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#96 絢香と茉莉

 その日の晩。茉莉ちゃんに呼び出されて、ホテルのロビーから、少しそれた廊下へと。

 消灯時間はまだだけれども、特に自動販売機なども置かれていないその通路には、人通りはほとんど無かった。


「来てくれてありがとう。……あそこでは、ちょっと話しにくいことだったから」


「話しにくいってのは、雨森さんがいるから?」


 そう尋ねると、彼女はコクリと頷いた。

 と、なればメイドに関係することか、あるいは。


「……さて、消灯時間までそんなに時間猶予があるわけじゃないし。単刀直入に、話してしまいましょうか」


 そう言うと、彼女はそっと目を伏せて。落ち着いた声色で。


「絢香ちゃん。あなたは、裕太を生かす人なの? それとも、殺す人なの?」


「えっ――」


 耳を、疑った。数秒、彼女の言った言葉がどういう意味なのか、理解できなかった。

 裕太さんを、生かす? 殺す? いったい、なんの話をしているんだ、と。


「ああ、ごめんなさいね。話が突飛すぎたわ。……でも、聞きたいのはそこなの」


「……どう、いう意味ですか?」


 冗談で言っている様子はない。まさしく、本気で彼女は先程の質問を投げかけてきている。

 しかし、脈絡がわからなさすぎる。私が裕太さんを殺そうとするなど。そんな理由もないし、それどころか、あり得ないだろう。


「ちゃんと言葉を補足するわね。絢香ちゃん。あなたが裕太のことをちゃんと大切にしてるってことはわかってるし、理解してる」


 今年の4月。私が裕太さんの元へと押しかけていったとき。それを知った茉莉ちゃんは、監視という名目で同じくメイドになることを志願した。

 その理由は、彼女が宣言していたように、監視。裕太さんが、私たちのことを襲わないように、というもの。そして、


「絢香ちゃん。あなたたちが、裕太のことを殺すんじゃないかなって」


「だからっ、殺すわけが――」


「ごめん。それは、理解してる。でも、ここで言う死は、生命活動の停止ってわけじゃないの」


 彼女はそう言うと。「絢香ちゃんは覚えてる? 裕太の両親が帰ってきたときのことを」と、そう尋ねてくる。

 それは、覚えている。というかそもそも比較的最近の出来事だ。なんなら記憶に新しいまである。


「そのときの裕太の様子を覚えてるかしら」


「ええ。久しぶりに帰ってきた両親に、驚きつつもとても喜ばれていたように思いますが」


「……うん。その認識はあながち間違いじゃない、かな」


 どこか悲しそうな表情を浮かべながら、彼女はそう答える。

 あながち間違いじゃない、ということは、別の答えがあるのだろうか。……でも。


「正直ね、絢香ちゃんたちがやってきてからの裕太は、随分と活気づいてたの。それについては、本当にありがとうって思ってる」


 でも、と。彼女は言葉を詰まらせる。そして、茉莉ちゃんはギリッと少しだけ歯を食いしばってから、口を開いた。


「だからこそ、あなたたちはそれ以前の裕太を知らない。……生きながらに死んでいっていた裕太を」


 彼女の放ったその言葉に、私は思わずびっくりして。動揺から一歩後退る。

 そのまま茉莉ちゃんはキッと私の目を見つめて、ゆっくりと話し始めてくれる。


「最初裕太のところに行ったとき、たぶん冷蔵庫の中身ほぼ空っぽだったでしょう?」


「え、ええ。でも、それくらいは普通――」


「うん、普通よ。一人暮らしの高校生ともなれば、仮に自炊ができたとしてもそれをしないことは別におかしくない。特段生活に困窮してるわけでもないしね」


「なら、どうしてそれを」


「あいつの、春以前の食生活、知ってる?」


 それ、は。以前少しだけ聞いたことがある、はず。たしか、コンビニ弁当やゼリー飲料で済ませていた、と。

 私がそう答えると、茉莉ちゃんはコクリと頷いて。


「うん、そのとおり。もっと言うなら、コンビニ弁当を食べてるときはまだマシ、かな」


 そう言いながら、彼女の告げた言葉は。思いもよらぬものだった。

 裕太にとって、食事を楽しむ、という項目が彼の中から消えかかっていた、と。

 だからこそ、栄養さえ取れればそれでいいと考え、その結果、ゼリー飲料ばかり摂る生活を半年くらい続けていたこともあった、と。


「……なん、ですか、その話」


「残念ながら、これが事実よ。言い方はひどいけど、人として大切なところがぶっ壊れてるのよ、あいつ。全てにおいて、自分という存在の優先順位が下になってる」


 言われてみれば、納得できる側面がなくはない。


「その原点であり。そして、最大の向き先こそ。裕太の両親なの」


「――ッ!」


 その言葉に、胸の奥を抉られるような、そんな感覚を感じた。


「裕太の両親は、昔からすっごく忙しい人間でね。……それでも、有名になるまでは家に居るには居たんだけどね」


 けれど、幼かった裕太さんからしてみればいつも疲れた様子の両親に中々甘えることができず、けれど、どうにか構ってほしい、と考えるようになって。

 そして、その結果。彼の取った行動は両親の手伝いをしよう、ということだった。このとき、未だ小学生低学年。


 はじめは、簡単な家事の手伝いから始まった。自分が掃除をすれば、自分が料理を作れば、両親の手が空き、その分構ってくれるかもしれない、と。

 しかし、それはうまく行かなかった。彼がどれほど努力をしても、その量を超える仕事が降りかかってくる両親は十分に裕太さんを構うことができず、結果的に裕太さんの手伝いは両親が仕事に打ち込む時間を生み出すだけになった。


「それでも、裕太は幸せそうだった。あいつは両親のことが好きだったから、その手伝いができるのなら、と」


 しかし、そんな裕太さんに転機が訪れた。両親の努力が実り、彼らの実力がやっと世間に認められたのだ。

 そして、その転機こそ、彼を苦しめる最大の要因となる。


「彼の両親が、海外に行くことになったの」


 裕太さんの現状――一人暮らしが生まれたその要因。それこそが、これだった。


「おじさんやおばさんも随分と悩んでたみたいだけど、当時の彼がまだ中学生だったこともあって」


 彼の形成していた今の交友関係を断ち切って、言葉の通じない海外に連れて行くのは酷だろう。しかし、ひとり息子を置いていくのも不安ではある。

 だがしかし、そんな両親の元に向かって、裕太さんは告げた。「俺は、大丈夫だから」と。


 本当は、もっと構ってほしかった。本当は、もっと甘えたかった。けれど、それ以上に両親の負担になりたくなかった。そう思った彼は、両親を送り出すという決断をした。


 身に覚えのある痛みに、心臓がズキズキと痛む。


 両親としても、既に家事の殆どを任せていたこともあって、そのあたりの心配はなかった。

 嫌な噛み合い方をしたお互いの意見は、そのまま表面上は円滑に、水面下では地獄の様相を見せながら進んでいった。


 そう。両親が海外に行った結果。裕太さんは生きる目的を喪った。


 自分自身というものの順位を全て繰り下げて両親のサポートをしようとしていた彼から、突然にあらゆる必要がなくなった。

 そうして、ただ生きるだけの生活を送っていた裕太さんは、いつしか生活からあらゆるものを削ぎ落とすようになっていった。


 そのひとつとして、先述の食生活。

 そして、また一方では交友関係。


「両親を心配させまいと、交友関係は最低限、表面上だけ作るようになった。学校生活においても荒事は引き起こさないよう、平穏をひたすらに望むようになった」


 そうして、あらゆる「生きる」ことから興味を失いつつあった裕太さんは、親友である茉莉ちゃんや直樹くんから「まるで死んでいるようだ」と、そう評されるようになっていった。


「……あくまで、ただの対処療法でしかないけれど。直樹は定期的に裕太を無理やり連れ出したり、彼に食事をねだることによって彼の生きる目的を作ろうとした。最初はそんな方法、って思ったけれど、それでもいくらかマシになる裕太の様子に、いつしか私も同じような手法を取るようになってた」


 茉莉ちゃんは、頻繁に彼の元に訪れ、話し相手になることでその問題を解決しようとした。

 しかし、結局はこれも対処療法的でしかなく、しばらく期間が開けば彼は緩やかに死に近づいていっていた。


「……今から話すことは、とても残酷なことだと思う。だけれども、絢香ちゃん、あなたが裕太と一緒になりたいというのなら、これは知らないといけないことだから」


 そう、彼女は前置いて。表情を変えぬまま、しかし、少しだけ言いにくそうに言葉を詰まらせる。


「裕太が、絢香ちゃんのことを助けた環状線での通り魔事件。あのとき、どうして裕太が咄嗟に助けに動けたと思う?」


「……えっ?」


 私が、裕太さんと関わり合うことになった、その事件。それが、いったいどうしたというのだろうか。


「刃物を持った人間が、正気とも思えない様相で襲いかかっている状況で、なぜ、裕太が逃げずに助けに向かえたのか」


「それ、は……」


 わからない。たしかに、言われてみればおかしな話である。

 海で裕太さんが涼香のことを説教したとき、ナイフを持った人間と対峙したとき、どれほど武道に精通している人間でも最善手は逃げである、と彼は説いていた。


 つまりは、そういう状況下では逃げるべきだということを彼は理解しているわけで。そうだとするならば、彼の行動はいくら咄嗟のものであったとしても、理にそぐわない。


 答えがわからず、私が考え込んでいると。茉莉ちゃんが、教えてくれる。


「簡単な話よ。……裕太にとって、彼自身の命があまりにも軽いの」


「命が、軽い……?」


「ええ、そう。さっきも言ったとおり、私や直樹が構わなければ、裕太はだんだんと死に近づいていくの。自分自身がどうでも良くなるの。……だからこそ、自分の身を顧みず、助けに行くことができる」


「そんな、こと……!」


「実際、そうなの。……私や直樹も、同じようにして助けられたことがあるから、わかるの」


 ギリッと、歯を食いしばりながら、茉莉ちゃんはそうつぶやいた。その表情は、酷く後悔に包まれていた。


「……けどね、さっきも言ったように絢香ちゃん。あなたが来てから、裕太の様子が好転したの。まるで、生きる目的を見つけたかのように」


 食生活は私が作っていることも理由の一端ではあるが、改善された。交友関係も、決して広くはないものの表面上以上のものが増えた。

 それは、裕太さんにとって良いことであり、今まで死に向かっていっていたそれが、生に向かっていくようにしているものだった。


「最初は、それを改善と私も見ていた。……でもね、途中から変だなって思うようになったの」


 そう言ってから、彼女はひとつ、こぼす。


「もしかして、ただ、依存の先が。自分の尽くす先が。両親から絢香ちゃんに移っただけなんじゃないかなって」


「……っ!」


「ただただ自分を捨てて尽くせる相手が生まれたから、かつて自分が両親にしていたように、絢香ちゃんに依存しているんじゃないかな……って」


 茉莉ちゃんは、眉一つ動かさず。そして、と。言葉を続ける。


「絢香ちゃん。あなたも、裕太に依存しつつある。絶対に裏切らない、信頼できる頼り先として」


 まるで心臓を握りつぶされたかのように、身体のうちから尋常じゃない痛みを感じる。


「この際だから言っちゃうけれど。あなたたち、めちゃくちゃにお似合いよ。……認めたくないけど。お似合いすぎるくらいに」


 茉莉ちゃんは、吐き捨てるようにそう言い放つ。しかし、そこに祝福のような意図がないことは、明白だった。


「お互いにお互いの存在を必要としている。そんな組み合わせ、そうそうないと思うわよ」


 裕太さんは、己の全てを捨ててでも尽くす先を。私は、なにがあったとしても裏切られない頼る先を。

 ここまでの利害の一致、そうそうあったものではないだろう。


「けどね。それを理由として一緒になったとしたら、その先は地獄よ。……おそらく、ふたり揃って生きながらに死んでいく未来が見えてる」


 あまりにもお互いがお互いを必要としすぎている。だからこそ、一緒になればお互い以外を必要としなくなる。そのままふたりで一緒に殻に閉じこもるようにして、と。


 それを、一瞬悪くないなと思ってしまった自分に、ぞわりとした悪寒が走る。


「だからこそ、改めて聞くわね。絢香ちゃん。あなたは、裕太を生かす人なの? それとも、殺す人なの?」


「…………」


 私は、答えられなかった。突然に告げられたことで、まだ判断ができない、というような理由もあったが。しかし、それ以上に。


「もし、あなたが裕太を殺す人なのなら。私はあなたの恋路を邪魔するしかない」


 私が、裕太さんを殺す人かもしれない、と。自分でそう思ってしまったからだった。

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