#75 物語はまだ終わらない
「あー、疲れたー!」
ひとしきりお祭りも終わりを迎え。自宅に入るや否や、美琴さんがリビングのソファに向けてダイブする。
ボフン、という音を立てて少し跳ねたそれに小さく息をつきながら、俺も同じくリビングに入室する。
「でも、いろいろとやることが終わってスッキリした! ついでに今年は利益もめちゃくちゃ出たしね!」
ソファの肘置きからずずいっと頭を出してきた美琴さん。その表情はまさしく満面の笑みで。俺自身は販売には携わっていなかったため具体的にどれほどの売上だったのかは知らないのだが、しかし、その表情だけで成果の大きさが伺える。
まあ、それについては村岡先生の様子からも想定できていたことではあるのだが。
屋上の鍵を返しに行った際、それはそれは面倒くさそうに、生気を半分喪ったようにしながら作業をしていた村岡先生のことを思い、俺は少し申し訳なくなる。
本来経理担当が部員の中にいればその人が手伝うべきなのだが、ほぼ幽霊部員で構成されており、なおかつ普段から原則支出も収入もない手芸部にそんな人員いるわけもなく、仕方なく村岡先生が引き受けていたのだった。
手伝いを申し出ようともしたのだが。「普段サボってるツケが回ってきたと思っておくさ」といい、やんわりと断られてしまった。
「というか。しれっとついて帰ってきましたけど、美琴さん、帰らなくていいんですか? まあまあにいい時間ですよ?」
文化祭があり、片付けがあり。そしてやや遅れはしたもののきちんとやって来た直樹のメイド服撮影会もあり。その影響もあってか、今日の帰宅時間は遅くなっており、家についた時点で普段なら帰る時間になっていた。
それならばわざわざ家に寄らずにそのまま直帰してもよかった気もしなくはないのだが。俺がそう伝えると、美琴さんは首をコテンと傾けて、まるで俺がなにを言っているのかわからないとでも言いたげにしながら。
「帰るもなにも、今日は私、お泊りするつもりだよ?」
「……はい?」
なにそれ聞いてない。突然に告げられたその言葉に、頭の理解が追いつかない。
えっ、どこかで言われて、俺が単純に忘れちゃってた? でも、そんなことさすがに忘れないとは思うんだけど。
「ほら、ちゃんと両親の許可も取ってるよ! 裕太くんたちとお疲れ様パーティしたいから泊まってくる! って」
「あの、俺の許可は取りました?」
「……泊まっていい?」
やっぱり聞いてなかった。美琴さんの許可の取り忘れだった。
とはいえ、今回はちゃんと事前に両親の許可もあるらしいし、ここで変に帰してしまうとそれこそ美琴さんの家族に迷惑がかかりかねない。
幸い部屋なら余りがあるし、急に泊まるとなっても同居人こそいるものの家族は住んでいないので特段問題はない。同居人も、今ここで同じく話を聞いている絢香さんたちだし。
俺は大きくため息をつきながら、彼女の宿泊を許可する。……別に美琴さんが泊まること自体は問題ないのだが、事前に連絡をしてほしい。
子供のように喜んでいる美琴さんの後ろには絢香さんと涼香ちゃん。仲直りもキチンとできたようで、少し前まであったギクシャクとした空気感はしっかりと解けていた。
「……あれ、茉莉は?」
「ん、帰ってきてすぐに、用事があるって言って部屋に戻った」
涼香ちゃんのその答えに、珍しいと思いつつも納得をする。同居人ではあるが、あくまでそこはプライベートなので変に突っ込んだりはしない。
「それより、お疲れ様パーティ。楽しみにしてた」
「ええ、美琴さんからやりたいということはあらかじめ聞いていたので、準備は万端ですよ」
キュッと拳を握りながら、そう気合を入れる絢香さん。そういえばたしかに昨晩の夕食後、キッチンで仕込みをしていたが、そういうことだったのか。
「……うん? 絢香さんと、それから涼香ちゃんも知ってたの? このこと」
準備をしていた絢香さん。そして楽しみにしていたらしい涼香ちゃん。ということは、美琴さんの今日の計画については知っていたわけで。
サッと美琴さんに視線を遣ると、ほぼ同時に彼女も大きく顔を背ける。
どうやら、本当に俺にだけ、連絡を忘れていたらしい。
「それじゃあ、私も荷物をおいて着替えてきますね」
「ん、私も」
「あら、涼香も手伝ってくれるの?」
「……お姉ちゃんだけに任せてると、勝てない」
どうやら今日の一件で様々心情や環境が変わったらしく、涼香ちゃんが、ふんすと息を巻きながらにそう答える。
それじゃ、手伝ってもらおうかな。と、絢香さんがそう笑いかけながら、ふたり一緒に廊下へと出ていった。
しかし、お疲れ様パーティがあるのならば、なおのこと今日のうちに処理をしておいてよかったように思える。
こうして、絢香さんと涼香ちゃんも気兼ねなくやれたほうがパーティも楽しいことだろう。
「えっと、もしかして私も手伝ったほうがいいのかな?」
「んー、それは自己判断、ということで」
正直、家事をやってくれたから、といって俺からの評価が大きく変わるかといえば違うのだけれども。しかし、この場において手伝わないという選択肢が、なんとなく居心地が悪いのはよくわかる。
俺も同じくそう感じているから。俺が手伝おうとすると絢香さんに止められるので控えているが、俺自身できるものなら手伝いに行きたい。
なんせ、めちゃくちゃに申し訳なく感じるから。
数秒ほど考え込んだ美琴さんは、すっくとソファから立ち上がると「……ちょうど、今日は持ってきてるし」と言いながらいそいそと廊下へと出ていった。
直前、空き部屋の場所を伝えたので、そのままそこに荷物も置いてくることだろう。
パタンと扉が閉じられると。同時、シンと部屋の中が静まり返る。
先程まではそこそこに騒がしい室内だったのだが、突然にひとりになり、少しだけ寂しくも感じた。
「……まあ、すぐに誰かしら戻ってくるだろう」
そう思いながら俺はさっきまで美琴さんが横になっていたソファに腰をかける。テレビをつけようかどうかと考えていると、ズボンの中からヴー、ヴー、ヴーと振動と音がした。
「メッセージか。……直樹あたりから今日についての抗議文でも届いたか?」
俺は絢香さんたちと話していた都合、直樹のメイド服についてはあまり関与できていなかったのだが、それはそれはめちゃくちゃに遊ばれていたらしかった。
美琴さんから写真は見せてもらっていたのだが。ちゃんと似合ってはいる一方で、抵抗しようとする直樹自身の立ち居振る舞いや態度がどうしても男っぽいために、なんとも言い難い、面白い撮影会になっていたらしい。
「うん? 直樹からじゃないな。じゃあいったい誰から――ッ!」
その差出人の名前欄を見て、俺は慌ててそれを開く。
その内容は、今日の夜中から明日の朝くらいの間に帰宅します、というとても簡潔なもの。
俺に向けて、帰宅、という表現を扱う人間は少ない。やや変則的に茉莉や絢香さん、涼香ちゃんも使いはするが、彼女たちは現在既に家にいる。
「……そういうことは、もっと早くに連絡してくれないものかな」
美琴さんといい。そういうものにはこちらにも準備というものがあるわけで。
たしかに、この家の家主が誰なのかという話をすれば至極当然の権利なのではあるのだが。
「久しぶりに帰ってくるのか。父さんと母さん」
「裕太くんのお父様とお母様が?」
「うん。本当に急で申し訳ないんだけど、帰ってくるらしい」
早々にメイド服に着替えて戻ってきた絢香さんと涼香ちゃんに向けて、先程届いたメッセージの内容を伝える。
ご両親にご挨拶を! と、一瞬喜びかけた絢香さんだったが、すぐさまハッとした様子で落ち着き、
「どうしましょう。それなら、私たちも一時帰宅したほうがいいんでしょうか?」
と。少し困り顔で尋ねてきた。
「いや、大丈夫だよ。どこかの誰かさんの優秀な根回しのおかげで俺の両親もこの状況のことを把握してるし。それに急に帰ってきたのはあのふたりの方だから、みんなを帰らせろって言ったら俺が両親を追い出す」
「えっと、別にそこまでして頂かなくても大丈夫ですよ?」
申し訳なさそうに言う絢香さんだが、しかし、こればっかりは俺としても譲れない。
事前の連絡があっての話なのならば別にいいのだが実質当日の、なんなら数時間前とかいうレベルで突然に連絡してきて。なおかつ、事情を知らないのならともかくしっかりと認知もしている状態での話である。
いくら正当な家主が両親ではあるとはいえ、そのあたりの筋は通してほしい。
まあ、別にあの両親のことだから。そもそも帰らせろなんてことは言わないと思うが。
なお、俺の発言の中にあった優秀な根回しという単語のおかげで満足そうにしている涼香ちゃんがいるが、それ、皮肉で言ってるぞ?
「まあ、想定外とするならば美琴さんも泊まっていることだけど。まあ、誤差だろ」
「そんな、人のことを誤差なんて酷い言い方をするなあ」
ちょうどのタイミングでガチャリと扉が開き、クスクスと笑いながらメイド服姿の美琴さんが入ってくる。
どうやら話し声は聞こえていたようで、彼女も今どういう状況なのか把握してくれているようだった。話が早くて助かる。
「そういえば、茉莉にもこの話を伝えたいんだけど、遅いなあ」
涼香ちゃん曰く、なんらか用事があるらしいのだが。しかし、彼女としても俺の両親が帰ってくるという話については事前に知っておきたいことだろう。早めに伝えておきたいところなのだが。
そんなことを思いつつ呟いていると、なぜか美琴さんがクスクスと小さく笑い始める。
「どうかしました?」
「ううん。なんでもない、こっちの話だよ」
笑いを堪えている様子の美琴さんに、しかし俺の理解が追いついておらず、首を傾げるしかできなかった。
「いや、まあ、大丈夫だよ。私も聞こえていたんだから、茉莉ちゃんも聞こえてるはずだよ」
「……ええっと、それはどういうことです?」
「うーんとね、こういうことだよ」
ニヤリと美琴さんは笑うと。少しだけ廊下の方に向いて、大きめの声で「聞こえてたよね? 茉莉ちゃん」と。
その瞬間、廊下側から「ひゃんっ!?」という、かわいらしい声が聞こえてきて。
どうやら、そこに茉莉がいるらしかった。
「……いつからいたんだ?」
「うーんと、私がここに来るよりも前にはいたかな。絢香ちゃんたちは知らなかったみたいだから、ふたりが来てから、私が来るまでの間、かな」
なるほど、たしかにそれならばここまでの話を聞いているはずである。
だがしかし、それならばどうしてリビングに入ってこずに廊下にずっといたのだろうか。特段俺と絢香さんたちとで変な話をしていたわけでもないため、盗み聞きなんかもする必要もないだろうに。
不思議に思いながら彼女がいるらしい廊下の方へと近づくと、どうしてか扉越しに彼女の声が飛んできて「まっ、待って!」だの「まだこっちに来ないで!」だの。
訳知り顔の美琴さんだけがニヤニヤと面白そうにしているのだが。……どうやら教えてくれる気はないらしい。
「じゃあ、どれくらい待てばいいんだ?」
「ええっと、それは……」
別に今すぐトイレに行きたいとかそういう事情はないのだが。しかし、私室と違って廊下は共有スペースなわけで。
俺の投げかけた言葉にしばらく悩みこんだ茉莉は「わかったわよ、開けていい、開けていいから!」と。半ばヤケになりながらにそう言ってくる。
「それじゃ、開けるぞ」
「やっ、やっぱり待っ――」
再び静止をかけてこようとして茉莉だったが、もう遅い。
ガチャリと捻られたドアノブ、力のかけられたドアは既に開かれていて。
それを引き止めようとした茉莉が、飛び込むようにしてこちらに駆けてきて。しかし、彼女が頼りにしていたドアは、既に開かれており。思わず、体勢を崩す。
慌てて彼女の身体を受け止める。ううう、と唸っている茉莉だったが、怪我などはないようだった。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫。大丈夫だけど」
そう言うと、茉莉は一気に顔を真っ赤に染め上げて、そして俺の顔に向けてその両手を突き出しながら。
「み、見ないでっ!」
「おいっ、落ち着――」
顔面にクリーンヒットしたそれは、そのまま俺の身体を倒れさせる。
同時、俺に支えられていた茉莉の身体も同じくそのまま倒れ込んでくる。
「痛っ……おい、大丈夫か? 茉莉」
「ああっ、ごめん! その、でも、えっと……」
「あー、その、とにかく落ち着け。……たぶん、お前が慌ててる理由ならわかるから」
俺はそう伝えながら、そっと視線を外しておく。
おそらく、彼女が気にしているのはそれだから。
「しかし、どういう風の吹き回しだ? 急にそれを着る気になったって」
「ううう……」
普段の彼女からは考えられないほどに弱った声を出しながら、茉莉は俺の上で縮こまる。
あの、別に縮こまるのは構わないんだが、ひとまずそこから降りないか? 俺が動けないんだが。
「まあ、なんというか。以前にも言ったし、なんなら今朝も言った覚えがあるが。……似合ってるし、かわいいと思うぞ」
と。俺は、メイド服姿の茉莉に向けて、そう伝えた。