#94 違うとわかっているはずなのに
その後。順路に沿って音羽の滝まで進み、直樹たちと合流する。
どうやらふたりでなにかを話し込んでいたようで、俺たちがかなり近づくまでこちらには気づかず。ついに来たことに気がついたかと思えばふたりして顔を真っ赤に染めていた。……いったいどんな話をしていたんだ。
「それにしても、滝って言うからどんなもんだろうと思っていたんだけど、思っていたよりかは――ふごっ」
直樹がとんでもないことを言いそうになったので、急いでその口を塞ぐ。
そういうのは思っても言うもんじゃないし、そもそもこの音羽の滝自体が、直樹の今思った評価基準で語るものじゃない。
しばらくはふごふごと抵抗の様子が見られたが、どうやら落ち着いて冷静になったらしいことを確認して、俺はその手を離す。
「ええっと、とりあえず、並びましょうか」
どうするべきか、少し困ったような様子を見せながらも。絢香さんがそう提案してくれた。
音羽の滝では、手水舎のように手を洗うことができるのだが、地味に人が並んでいた。
しばらくの順番待ちをしつつ、ついに俺たちの順番になって。金属製の長い柄杓を持って、音羽の滝の裏手に回る。
「思ったよりも、重たい……」
ギュッと思わず目を瞑りながら、雨森さんが頑張って柄杓を持つ。隣にいた直樹が、そっと手を貸しながら、手伝って。
そんな様子を横目に見ながら、俺も同じく倣って柄杓に水を注ぐ。たしかに、柄杓が長いことと水が高いところから落ちてきていることとが合わさって、見た目以上に重たい。
手元まで手繰り寄せて、洗う。滝の水ということと季節柄とが相まって、これがなかなかに冷たい。
「なあなあ、裕太。ハンカチ持ってねえか?」
「……忘れたのかよ。朝にちゃんと確認しただろ」
「はははっ、悪い!」
明らかな、反省の見えない言葉だけの謝罪に少しだけ呆れつつ。しかたないな、と。
俺は自分の手を軽く拭うと、そのまま直樹にハンカチを渡す。
彼も手を拭いて、軽く畳んで返してくれる。
「さてと、清水寺の中は、とりあえずこれで終わりかな?」
「そうだな。ここからは道なりに進んでいくと、入り口付近まで戻ってくることになる。最初の階段のところだな」
そのまま順路を指差すと、木々の横を通っていく道がある。
舞台の上から見る景色もそれはそれできれいだったが、こちらから見るのもなかなかいいものではある。
「昼ごはんは、次のところで摂るつもりなんだっけ?」
「そうだな。時間的にも、それが都合が良さそうだし」
茉莉の質問に俺がそう答える。事前に決めていた工程としては、どれくらいの時間がかかるかハッキリしていないということもあり、時刻を見つつ清水寺の周辺で食べるか、それとも次のところに行ったときに摂るかをその場で判断する、としていた。
そして現在時刻は11時頃。早めの昼食と言えなくもないが、やはり少し早い。むしろ、次のところに行ったくらいでちょうどいいくらいの時間になるだろう。
なら、無理にここで食べる必要もないわけで。
「それじゃ、戻っていくとするか。買い忘れなんかがあったら、途中で止まるから言ってくれよ?」
元来たバス停に戻る途中、特に買い忘れなどはなかったものの。相変わらず直樹は適当に買い食いをしていた。これから昼食だというのに大丈夫か? と思わなくもなかったが。まあ、こいつなら大丈夫か。
他にも、他の班や他のクラスの人たちと遭遇して、絢香さん目当てのその人たちに囲まれたりすることもあったりはしたが。そのあたりはさすがは絢香さん。こういった状況には慣れているようで、彼女たちに適当な理由をつけてそのまま離れることに成功していた。
そして、バス停で。
「……乗れないってほどではなさそうだけど、それなりには人がいるものなのね」
少しばかり不服そうな様子を見せながら、茉莉がそう言う。
ある意味タイミングがいいのか、タイミングが悪いのか。バスがこれから来るぞ、というようなタイミングで来たこともあってか、バス停にはそこそこな人数がいた。
そして、バスが止まって。乗り降りが始まる。
「このバスでいいんだよな?」
「ああ、そうだ。乗るぞ」
直樹の確認に俺がそう頷く。前の人たちが乗り込んで、直樹や俺も、それに続いて乗り込んでいく。
茉莉と雨森さんも、乗り込んで。そして、絢香さんが乗ろうとした、そのとき。
「あ。茉莉ちゃん、買ったもの落としていま――」
なんて、間の悪いことだろうか。茉莉の落とした荷物を絢香さんが拾おうとしたその時。電子音が簡単なメロディを奏でて。
プシューッ、と。バスの乗り口の扉が閉じてしまった。
「あっ」
「あっ」
バスのドア越しの声と、こちらの声とが重なる。
無慈悲にも、バスはそのまま動き出し、絢香さんを残して進み始めた。
「おい、どうする!?」
慌てたのは、直樹。気持ちはわかるが、とりあえず公共交通機関だから、もう少し声のトーンを落とせ。
……焦っているのは俺もだ。だが、ここで冷静さを失っては余計に混乱を引き起こす。
「とりあえず、俺が次のバス停で止まって、絢香さんを迎えに行くよ」
絢香さんならひとりでも来ることができるとは思うが、念の為、と。
女子高生ひとりとなると、いろいろとややこしいことになりかねないし。万が一を考えるとそのほうがいいだろう。
行き違いにならないように、先に連絡だけ入れておいて、と。とにかく早くに行動しようとした、そのとき。意外にも待ったの声がかかった。
「裕太は直樹と雨森さんと一緒にいて。私が行く」
「茉莉。……でも」
「大丈夫。そもそもは私のミスが招いたことなんだから、自分でちゃんと始末はつけるわ。それに、走る速度だって私のほうが裕太よりは速いし」
そう言いながら、茉莉は降車ボタンを押す。次第にスピードの緩んだバスは、そのまま先程とさほど距離の開いていないバス停に止まる。
「俺としても、茉莉よりかは裕太にいて欲しい。正直、俺と雨森だけじゃ迷子になるかもだし。そのときに茉莉がなんとかできるかというと……」
「ねえ直樹。それどういう意味?」
「いやあ? なんでもないぜ?」
ケラケラと小さく笑う直樹に、茉莉が少し機嫌を悪くしたものの。それじゃ、行ってくるから、と。そのまま彼女はバスから降りて元来た方へと走っていってしまった。
「まあ、新井さんと茉莉のふたりでいれば大丈夫だろ。変なやつがいたとしても茉莉がぶっ飛ばせるだろうし」
俺の顔に浮かんでいたのだろう不安を読み取った直樹がそう言ってくる。
「そう、だな……」
ひとまずはそう答えるも、どうにも嫌な予感が収まらない。なにか重大な選択ミスを起こしているような、そんな気がしなくはないのだが。
例えば、そう。周囲に確かに人はいるものの、絢香さんから頼れる人物はいない。いざとなったときにいつも頼っていた涼香ちゃんも遠く離れている。
そんな彼女が、万が一にも孤独や疎外感を覚えてしまったなら――なんてことを。
しかし、既に茉莉を送り出してしまっているため、もうどうにもできないのも事実。
ならば、なにも起きない、ただの杞憂であったとなるように信じ、願うしかない。
「うん、ただの考え過ぎ、だよな」
茉莉はあの絢香さんを知らない。……そんなことにはなっていないと、願うしかないだろう。
そんなこんなで、どうも気が落ち着かないままにバスに揺られること、しばらく。
「おっ、茉莉からメッセージが来てるぞ。新井さんを見つけたけど、慌てちゃったせいで新井さんが足を捻っちゃったみたいで、少し遅れるってさ」
「……そうか」
その程度なら、よかった。大事には至っていないだろう。
直樹が、ゆっくりで大丈夫だからな! と、そんなメッセージを送り返しているのを見届けて。少しだけ、ひと息をつく。
ひとまず、バスから降りたら茉莉に電話をしよう。
「あっ」
「あっ」
しまった、と。そう思ったときには既になにもかもが遅かった。
バスの扉は閉まって、裕太さんたちが先に行ってしまった。
どうしよう、と。そんな焦りと、困惑とが少しずつ膨らんできて。
それと同時に、嫌なものも。感じたくないものも、奥底から目覚めてくる。
「……ダメ、ダメ、ダメ。出てこないで」
小さな声で、自分自身に言い聞かせる。そんなわけがない。今のはたまたまであって、そんなことは、絶対にない。
そもそも、今さっきに私がバスに乗り遅れたのは茉莉ちゃんの落とした荷物を拾ったからであって、そんなたまたまな事象を作れるわけがない。
だから、これは、たまたまであって。そんなわけが、ない。
けれども。言い表しようのない孤独感と、襲いかかってくる疎外感。違うとわかっているのにも関わらず、思考を乱してくる置いていかれてしまった、という感覚。
こんな不特定多数の人がいるところで、やるわけにはいかない。もしかしたら、誰かクラスメイトがやってくるかもしれない。それは、なおのことマズい。
気づいたときには私は駆け出していた。
どちらに向けて、どれくらい走っただろうか。観光地ということもあり、人のいないところを探しても、なかなか見当たらない。
森や林のような、木々の間までやってきて。やっと、なんとかひと息落ち着くことができた。
だがしかし、ある意味では正しく、そして、ある意味ではあまりにも間違いだったその選択肢に。気づいたときには、もう遅くて。
「あっ、ああ、あああっ……」
尋常じゃない不安感が、襲いかかってくる。
急いで助けを求めようと、スマホを開いて。すると、メッセージが届いている。
……茉莉ちゃんが、迎えに来てくれている、とのこと。
裕太さんじゃないんだ、と。そう思わなかったわけでない。だがしかし、たしかにあの落とし物は茉莉ちゃんのものだし、彼女が来るのがある意味道理ではある。
「……なら、連絡を送るのは、茉莉ちゃんにするべき、かな」
全員のグループチャットに送ってもいいけれど、変な混乱を引き起こしかねない。どうしてバス停から離れてしまったのか、とか。そういう事情の説明が、やりにくい。
その点、茉莉ちゃんならある程度融通がきく。もちろん、裕太さんが最適ではあったのだけれど、そこは仕方がないだろう。他のふたりでないだけで、十分だった。
「でも、茉莉ちゃんがくるのなら。これを、なんとかしなきゃ」
既に表に出かかっているソレを、なんとか抑えこもうとするも。しかし、どうしても出てきそうになってしまう。
メッセージでは、茉莉ちゃんからどこにいるの? と、質問が投げかけられていて。
あまり正確に把握はできていないものの、できる限り覚えている範囲で、今いる場所の大まかな範囲を伝えた。……バス停から、どちらに向かったのか、というようなレベルだけれども。
ついでに伝えた、林の中、という情報もあれば、そう広い範囲にはならないだろうと、そう信じて。
ごめんね、と。そう謝りながら。しかし、彼女からは特段追及は無かった。どうしてバス停から動いているのか、とか。あるいは、どうしてそんな場所にいるのか、とか。
ある意味、聞かれなくて助かった、とも思える。そんな事情、説明できるわけもない。
とにもかくにも、今の私にできることは。茉莉ちゃんが来る前に、この不安感を押し潰していつもの私に戻ること。
彼女に、迷惑をかけるわけにはいかない。
けれど、それと同時に。私の中に、茉莉ちゃんにしてもらえたら、どれほど楽に自己を確定できるだろうか、と。そんな甘い逃げ道が浮かび上がってくる。
ある程度、理解がある彼女に。そんなことを頼むわけには行かないのだけれど。
でも、もしかしたら受け入れてくれるかもしれない。殴ってくれるかもしれない。そうしたら、そうなってくれれば――、
いや、ダメだ。それじゃあダメなんだ。ただでさえ様々な迷惑や心配をかけてきた茉莉ちゃんに。さらなる負担を強いるわけにはいかない。
だからこそ、はやく、はやく。普段の私になんとか戻らないと、と。
そう、改めて気を持ち直そうとした、そのとき。
ガサガサッ、と。草を踏み分ける音がした。
「いたっ、絢香ちゃん! 大丈夫っ!?」
ああ、いけない、来ないで。まだ、来ちゃダメ。
私の気持ちが、持ち直せていない。まだ、いつもの私に戻り切れていない。
そんな状況で、彼女に出会ったら――、
「あっ……」
ぷつり、と。なにかが切れてしまったような、そんな感覚がした。
それが、なんとかギリギリで保とうとしていた理性だということは。誰に言われずとも明らかだった。
同時、鎖を解き放たれたかのように。悍しく歪なものが、私の中から込み上げてくるのが感ぜられた。