咲咲音もその腕を認められて、早速投稿用の動画を撮ることとなった。ちなみに、そのためだけの音声編集部門がコスプレ部にあり、コスプレに携わりたいけど、スキルや自信がない、という場合でも、受け入れてもらえる。
ふと思った。
「私がヘアメイクじゃなければ、あの人も、あんなこと言わなかったのかな」
髪結いが好きなのは自分の誇りだし、アイデンティティだ。それを否定されるのは悲しいし、悔しい。けれど、あれだけ綺麗に整えている人だ、その人にもプライドがあって然るべきだろう。そのプライドの部分を、咲咲音は踏み荒してしまったのではないか、と不安に思う。
場にいたコスプレ部の先輩たちは、気にしなくて大丈夫、とは言ってくれたものの、気になるものは気になる。
人の心を傷つけない、というのは難しい。否、不可能といってもいいかもしれない。けれど、傷が少なくて済むのなら、その方がいいのではないか、とつい考えてしまう。
「由比ヶ浜ちゃん? 大丈夫?」
「あ、沢田さん。すみません、ぼーっとしてました」
色々悩んでいると、背の順でちょうど咲咲音の後ろにくる沢田羽菜が声をかけてきた。ボブに揃えられた髪はまさにみどりの黒髪。咲咲音が欲してやまないものである。
「羽菜でいいって。ほれほれ、眉間に皺が寄っとるぞー」
気さくに話しかけてくる羽菜が、咲咲音の眉間をこしこしと人差し指でこする。咲咲音は苦笑した。
「ありがとうございます」
「何か、悩み事?」
「まあ、色々と」
「まあ、あたしら、そういう年頃だもんね。話したくなったら聞くよ、由比ヶ浜ちゃん」
「苗字は長いですから、咲咲音でかまいませんよ、沢田さん」
「ブーメラーン! まあ、同中でもないのにいきなり名前呼びは大変よね。ま、気軽に声かけてよ。二組の高田の話とか」
「高田さん? 誰です?」
ありゃ、知らなかったんだー、と驚いてから、羽菜は先程の言葉を繰り返す。
「同中でもないのに、名前知ってるわけないか。高飛車なコスプレ部のレイヤー志望だよ。美人なんだけど、容姿に自信があるからか、他人の容姿に厳しいんだよね。昨日早速揉めたって?」
「どこでそんなこと聞くんですか?」
「うーん、内緒」
羽菜は眉根を寄せる。話したいような、話したくないような、微妙な心情の狭間で、羽菜はいくらか口をぱくぱくとした後、肩を竦める。
「美人に敵は多いんよ。あたしとかね。その点、由比ヶ浜ちゃんは心が清いからなあ」
今度は咲咲音が微妙な顔をする番だった。
「清くなんてないですよ……」
「そう? まあ、清くない部分が表に出てないってことになるから、いいことだと思うけど?」
「考え方一つですね」
物は言い様というやつだ。時計の針がかちりと動き、羽菜はそこでやべ、と席に戻った。
授業が始まり、終わっていく。美紅璃と出会ったこと以外は、全てが些細な日常だった。