#73 孤独を埋めたもの
「……予想はしてた。というか、案の定だった」
「まあ、気づいていないんだろうなあ、とは思ってましたが」
涼香ちゃんと絢香さんから、苦笑いと温かい視線が送られてくる。
余計にいたたまれなくなってくるからやめてほしい。いや、俺の責任なんだが。
「ちなみに、気づいてなかったのは裕太さんだけ。……不本意ながら、茉莉や美琴さんにもバレてた」
「……そっかー」
本当に自分自身が惨めに思えてきた。
「うん。……やっぱり、思ってることは、キチンと言わないと、伝わらない」
フンフンと首を縦に振りながら、涼香ちゃんはそう言い。併せて「あとは、茉莉だけ」と、どうしてか彼女の名前を挙げた。
「とりあえず、返答についてなんだが。絢香さんや美琴さんと同じく、まだ保留にさせてもらってもいいか?」
「問題ない。むしろ、そうじゃないと勝ちの目がない」
ここまで全力でアピールしてきたふたりに対して、絢香さんを優先するが故に控えてきた涼香ちゃんとでは、たしかに俺に対する印象の大きさで差があるだろう。
「美琴さんには伝えてるけど、今年中にはなんとか決めるつもりだから。……だから、待ってて欲しい」
「うん、わかった」
涼香ちゃんはコクコクと頷いて了解してくれる。
そしてそのまま彼女は絢香さんへと視線を向け直し「それはそうと」と。
「お姉ちゃんは、いつまで裕太さんを待たせてるの?」
「……ふぇ?」
突然、そんなことを絢香さんに向けて投げかけた。俺はもちろん、絢香さんにとってもこれは想定外だったらしく、彼女は間の抜けた声を出してしまう。
しかし、俺が絢香さんから待っていること? ……あまり、思いつきはしないのだが。
「これは妹としての、家族としての意見だけれども。……お姉ちゃんのアレについては、裕太さんになら話していいと思う。というか、ここまで踏み込んでもらっちゃってるんだから、共有しておくべきだと思う。……どのみち、来月末のことを考えると、念の為に伝えておいたほうがいい」
「…………来月末。修学旅行、ね」
絢香さんのその言葉に、涼香ちゃんがコクリと頷く。
そういえばそんなイベントがあったな。……あまり気にしていなかったからすっかり忘れていた。
「でも、やっぱり――」
「大丈夫。裕太さんがソレを知ったところで、お姉ちゃんから離れたりしないってお姉ちゃんもわかってるはず。……むしろ、お姉ちゃんのほうがわかってるはず」
アレを乗り越えてくれたのだから、と。彼女はそう言いながら絢香さんに向けてなにかを説得する。
「修学旅行中は、私からじゃなにもできない。……それこそ、校外レクのときみたいに」
涼香ちゃんのその言葉で、いったいなんの話をしているのかを察する。
校外レクで起こったこと。そして、万が一に修学旅行で起こったときに、問題が発生しうること。
キュッと手を握りしめて、覚悟を決めたのだろう。
絢香さんはこちらを見つめながらに、ゆっくりと口を開く。
「……裕太さんは、私の被虐のことを覚えていますか?」
「まあ、なんというか。忘れろと言うなら努力はするが、そのほうが難しいとは思う」
「いえ、それは大丈夫なんですけど。その……」
やはりどうも、言葉には詰まってしまう様子で。絢香さんの中では言うべきことだという認識はあるものの、しかしどうしても踏ん切りがつかない、と。そのような雰囲気が感じ取れた。
「あのときも言ったけど、言いたくないのなら俺は別に構わないよ。絢香さんの中で整理がついたタイミングで――」
「いえ。しかし、涼香が言っていることも事実です。それに、裕太さんのその言葉はとてもありがたいんですが、その一方でずっと甘えてしまいそうな、そんな予感もしていて」
遮るように被せてきたその言葉は。つまり、今は優しさを見せないでくれ、ということだろう。
その言葉に、従ってしまいそうになるから。優しい方に、逃げたくなるから。
「……わかった。なら、聞かせてもらってもいいだろうか」
「はい」
絢香さんはそう言うと、2、3度ほど大きく深呼吸をする。隣にいる涼香ちゃんは、真っ直ぐな視線でそんな彼女を見守る。
一瞬開きかけた口がやはり一度閉じて。しかし、今度はゆっくりとではあるものの、開く。
「裕太さんもご存知かとは思いますが、私は極端な寂しがりです」
「……ああ」
それは何度も思い知ってきた。校外レクのときもそうだし、直近だと同衾したときもだ。
他人事とは思えないその事情に、ほんの少し、握る手に力が入る。
「両親は仕事で忙しく。そして、そんなふたりの邪魔もしたくなかった」
「…………」
もちろん、真一さんや香織さんが絢香さんに対して関わり合いを断っていたわけではない。真一さんの話を思い起こす限りでは、彼らは忙しいながらに歩み寄ろうとしていたはずだ。
だが、それ以上に。彼女にとって両親の負担になることは嫌だったのだろう。そうして、彼女はひとり抱え込んでしまった。――けれど、
「しかし、まだ小学生だった私には寂しさを堪える忍耐も、それを埋めるための知識もありませんでした」
今でこそクラスメイトたちに慕われている絢香さんだが、当時の彼女はあまり他者との付き合いが得意ではなく、クラスの中でも孤立気味だったそうだ。
少々信じがたいことではあったが、しかし嫌なものでも見たかのようにそっと目を伏せる涼香ちゃんを見る限り、その言葉に嘘はないのだろう。
「そんなさなか、私の周辺環境に大きな変化が起きました。……イジメが起こったんです」
あまり社交的な性格ではない絢香さんではあったが、当時から成績や運動は非常に優秀で。それでいて彼女の出自が変わるわけもなく、財閥令嬢。
良くも悪くも、目立ったのだ。そうして出た杭を疎ましく思った人間がいた。
なぜあんな根暗人間が俺より出来るのだ。という、言ってしまえばただただ理不尽な、向け先の間違った怒りではあったのだが。
しかし、そんなイジメが運命を奇妙に歪ませた。
「嬉しかった。構ってもらえたことが」
当然、今の絢香さんはそれがイジメだと言うことは理解している。だがしかし、当時の絢香さんからしてみれば最高のタイミングで。傍から評価するのであれば、最悪のタイミングで。彼女はイジメられてしまった。
孤独を埋める手段を識らず、模索している途中で受けたイジメ。
それはまさしく、絢香さんにとっての解法として目の前に現れてしまった。
「他者から暴力を受けている間は、間違いなくその意識、怒り、嫌悪は私に向いてくれている。……とても、とても心地が良かったんです」
そう告げる彼女の表情は、悲しそうで、苦しそうで。とても幸せそうだった。
きっと、初めてイジメられたときの絢香さんも、そんな感情だったのだろう。
「幸い、私には演技をする才能があったようで。上手にイジメてもらえるように演技をするようになりました。……もっとも、今からしてみればそれもただの逃げでしかなかったんですけど」
他人から愛されるよりも、他人から嫌われる方が圧倒的に簡単であり、なおかつ即効性がある。
孤独に喘いでいた彼女にとって、愛されるまでの努力や時間は堪えがたく、嫌われる方が手っ取り早かったのだ。
「……そして、しばらくして。やっと、私が気づいた」
そう口を開いたのは涼香ちゃん。一緒に入った風呂で、彼女の身体に残っていた痣に気がついたのだ。
真一さんや香織さんがそのようなことをするわけもなく。問い詰めた末に、絢香さんがそのことを話した。
当然涼香ちゃんはそのことをやめるように絢香さんに説得。しかし、やっと見つけた寂しさの紛らわせ方を奪われそうになった絢香さんは、
涼香ちゃんに向けて、被虐の演技を使った。
「そうして、自分の意識を取り戻したとき。目の前には倒れたお姉ちゃんがいた。……私の拳は、嫌に痛んだ」
それが、姉を殴ったからだということを認識するのに、さほど難しい思考は不要だったろう。
自己嫌悪に陥りそうになった涼香ちゃんに、絢香さんは不気味に笑って「大丈夫、それでいいの」と。
嫌悪を呼び覚ますその表情に、涼香ちゃんは姉の底知れぬ演技力を思い知り。
同時に、なんとかしてこんなことをやめさせないといけないと、と。守るための、決意をした。
「それから、お姉ちゃんには外行きモードの演技を仕込んで。対外的な対応ができるようになってもらった」
小学生の頃にあったような嫉妬は、彼女の立ち居振る舞いがしっかりしたこともあってか、中学になる頃には、次第に尊敬や憧れといったものに入れ替わっていき。絢香さんがひとりぼっちになることは少なくなった。
「それでも、不意に被虐が起こることは無くはなかったけども。それでも、かなり抑えられた」
でも、ゼロじゃない、と。悔しそうに涼香ちゃんはそう言った。
特に涼香ちゃんが近くにいる間は、ある程度についてはなんとかカバーできるのだが。それこそ以前の校外レクのときなんかのような必然的に離れざるを得ない状況になったとき、絢香さんのそれは一気に発動しやすくなってしまう。
「だからこそ、裕太さんにはキチンと知っていて欲しかった。……お姉ちゃんの、ことについて」
間もなく来る修学旅行は、以前の校外レクとは更に違い、本当に涼香ちゃんの介入が不可能になる。電話などはできなくはないが、それでも物理的な距離というのは圧倒的だ。
「わかった。可能な限り、力になるよ」
俺にできることなど、それほど多くはないだろうが。しかし、あのときもように隣に立ち、ただそこにいるだけであれば、できる。
「……むしろ、裕太さんじゃないとできない。あのお姉ちゃんの横で、ただいるだけ、をできる人を、私は他に知らない」
それは、そうなのかもしれない。
で、あるならば。なおのこと責任重大だろう。
「その、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします……」
消え入りそうな声で、申し訳なさそうな顔で。絢香さんはそう言ってくる。
その答えなど、当然とばかりに決まっていて。コクリと頷くと、彼女の手を取った。
今の絢香さんは、あの被虐がよくないことだということをよく理解している。それでも、やってしまうことがあるのは、それほどに追い詰められてのことなのだろう。
ならば、友達として、事情を知るものとして。そして、同居人として。彼女のことを支えるべきだろう。
「ん、言ったとおり。裕太さんなら、事情を言っても受け入れてくれる。むしろ、理解があるぶん、動きやすい」
「そう、だね。……裕太さんも、待たせてしまって、すみません。私の踏ん切りがつかなかったために」
ペコリと頭を下げる絢香さん。そんな彼女に俺は少し苦笑いをして。
「大丈夫だよ。……あれほどのこと、そうやすやすと話せないのもわかるし。あの頃はまだ出会ってから日も浅かった。信用が不十分だというのも理解してる」
それが。……たとえ、もうすぐ修学旅行があり、そのために知っておくべきだという事情があったとしても。絢香さんが話してくれた。
彼女にとって、俺が信用に足る人物になれたのだとそう思うと。ほんの少しだけ嬉しく思える。
「しかし、それにしても……」
そう小さく呟いて、握った彼女の手をそっと見つめる。
そんな俺の様子を不思議そうに見つめる絢香さんに、なんでもないよ、と伝えて。
心の中で、思う。
本当に、よく似ているものだな、と。
俺と、絢香さんの。そのふたりが。