#95 拳を止めたのは
絢香ちゃんについて、裕太が心配していたことはなんとなく察しがついていた。
おそらくは、文化祭の後に絢香ちゃんたちが話していて。そして、私が聞いてしまったもののことだろう。
で、あるならば。その可能性があるのならば。なおのこと私が行かなければならない。
これ以上、裕太に負担をさせるわけにはいかない。そして、絢香ちゃんのことを正しく判断するためにも、私が行かなければならない。
あのときの話を、聞こえたものだけにはなるが思い起こしつつ走っていく。
……おそらく、そう安易にどうにかできるものではない。あの場における、一番正しい、合理的な判断としては。おそらく、裕太を向かわせる、ということだったはずだ。
けれど――、
「ううん、私が行くんだ。行かなきゃいけないんだ」
ふるふるっと頭を振りながら、弱気な思考を振り払う。
先程絢香ちゃんに向かって送った個人メッセージに、返信が帰ってきていた。
どうやら、バス停から移動してしまっているらしい。それも、正確な居場所は把握できていない、と。
明らかに、いつもの絢香ちゃんらしくない。彼女にとって、なにかよくないことが起こっているのは明白だった。
なにも起きていない、ただの杞憂だった。で済めば、一番良かったんだけど。
とりあえず、そんな夢物語はありえないということがわかった。
「とりあえず、こっちの方ってことだよね」
都合のいいことに、現在は修学旅行なので制服。この服装の、黒い長髪でキレイな女の子がひとりでいるのを見かけませんでしたか? と、聞けばある程度の情報を得られそうだ。
もっとも、同じ高校の他の生徒たちもいるので、そちらと情報が混ざり合って錯綜する可能性はあるが。
「……メイド服なら、間違いなく一発だったんだけど」
普段なら疎ましく思ういつもの服装に、なんとも言い難い複雑な感情をいだきつつ。
私にやれることをやりきらないと、というその意志を持ちながら。とにかく走り続けた。
絢香ちゃんのメッセージには、林の中、とあった。……おそらくは、人目を避けたのだろう。
彼女から伝えられていた方向、そして目撃情報などからも考えて。おそらくここにいると思っていいだろう。そんなことを思いながら、私は林の中に足を踏み入れる。
「……そういえば、あのときもこんな感じだったのかしら」
ふと、校外レクのときのことを思い出した。あのときも、絢香ちゃんがいなくなってしまって。ちょうどその時、裕太が彼女のことを探しに行って。
たしか、当時も裕太は、木々の間まで絢香ちゃんを探しに行っていたような記憶がある。
……そして、そこで話にあった状態の絢香ちゃんを発見した。
その絢香ちゃんが、具体的にどんなもので、どういう危険などを孕んでいるのか、ということはわからない。
扉越しに盗み聞きをしただけだし。お互いの間で言わずともわかることをわざわざ言わないこともあれば、十分に聞き取れずにところどころ虫食いで抜け落ちているところもある。
私にわかっているのは、彼ら彼女らが被虐と呼んだそれが、おそらく今発生しているということ。
だからこそ、十二分に気をつけなければいけないし。そして、それと同時に。
「いたっ、絢香ちゃん! 大丈夫っ!?」
私は、彼女のソレについて、しっかりと知る必要がある。
座り込んでしまっているものの、見知った背中の彼女に駆け寄っていく。
「あっ……」
絢香ちゃんは、なにかを一瞬言いかけて。
しかし、その直後。明らかに様子がおかしくなった。
「絢香……ちゃん?」
なんと言うのが正しいのだろうか。言葉にするのも嫌になるほどに、悍しい、気持ち悪い、吐き気がする。とでも言えばいいのだろうか。
私の中に流れ込んできて。心の底から、ありとあらゆる嫌悪を湧き出させる。
その瞬間。私はなにをしようとしたのか。それが理解できなくて。ただ、感情のままに身体が動きかけた。それだけは間違いなくって。
マズい。絶対に、ダメだ。ここにいてはいけない。
同時に、なるほど、と。話に出てきた被虐がいかなるものなのか、ということもある程度理解した。
たしかに、これは、被虐だろう。
ただし、想像していたものとは方向性も違えば、域も違う。ただ、自分を痛めつけるのかと思っていれば、そんな単純な話ではない。
慌てて、私はスマホに手をかける。……どう転ぼうとも、少なくともしばらくはここから動けないだろう。
あまりに遅いと裕太が心配する。しかし、正直に今の状況を伝えたところでむしろ逆効果だ。
で、あるならば。
「……そういえば、あのとき。裕太は捻挫したって言ってたわね」
ならば、当時の彼のやり方をそのまま使わせてもらおう。
時間がかかる理由として、絢香さんが足首を捻ってしまったとそう送り、誤魔化す。
案の定、直樹からはゆっくりで大丈夫だから、というメッセージが帰ってきた。これで、時間は大丈夫。
「さて、そうなると。残る問題は」
目も合わせたくもないそれに、私は改めて目を向ける。
嫌だ、離れたい、どこかに行ってほしい、消えてほしい。
――殴りたい。
様々な嫌悪がこみ上げてきて、そして暴力衝動へと変換されていく。
嫌なことに、最近はなんとか抑えようとしてきていた感情まで呼び起こされてきていた。
「……アンタの出番は、今じゃないのよ」
殺意は、今はお呼びでない。……というか、今来てもらったら困る。
万が一があれば、それこそ本当に私が殺してしまいかねない。
頭の中の警鐘は、今すぐここを離れろと言う。
心の中の本能は、今すぐ彼女を殴れと言う。
なんとか理性が、そのふたつを抑え込む。しかし、大きく暴れるそれらは、少しでも気を抜けばすぐさま行動に出てしまいそうなほどに強かった。
「……絢香ちゃん、近づくわよ」
ザッ、と。一歩進む。枯れ葉が数枚、潰れた音がする。
そして――、
「ッ!?」
プルルルルッ、と。そんな電子音がポケットから鳴り響いた。
なんだ、ただの着信か。と、そう思いかけた瞬間。私はその違和感にやっと気づいた。
さっき見たときより。絢香ちゃんと私の距離が詰まっている。
私の手の所在も、一瞬把握できなかった。戻り始めた感覚を元に、私は視線を移す。
振りあげられたそれは、しっかりと握りしめられ、今にも振り下ろそうとされていた。
振り下ろした先にあるのはなにか。……そんなもの、問答の必要もなかっただろう。
今の瞬間、私の意識が飛んだ。その間、本能が勝った私の身体の優先権は、彼女を殴ろうと距離を詰め、拳を振り上げた。
プルルルルッ、プルルルルッ。電子音が、虚しく鳴り響く。
間一髪、振り下ろされるその直前で。この着信音により、私の意識がなんとか引き戻された、というところだろう。
震える喉で大きく息を吸い込み、吐き出す。
拳の力を緩め、落ち着いて、スマホに手をかける。
画面に表示された、見知った。見慣れた。見慣れすぎたその名前に、最大級の安堵を感じつつ、応答する。
『茉莉、大丈夫か?』
「……ええ、大丈夫よ。絢香ちゃんも、無事」
全く以て大丈夫なわけがない。だがしかし、それ以外に言いようもない。
だがしかし、そんな嘘の報告に。裕太は安心したような息をついて。
『よかった。それなら、絢香さんの足が落ち着いたらゆっくりでいいからこっちに――って、直樹! 勝手に動くんじゃねえ!』
どうやら、向こうは向こうでいろいろと面倒なことになっているらしかった。裕太は『すまん、そういうことだから、また後で!』と言うと、そのまま電話を切ってしまった。
ツー、ツー、ツー。そんな音を吐いた機械の電源を落とすと、乱雑にポケットに突っ込んだ。
「ねえ、絢香ちゃん」
だがしかし、そんな短い間の電話ではあったものの。私の考えを整理させ。そして、理性を取り戻させるまでには十分な時間だった。
「……茉莉ちゃん、殴らないんですか?」
「ええ、殴らないわ」
「さっきまでは、あんなに殴りたそうにしてたのに」
「――ッ!」
彼女の言うそれは、間違いなく事実なのだろう。自分自身でも、未だ身体の中に残っている残滓が、彼女の言葉を肯定してくる。
そして、今にも我らが正義だと。主導権を握ろうと燻っている。
「悪いわね。……文化祭の後の、あなたたちの会話。最後の方だけ、聞いちゃったのよ」
「…………!」
「だから、あなたのこれのことは、知ってた。具体的なことは知らなかったけどね。でも、まさかここまでとは思わなかったけど」
なんとか歯を食いしばりながら、私は彼女にそう語りかける。
絢香ちゃんは、そう、ですか。と、小さくつぶやくと。
「だから、どうすることが正解なのかも、いちおうは知ってる。……私は、今からあなたのことを助ける」
私は嫌がる足を無理矢理に前に動かし、思考を嫌悪から必死に抵抗させ。そして、彼女の隣に腰を下ろす。
そっと、彼女の手に触れると。ガラス細工のようにか細く、繊細で。少し力を間違えれば砕いてしまいそうなほどだった。
「だけどね、絢香ちゃん。これだけは覚えておいてほしい」
彼女からは、返答はない。だがしかし、こちらの話を聞いているということは、不思議とよくわかる。
「今回、私が踏みとどまれたのは3つの理由が在ったから」
ひとつは、具体的なことまではわからずとも、ある程度については把握できていたから。
もうひとつは、ギリギリのところで裕太からの電話がかかってきて、正気を取り戻せたから。
「そして、最後は。ここで絢香ちゃんのことを殴ってしまうと。私もあなたも、裕太に合わせる顔がないだろうから」
正直、あのとき。正気を取り戻せた私ではあったものの。その考えの中の優先事項には絢香ちゃんのことを殴る、ということがあった。
それがひとつの解決法だということをあのとき軽く聞こえていたから、ということもあるが。それを抜きにしても、私個人の感情として、存在していたものだ。……嫌なことだが。
だがしかし、それであっても私が踏みとどまることができたのは。私や絢香ちゃんになにかがあれば。あるいは、私たちの間の関係性になにかがあれば、裕太が心配するから。
私にとっての最優先事項が、彼だったから、だ。
「だから、絶対に間違わないでほしい。そして、忘れないでほしい」
やはり、彼女は答えない。けれど、私は気にせず言葉を続ける。
「振り上げた拳を止めたのは、私じゃなくって裕太だってことを」
そして、いつまでも彼に頼りきりになるわけには行かないということを。
「お、もうすぐこっちに来るってさ!」
直樹が明るい声でそう言ってくる。言われずとも、グループチャットにメッセージが送られてきているのでわかりはするのだが。
「いやあ、とにかく無事で良かった」
ホッとひと息ついて。直樹は持っていたお茶を少しあおる。
とはいえ、直樹の言うとおり。こちら側でも向こう側でも特になにも問題はなかったようで良かった。
こちら側では直樹が困っている外国人に話しかけて、言葉がわからず俺にバトンタッチすることが何回かあったが。少なくともなんとか切り抜けられた。……そのたびに直樹のことは怒ったが、懲りずに二、三回繰り返したので、これに関してはもうコイツの性格だろう。
そういう意味でも、茉莉ではなくて俺がこちらに来て良かった。茉莉では外国人の対応に苦労しただろうし、雨森さんは初対面の人との応対が苦手。……外国人ともなるとなおさらだろう。
ある意味、俺がこちらに来ていたから。安心した直樹がやった、とも取れるが。
茉莉からのあの後の連絡でも、特に問題はなかったらしく。しばらくしたら、普通に歩ける程度にはなったらしい。
「お、そんなことを話してたら来たみたいだぜ!」
バスが止まって、ドアが開く。
中からは絢香さんと茉莉とか並んで降りてきて。絢香さんは、心配とご迷惑をおかけしました、と。頭を下げて謝ってきた。
「まあまあ、元はといえば荷物を落とした茉莉が悪いんだし」
「なによ直樹。だから私が迎えに行ったんじゃない」
直樹の冗談混じりの軽口に、茉莉がムッと反論をする。
ひとまず。全員、お腹が空いているだろう? と、とりあえずこの場を収める。
「時間が遅くなっちゃったけど、おかげでちょっとは空いてるだろうしな」
俺がそう言うと直樹と雨森さんは嬉しそうな声をあげて喜ぶ。
その一方で、不思議なことに絢香さんと茉莉の反応があまり芳しくない。
「あれ、向こうでなにか食べてきちゃった?」
「いえ、なにも食べてきていませんよ。私も茉莉ちゃんも、お腹ペコペコです」
「ええ、どんなものが食べられるのか、楽しみだわ!」
さっきまでの反応の方が、ただの勘違いだったのだろうか。
少なくとも普段の様子に戻ったふたりに、それじゃあ行こうか、と。そう言って。
……いつの間にか雨森さんの手を引いて駆け出していた直樹を捕まえに行った。
「絢香ちゃん、今晩。少し話があるんだけど。いいかしら」
「……はい、大丈夫です」