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#87 心配させないで

「おかえりなさいませ、裕太さん。茉莉ちゃん」


 家に帰ると、パタパタと駆け寄ってきて絢香さんが迎え入れてくれる。

 早くに茉莉とのデートを切り上げて帰ってきたというのに、意外なことにも彼女の様子には驚きはなく、普通な様子で出迎えてくれていた。まあ、元より帰宅の予定時間などを伝えていたわけではないから、ただ単に早くに帰ってきただけにも見えるだろうが。


「ごめんね、絢香ちゃん。ちょっと考え事があるから、私は自室に引っ込むね」


 茉莉はそうとだけ言うと、足早に自分の部屋へと帰っていってしまった。不思議そうな、そしてどこか申し訳なさそうな顔をした絢香さんは、俺に向かって「なにかありましたか?」と。


「……どうやら、俺はなにかをやらかしてしまったらしいんだ」


 そして、それがなんなのかということがわからないのが今の現状での最大の問題である。彼女に謝ることもできなければ、反省し、次にいかすこともできない。

 ある種の詰みのような状態にある。


「そういえば、涼香ちゃんはどうしたの?」


 そういえば帰ってきてから姿や声を聞いていない。面倒くさがりの彼女だから、絢香さん見たく迎えに来てくれることはめったにないが、その一方で声だけは出してくれることが多い。

 それがなかったことに疑問を抱いた俺は絢香さんに対してそう質問を投げかけると、どうしてか彼女は視線をそらしながら少しまごついて。


「えっ、と。ちょっと買い物を頼んでいまして。その、そろそろ帰ってくると思いますよ」


 と、そう説明した。別にそれならば言い淀む必要がなかったようにも思うが。

 そんな絢香さんの言葉のとおり、話しているそばでガチャリとドアが開いて「ただいま」と。


「おかえり、涼香ちゃん」


「ん、ただいま」


 涼香ちゃんもまた、俺が帰っていることに違和感を持つことはなく、そのままサッサと室内へと入っていく。

 そういえば玄関で話し込んでしまっていた。別にここで立ち話をする理由もないので、俺も靴を脱いで涼香ちゃんに続いて部屋に入っていく。


 リビングでは帰ってきて早速、涼香ちゃんがいつものソファに寝っ転がっていて、見慣れた光景だった。


「そういえば裕太さん、怪我は大丈夫ですか?」


「怪我? まあ、たしかにしてるけど、なんでまた」


 打ち身の他、多少の擦り傷などがありはした。……が、季節的な都合もあり、それらは服の下の見にくい場所にあるはず。

 それを指摘すると、彼女は少し焦った様子を見せつつも、俺の衣服が多少砂に汚れていたからだと説明してくれた。帰ってくる前に可能な限りは叩き落としていたつもりだったが、どうやら甘かったらしい。


「まあ、大したことないから大丈夫だよ」


「そんなことはありません! 見せてください」


 ズズッと彼女は距離を詰めてくる。……いつの間にやらさっきまで横になっていたはずの涼香ちゃんが用意のいいことに救急箱を手に持ち、絢香さんの後ろに控えていた。

 とりあえずどうやら受けきれるしかなさそうだと察した俺は、そのまま彼女たちの処置を受け入れる。水道水で傷口をしっかりと洗い流して、その後、化膿止めを塗布して、絆創膏を貼る。

 冷たい水は、若干傷口に傷んだ。


「裕太さんは。自己犠牲って、どう思ってる?」


 突然に、絆創膏を貼ってくれていた涼香ちゃんからそんなことを質問される。

 話の脈絡が見えてこないそれに疑問を抱きながらも、そうだなあと回答する。


「美徳みたいにされることはあるけど、俺はそうは思わないかな」


「ん、そっか」


 結局その質問がなんだったのか、ということはわからないままで。涼香ちゃんはひとり納得してしまった。

 そのまま処置が終わり、彼女たちに礼を言ったあと。俺も一旦自分の部屋に戻ることにした。






 パタン、とリビングの扉が閉じられて。

 同時、お姉ちゃんはふう、と大きく息をついて身体から緊張の糸を抜く。


「お姉ちゃん、誤魔化すのが下手」


「ごめん……」


 私がジトッとした視線を向けると、しょぼんと少し落ち込みながら身体を小さく縮こませさせた。


 裕太さんと茉莉のデート、気になったお姉ちゃんと私は尾行を決行することにした。

 ただ、家にいたはずの私たちが、ということになるとなにかあったときに弁解が効かなくなるので、ひとりは家で待ち、もうひとりが実際に尾行する、という形で。


 だからこそ、知っていた。裕太さんが交通事故に巻き込まれかけたということも、それが理由でなんらかの不和がふたりの中に発生して早々に解散することになったということも。

 残念ながら気づかれないようにするために接近しすぎないようにしていたこともあり、どのような会話が繰り広げられていたのかというところまでは把握できていないが。


「それはそれとして、涼香はなんであんな質問をしたの?」


 あんな質問、というのは彼の怪我の処置をしているときに私が投げかけたものだろう。

 それに関して、私はお姉ちゃんに対して少しだけ言葉を迷う。


 お姉ちゃんには、裕太さんが交通事故に巻き込まれかけた、ということだけ伝えている。その経緯……つまりは、横断歩道を歩いていた子供を庇おうとして、巻き込まれかけたということまでは伝えていない。

 その理由は、裕太さんとお姉ちゃんとの出会いのキッカケ。件の通り魔事件にも、少し似通った部分があったから。


 いずれも、危機が迫った誰かを。自身の危険をも顧みずに救出に向かったという点。

 その思考に至るまでの動き出しの速さなども含めて、少し、気になったことがあった。


 そして、茉莉の様子の変化を考えても。このことが理由になって、なにかしらの思いが彼女の中に生まれたようにも感じたから。

 だからこそ、なんらかの参考になるのではないかと考えて、裕太さんに質問をしていた。


「ん、それは、なんとなくかな」


 返ってきた回答を鑑みる限りでは、お姉ちゃんに伝えてもいいようにも思える。だけれども、どちらにせよ無闇にそういった記憶を掘り起こさせるべきではないだろうし、なにより個人的には裕太さんの返答に若干の違和感を感じていた。

 だからこそ、適当にはぐらかしておく。


 お姉ちゃんは、なにかしら引っかかったのだろう。少しだけ私の返答に対して考えた上で。しかし、わざわざ私が伏せるのだから理由があるのだろう、と。そう判断して「そっか」と。


 ……それにしても。


 少しだけ、眉にシワを寄せながら私は考え込む。

 私に対して、自分を大切に、と。そう説教をして気づかせてくれた人が。


 その本人こそが、一番自分自身を危険な目に合わせているような、そんな気がして。チクリ、と。胸が痛んだ。






 裕太や絢香ちゃんたちから逃げるようにして自室に飛び込んで。すぐさまベッドに倒れ込む。

 溢れてくる気持ちは、矛盾と自己嫌悪の積み増し。


「わかってる。わかってるの……」


 裕太があのときとった行動が、間違っていない、ということは。

 今にも車に轢かれそうになっている、そんな子供を見過ごせという方が無理な話だということは。


 でも、仮にそうだとしても。

 理屈だとわかっていても。思いが、身体が。それを拒絶する。


「心配を、させないでほしい……」


 未だに瞼の裏に焼き付いている光景がある。

 中学生の頃。交通事故に巻き込まれそうになった私を助けてくれた、裕太の姿。


 ちょうどと言わんばかりに、似たことが起こったせいで。その光景は強く、鮮明に思い起こされていた。


 裕太は、私が交通事故に関するトラウマを抱えていると勘違いしている。あながち間違っているとも言い難いのだが、その表現は正確ではない。

 交通事故に対して恐怖感を抱いているのは事実だが、それは誰しも同じことだろうし。それに関しては、普通の人よりも、というレベルだ。


 それよりもずっと、私が恐れていることは――、


 記憶にこびりついている、真っ赤なそれに。顔が歪む。

 私や直樹が知っている、裕太の性格。他を救わんとするための、裕太の動き出しの速さ。そして、それに伴う自身への損害への軽視。


 裕太は、誰かを助けようとするとき。自分自身を計算の内に入れない。


 裕太は、私のことを交通事故から助ける際。私を庇い、その身に負担を請け負った結果。腕と脚に骨折をする大怪我をした。

 前者は私を守る際に車に接触をされて。後者は、私を支えようとした結果、無理な方向に脚が曲がって。

 それ以外にも、強く身体を地面に打ったことで流血もしており。命に関わるような事態にはならなかったものの、そこにあったのは苦悶の表情を浮かべる裕太の顔が、尋常ではない痛みがあったことを物語っていた。


 で、あるというのに。私の無事を確認した彼は、よかった、と。ある種の狂気を孕んだように、笑ったのだ。自身の惨状を、気にもせず。


 直樹も、そんな裕太の姿は知っている。だからこそ、やめてほしいと、そう思いはする。

 しかし、その一方で。私も、直樹も。そんな彼の行動に助けられた張本人で。強くそれを非難することができない。

 そして、彼がどうしてそんなことをするのか、という。その理由も知っているから、なおのこと。


 また、もうひとつ厄介なのが。これを彼自身が自己犠牲だと認識していないこと。

 ……いや、厳密には認識自体はしているかもしれない。けれども、行動に移るとき、彼の頭の中からそのことが抜け落ちる。

 そうして、気づいたときには助けるために動いているし、あるいは既に助けた後なのだ。


「結果的に、なんとかなってるからって。それがこれからもそうだとは限らないじゃん……」


 絢香ちゃんのことを助けたのも、そんな彼の性格が幸い、あるいは災いしてのことだ。

 どうにか助かったからよかったものの。万が一のことを考えると、心臓が張り裂けそうな痛みを感じる。


 私も直樹も、そんな彼を守ろうとして、動いてはいる。

 けれど、裕太のその性分から、問題が起こったときにそんな彼を引き止めるというのは現実的に難しく。だからといって、問題から切り離すというのは至難を誇る。

 で、あるならばそんな彼が抱えている、根本の方の理由を取り去ればと。そう思わなくもないのだが。現状上手くいっていない。……いって、いなかった。


 私や直樹がどう頑張ってもどうにもできず、対処療法的な手しか尽くせなかったそれが。寛解とは言わないものの、マシになってきている。

 実際、今回も裕太は助けるために走ったが。……以前のことを思えばその動き出しはやや遅く。以前ほどまで、自分を顧みない行動とは言えなくなっていた。


「……これを、喜べればよかったんだけど」


 おそらく、直樹に今日のことを伝えれば。複雑に思いはするものの、しかし裕太のその変化を喜ぶことだろう。

 少しずつ、改善に向かっているということを知って。


 そして、それを直樹は絢香ちゃんの影響だと考えるだろう。

 それは間違っていない。というか、まさしくそのとおりだ。


 絢香ちゃんが裕太に関わるようになってから、彼の周りの環境が大きく変わった。

 その結果。裕太の中に自分自身を大切にするという選択肢が生まれた。


 直樹の視点からでは伏せられている情報が多いために、若干の誤解が混ざった認識をするだろうが。しかし、それでも直樹の考え自体に間違いはない。

 だからこそ、直樹は喜ぶことだろう。


 だがしかし、私はそれを、純粋には喜べない。

 そこに、別に絢香ちゃんへの嫉妬があるとか、自分自身の恋情を焚べているとか。そういうことはない。


 代わりにそこにあるのは、直樹の視点からでは見えず、私の視点から見えている問題。


 湧き上がってきた感情に、ぞわりとした悪寒を感じるとともに、その感情を無理矢理に押しつぶす。

 まだ、まだだ。まだ判断には早い。浮かんだ考えを、そう必死に否定して。そんなことはないなずだと、思考から追い出す。


 しかし、私的な思い入れくらいしかその考えを否定する材料がなく。すぐさま戻ってきては、考えを圧迫する。


「やっぱり、絢香ちゃんは」


 早まるな、と。そう押さえつけよつとするものの。しかし、だんだんと確度が上がってくるそれに、止める力も緩んでくる。

 信じたい気持ちも、だんだんと揺らいできて。


 ギリッと、私は小さく歯ぎしりをして。


「お願いだから、心配させないで。……信じさせて」


 そんな想いを抱きながら、私の意識はまどろんでいった。

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