#56 優しさの理由
キィィッ、と。音が鳴った。
横になりながら頭と身体を休めようとしていると、扉が少し軋みながら開く。
「…………」
一瞬絢香さんかと思ったが、どうやら違うらしい。絢香さんならこの時点で言葉のひとつでも発していそうなものだ。
ゆっくりと身体を起こしながら入り口に視線を向けると、そこには涼香ちゃんがちょこんと立っていた。
「どうしたの? 涼香ちゃん」
「その、えっと。……お見舞い」
なにかバツの悪そうな様子で、涼香ちゃんは少し俯きながら部屋へと入ってくる。
その手には、換えの氷枕であるとか、そういったものが桶に入れられて抱えられており。たしかに彼女がそのために来てくれたのだということがわかる。
普段はどちらかというとダラッとしているイメージの多い涼香ちゃんだが、改めてこうしてお世話をしてくれているのを見ると、少し感慨深くなる。
「体調の方は、どう?」
「おかげさまで。随分と気分が良くなったよ。まあ、真一さんには大事をとって今日一日は休んで行きなさいって言われたけどね」
「ん。そのほうがいいと思う」
茉莉や美琴さんには、絢香さんから連絡をしてくれているそうで。ひとまず気にしなくてもいい、とのことだった。
とはいえ心配はかけたことには違いないだろうから、一連の事柄云々に収拾がついたらなにかお詫びを考えたほうがいいだろう。
もちろん、絢香さんと涼香ちゃんたちにも。
「そういえば、ありがとうね。たしか、涼香ちゃんが俺のことを助けてくれたんだろ?」
「それはそうだけど、お礼を言われるようなことじゃない。……あそこで助けないほうが、どうかしてる」
まあ、それはそうかもしれないが。
目の前で急に人が倒れたのだから、余程のことがなければ助けようとするのは、たしかに普通のことだ。
「でも、そうであったとしても。やっぱり、ありがとうね。それから、ごめんね。随分とびっくりさせちゃったよね」
「…………」
俺がそう伝えると、涼香ちゃんは黙りこくってしまった。昨晩のアレは彼女にとって余程ショッキングなことだったのだろう。
まあ、俺だって同じくそう感じるだろうし、それを引き起こした張本人なのでなんとも言い難いのだが。
「それはそうと、涼香ちゃんも体調が悪かったんじゃなかったっけ? 大丈――」
「裕太さんはっ!」
俺が、そうやって声を掛けようとした瞬間。強い語調で涼香ちゃんに遮られる。
「……裕太さんは、どうして私に優しくしようとするの?」
「えっ?」
俯いたまま、殴り書きをするかのようにそう言い放った涼香ちゃん。怒りか、あるいはヤケか。そういった感情がのせられたその言葉に、思わずそんな所在のない反応をしてしまう。
そんな戸惑いの言葉を俺がもらしていると、彼女は下を向いたままでポツポツとこぼし始める。
お仕事するからメイドとして家に置いてっていったくせに、基本的には仕事もしない。
自分本位か姉本位で動いてる都合、迷惑をかけてしまうことが日常茶飯事。
特段これといって可愛げのあるようなことを言ったりやったりできるわけでもない。
それなのに、それなのに、と。
そして。なにより、と。
「お姉ちゃんや、美琴さんみたいに。裕太さんのことを好いてくれている人がいるのに。私なんかに向けるより、そういう人に優しさを向けて、いい印象を持ってもらうほうが、いいんじゃないの……」
まるで、なにかを諦めたかのようにそうつぶやく涼香ちゃん。
たしかに、彼女の普段の行動について。仕事をしているのはほとんど絢香さんで、茉莉や美琴さんがそれを時折手伝っている。
涼香ちゃんはその代わりにと、稀に絢香さんと茉莉の服を作ってくれたりしているが、逆にいえばそれだけで、俺に対して直接的になにか利益があるかといえば無い。
迷惑云々に関していうなら。まあ、たしかに微塵もかかっていない、とは言わない。
最終的に今現在そこそこ纏まりよくなっているからいいものの、最初の頃、茉莉に俺のことや自分たちのことを伝えたときのことを思えば、なにをやっているんだ! と、言いたくなったこともある。
けれど、
「……うーん。難しいことを考えるのは無しにして、ただ単に俺が涼香ちゃんと仲良くしたいから、じゃだめなのか?」
「だから、それをするならお姉ちゃんや美琴さんのほうが――」
「涼香ちゃんだって、俺の友達だろ? もちろん、茉莉も」
名前は挙げなかったが、直樹や雨森さんだって。
「優しくするのがよく思われたい、好かれたいという下心あってのものだということについては。うん、認めよう。俺だってそういう気持ち無しに親切心を動かせるかといえば、たぶん無理だ」
もちろん、無関係の人が困っていたら手を差し伸べはするだろうけど。それ以上は――踏み込んでなにかをしたりということはしない。
それ以上を行うのは、ひとえにそこに俺自身の打算があるから。それは、事実だ。
だが、涼香ちゃんにはひとつ、大きな考えの誤りがある。
「俺が絢香さんや美琴さんに優しくするのは、彼女たちから好かれているからそれを返しているわけではなくって、友達として、彼女たちと仲良くしたいと思っているからだ」
それは、茉莉や直樹、雨森さんにしたって同じ話であり、そして。
「涼香ちゃん。俺は、君とも友達として仲良くしたいと思っている。……それが理由じゃ、だめかな?」
「――ッ!」
俺がそう伝えると、彼女はパッと目を見開いて。同時、サッと顔を背ける。
……あれ、もしかしてなにか変なことを言っちゃったのかな。
彼女は俺に顔を見せないままで肩を少しだけ震わせ、ポツリ、と。少しずつ。
「お人好し。朴念仁」
「うん、うん」
「お節介焼き、人たらし」
「うん、うん」
語られる、涼香ちゃんからの俺への評価に。目を背けることなく、しっかりと受け止める。
言葉そのままに受け取っていいものなのか少し困るものもあるにはあるが、しかし不思議と温かい感覚に包まれるようで、彼女からのその言葉が、嫌ではない。
「そんな、だと。いつか悪い人に、都合がいいように使われる」
「そうかもね。……それなら、そのときは涼香ちゃんが俺のことを止めてくれないかな?」
「そういう、ところ。……そのうち、誰かに刺されても、知らない」
あはは、それは洒落にならない。そうならないように肝に銘じておくことにしよう。
「……だから、さ」
今なら。少しだけ、なら。……大丈夫だろうか。
昨日の涼香ちゃんは、体調は随分と回復したと言っていた。そして今、こうして俺のところに来ているあたり、もう大丈夫だと、そう言ってきているのだろう。
だが、直感的に。おそらく、彼女の中にある根幹の問題が解決していないのだと、そう感じた。
絢香さんとのすれ違い。その正体、どこで、どうすれ違っているのか。その了見は俺にはついていないが、しかし。
……もし、それを絢香さんとの直接の会話では切り出しにくいのであれば、せめて俺が聞くことで少しなりとも改善できないだろうか、と。
「もし、なにか悩んでいることがあるのなら、聞くよ。……って、こんな状態の俺に言われても頼りないとは思うけど」
「頼りなくは! ……頼りなくは、ない。でも、大丈夫。……心配かけるようなことは、ない」
「……そっか」
嘘だ。仮に、いくら俺が鈍い人間であるとしても、これを言葉の額面そのままに受け取れるほどに鈍くはない。
だが、しかし。語りたくないものを無理に詰めることもできない。
これは。……また、択を見誤ったな。
なんとも言い難い、やりにくい空気に包まれたこの場に。俺も、涼香ちゃんも言葉を発しようとはせず。
ただただひたすらな沈黙が、香織さんがやってくるまでの間、ずっと続いた。
夜。新井家で過ごす、二度目の夜。
そうはいっても昨日は倒れてそのまま、という感じだったので。実際の体感としては初めての夜なのだが。
そして、その夜はというと。
「……眠れない」
緊張云々というところについては随分と解消されて。最初の頃に比べれば肩肘張らずに過ごせている、という意味合いでは眠れるかと思っていたのだが。
昼間に基本的に横になりつつ過ごしており。その際にややうつらうつらとしていたこともあってか、今現在、眠気が無い。
「どうしたものかなあ」
ポツリ、と。そうつぶやいてみるが、どうにもいい案が浮かばない。
体調不良者なのだから、おとなしく寝ていろというのはとてもよく理解できるのだが。せめて身体を休ませようと瞳を閉じてみるも、やはり眠れそうにない。
少しだけ、廊下を歩いてみてもいいだろうか。……いや、自分自身が方向音痴であるとは思わないが、それはそうとしてもこの家で下手に動いて帰れなくなっては困る。
誰かに付き添ってもらえば話は別なのだろうが、そのためにというのも申し訳ないし、仮にそういった相談をしたところで眠ることを優先しろと言われそうだ。
やはり、おとなしく眠るために努力する他ないのだろうか、と。そう思いながら再び目を伏せようとしたとき。廊下の方からとってってってっ、と。軽い足音が聞こえてきた。
誰かが、近くに来たのだろうか。そんなことを思っていると、再び、今度はタッタッタッタッと、別な足音が。
「………………」
「………………っ!」
扉越しなこともあってか、会話の内容は聞こえてこない。だが、なにか問題が起こって言い争っているような、そんな感じはあった。
いったい、どうしたのだろうか。ゆっくりと身体を起こして、ベッドから立ち上がる。
そっと、部屋の入り口の方に向かって歩き出そうとした、そのとき。涼香ちゃんらしき声が、なにか大きな声を出して。そして、そのままの勢いで走り去っていく音が聞こえた。
なにが、あったのだろうか。
そう思い、近づいたドアを開いて外を確認しようとすると。
「おっ」
「あっ」
ちょうど、目の前に絢香さんがやってきていて。危うくぶつかりそうになってしまっていた。
「すみません、起こしてしまって。うるさくしてしまいましたか」
「いや、元々あまり眠れそうになかったから、それは大丈夫なんだけど……」
正直、この場において。俺の睡眠がどうとかいうのは。もはや些末な問題でしかない。
それよりも、今優先すべきことは。
裕太さん、裕太さん、と。縋るように俺の名前を呼ぶ彼女の頭と頬を、優しく撫でて。
「とりあえず、入ってよ。絢香さん。それで、その……ちょうど俺も眠れなかったしさ。ゆっくりと、話を聞かせてよ」
「裕太さん。……私、どうすれば。私、いったいどうすれば」
目尻に浮かんだ涙。軽く啜る鼻。
文字通り不安と後悔に包まれた、という様相の絢香さん。その様相は、以前涼香ちゃんから拒絶されたときと同じで。
おそらく今回も、原因ではなくとも要因のひとつは、涼香ちゃん。彼女だろう。
しかし、今回はその程度が。感情の強さが、より強まっているようで。今にも堰を切って溢れ出しそうなそれは、現状耐えきっているのがむしろ不思議なほどだった。
おそらく、それが成し得ているのは。ついさっきまで、目の前に涼香ちゃんがいたからだろう。
で、あるならば。俺がしてあげるべきことは。
身体から力が抜け、こちらへと倒れ込んできた彼女を、そっと抱きとめる。
そのまま、ゆっくりと後頭部と背中をさすってあげると、彼女の我慢の紐が、少しずつ緩んでくる。
「うう、うぁ。……うわああああああああっ!」
俺の役目は。決壊するその感情の波を。拒むことなく、受け入れることだろう。