#55 それがいったいどれほど残酷だったか
「…………痛っ」
朝の日差しに照らされて、気がつく。
身体を起こそうとしてみると、頭に軽い痛みが走る。
同時、なにかが頭から落ちるような感覚がした。
「うん? 氷嚢か、これ」
よくよく周囲を観察してみると、そもそもここが自室じゃない。なんとなく、見覚えがあるような、ないような、そんな部屋の中。
えっと? いったいなにが、
「あっ、そうだ。昨日、帰ろうとしたときに意識を失って――痛っ!」
昨晩のことを思い出し、慌てて立ち上がろうとして、また頭が痛む。
ゆっくりと頭を擦りながら姿勢を楽にしていると、ガチャリと部屋の入り口が開いた。
「裕太さん、気が付かれましたか?」
「絢香さん。……ええ、なんとか」
お盆を持った彼女に、食べられそうですか? と、そう尋ねられるので、俺はコクリと頷く。
入ってきた絢香さんは、そのままサイドテーブルの隣に腰掛け、上に乗っていたものを机に並べる。
おかゆと、すりおろしのりんご。そしてスポーツドリンク。どうやら、随分と絢香さんたちに心配をかけてしまっていたようだった。
そうはいっても、現にこの食事をありがたいと思ってしまっている自分がいるため、なにも言えないのだが。
「ありがとう、絢香さん。それから、心配をかけてごめ――」
「裕太さん。その言葉は、だめです」
告げようとしたその言葉を、直前で制止される。
俺がキョトンとしていると、彼女は落ち着いた様子でこちらを向きながら、話しかけてくれる。
「おそらく、夏バテと過労、とのことで。もちろん、確定でそうだとは言えないんですけど、でも、とにかく今は身体と心とを休めることに集中してほしくて」
だから、変に気に負ったり、申し訳なく思ったりしないでください、と。
彼女は、そう言ってくれた。
「わかった。それならば、その言葉に甘えさせてもらおうかな」
「ぜひ。なにかあったら言ってくださいね! そして。元気になったら、謝罪の言葉ではなく、感謝の言葉で伝えてもらえたら、とても嬉しいです」
絢香さんはとても良い笑顔で、そう伝えてくれる。
緊張が解けたから、あるいは張り詰めていたものが切れてしまったからか。おそらくは隠れていた疲れが実体となってどっとのしかかっているのだろう。正直、現在身体を動かすのも若干億劫というような状況のため、絢香さんのこの申し出に関しては、とてもありがたい。
「しかし、それにしてもありがとう。ここまでしてくれて」
「いえ、なにを隠そう、私は裕太さんのメイドなので。これくらいは当然ですよ」
彼女はそう言って、ニッと笑って。
しかし、一瞬、その表情が暗くなって。
「そう、私たちは、裕太さんのメイドなので。……当然です」
と。なにかを確認するかのように、彼女はそう呟いていた。
しかし、まるでその翳りが気のせいだったかのように、彼女は表情をパッと戻して、
「そうだ! せっかくですので、私が食べさせてあげますね!」
と。
……うん? なんて?
俺がキョトンとしていると、絢香さんは木製のスプーンを手に取り、お粥をひとすくいする。
そして、丁寧に口元で息を吹きかけ、冷ましてから。
「はい、どうぞ!」
「いや、さすがに自分で食べられるよ!?」
差し出されたスプーンに、思わずそう言ってしまう。同時、ちょっと大きな声を出したこともあって、頭が少し痛くなる。
「ほら、やっぱりまだ万全というわけではないわけですし! 遠慮しなくっていいですから!」
俺が頭を押さえているのを見た絢香さんが、ここぞとばかりにスプーンを差し出してくる。
だから、恥ずかしいんだって。
いやまあ、自業自得ではあるんだが。
しかし、遠慮をしないで、か。
なんというか、その言葉にストンと納得がいく。
……昨日、遠慮せずに絢香さんや真一さんの言葉を受け入れていれば、こうはならなかったのだろうか。
遠慮をしない。必要なときは、しっかりと頼る、か。
こうなったら、もう、受け入れる他ないか。……ものすごく、恥ずかしいが。
「ほら、あーん」
「あ、あーん」
できるだけ絢香さんの顔から視線をそらしながら、口を開けると、彼女はゆっくりと口の中にスプーンを運んでくれる。
特になにかがつけられているというわけではないが、程よく塩味がついていて、とても食べやすい。
ゆっくりと嚥下をすると、既に息を吹きかけつつ、次の準備を進めている絢香さん。
ええっと、その……、
いや、これはもう、ダメだな。そう確信して、俺は覚悟をした。
「はい、裕太さん。あーん」
「あーん……」
だんだんと味がわからなくなっていったが、それが体調が悪いからではないことは明らかだった。
裕太さんに朝ごはんを食べさせてあげたあと、それらを引き上げてキッチンで洗い物をしているとき。
とってってってっ、と。軽い足取りで涼香がやってきた。
「あっ……」
「お姉ちゃん? 私の顔を見つめて、どうかしたの?」
昨晩のことを思い出してしまっていた私は、どうやら意識外に彼女のことをジッと見てしまっていたようで。
顔になにかついてる? と、彼女はそう尋ねてくる。
「ううん! なんでもないよ」
「そう。それならいいけど。……お姉ちゃん、なんかちょっと変」
私の反応が若干過剰気味だったからから、涼香はジトッとした視線でこちらを見つめてくる。
アハハ、と適当に笑いながら誤魔化していると「まあ、いいか」と。とりあえずはスルーしてくれたようだった。
涼香はそのままキッチンにある冷蔵庫に向かうと、中から牛乳を取り出し、コップに注いでいた。
「そういえば、裕太さん大丈夫そうだった?」
「うん。とりあえず、気がついたみたい。身体のダルさが抜けきってなかったり頭がまだ若干痛いみたいだけど、それ以外については問題なさそうだって」
そう伝えると、そっか、と。ぶっきらぼうに彼女はそう言った。
だが、その表情がその言葉遣いに合っていない。少し、頬が緩んでいるその様子は、安心と嬉しさが混じった表情に見えた。
それ自体は、なにもおかしくないはずなのに。
ただ、友達の体調の回復を喜んでいるだけなのに。
この、心の中に浮かんでくるざわつきは、いったいなんなのだろうか。
チリチリと焼けるような痛みに、眉をひそめながら考えていると、再び涼香が首を傾げる。
「やっぱり、私になにか気になることがある?」
「えっ!? あ、ごめんね。ちょっと、考え事をしてたから」
「……裕太さん絡みのこと? 相談してくれたら、なにか手伝えることあるかもだけど」
裕太さん絡みのこと、か。たしかにそうだし、若干違うとも言える。
相談、というか、涼香に聞いてしまいたい。私のこの気持ちのことを。
だけれども、それを聞いてはいけない気がする。少なくとも、涼香には。
「ううん、大丈夫。これはたぶん、自分で解決しないといけないことだから」
「……そう、なの? なら、わかった」
コクリと頷いた彼女は、コクッコクッ、と牛乳を飲み干す。
コトッと、机に置いたコップ、もう飲まないなら一緒に洗ってしまうから持ってきて、と言うと、彼女はそれを持ってきてくれる。
涼香からコップを受け取って、それを洗い始める。
ジャーッという水道の音越しに、少しだけ涼香の様子を観察する。
以前、涼香の様子が変だったときと同じく。やはり1日経った今日の彼女は、どうやら元に戻ったようで。
彼女自身の言うとおり、やはり疲れているだけ、なのだろうか。それにしては、なにか違和感があるような気がするんだけれども。
コップをしっかりとすすいでから、水切りに置く。
もう少し、しっかりと確認してみると、どうやらなにかソワソワしているような、そんな気がする。
「……ねぇ、涼香。もしかして、裕太さんの様子が気になってるの?」
「えっ!?」
蛇口をキュッと締めて、タオルで手を拭く。
この反応は、図星ということでいいんだろうか。
驚いた様子の涼香の隣に座り、優しく笑いかけてみる。
「いや、なにかを気にしてるような感じがしたし。昨日の涼香、結構裕太さんのことを心配してたし」
「そんなこと、そんなこと……」
ぐるぐると、彼女の中で思考が揺れているのが見て取れた。
キュッと目を瞑って、涼香は「……あるかも」と、小さな声で、そう言った。
「それなら、裕太さんの様子を見てきたらどう? 私から伝聞で聞くよりも、そっちのほうがわかりやすいでしょ」
「……それは、たしかにそうかもしれない」
「そのまま、アレだったら裕太さんの看病もしてきたら? 裕太さん、喜ぶかもよ?」
……ちょっとした、カマ掛けのつもりだった。もし、これに関して昨日の夜にもした、というようなことを言ってくれれば、なんとなく私の中の気持ちの正体に気づけるような、そんな気がしたから。
だけれども、
「――ッ!」
この反応は、想定外だった。
私は、この表情を知っている。この表情の名前。そして、それが意味することを、知っている。
……涼香がこの表情をしているのは、初めて見たけれど。
顔を真っ赤にして、目を見開いて。
そっか。そっか。……涼香も、そうなのね。
「看病は、お姉ちゃんがしたほうがいい。そっちの、方が、裕太さんによく思ってもらえるかも、しれないし……」
「…………」
仮に、私の予想が正しいとすると。涼香のこの言葉は彼女の本意ではない。
きっと、涼香の本音は。裕太さんの看病をしたい、だろう。
「涼香だって、してもいいんじゃないかな。だって、涼香もメイドでしょう?」
だから、私はあくまで私たちの立場を提示した。姉と妹という、関係性ではなく。私の想い人と、姉の想い人という、関係性ではなく。
「それも、そうかも。……でも、ちょっとだけ考える」
涼香はそう言って、バッと逃げるように廊下へと出ていってしまった。
そして、食卓には私ひとりだけが残されて。
ひとりぼっちの不安感を感じながら。しかし、これがきっと今までの涼香が感じてきたものなのだろう、と。
誰にも頼ることができない。伝えることもできない。自分の中で内々に処理するしかなく。しかし、どれだけ蓋をしても、溢れてくる。
「……私、どれだけ残酷なことをしてきたんだろう」
涼香が、いつから裕太さんのことを好きになったのかはわからない。
けれど、私はずっと涼香に頼って。どうしたら裕太さんが気に入ってくれるだろう。どうしたら裕太さんが喜んでくれるだろう、と。
自分の好きな人と自分の姉とが結ばれるための助言を求められ、それに真摯に回答する。
そんなことをしていた涼香の心情がどんなものだったのか。……今の私には推し量ることはできない。
けれど、それがひたすらに辛いことだということは、はっきりとわかる。
「でも、どうしよう。……私は、いったいどうすれば」
やっと、わかった。昨日の、そして今日の気持ちのモヤモヤの正体。
……涼香の、体調不良の原因も、おそらくこれだろう。あのとき当てつけるように私に裕太さんのところに行けといったのは、涼香なりの精一杯だったのだろう。
考えれば考えるほど、辛くなる。
想えば想うほど、苦しくなる。
やっと、私と涼香の間にあった食い違いに、気づくことができた。
けれど、思ったよりも時間がかかってしまっていた。
残酷にも、時間はたしかな傷跡を生み出していて。
たとえ間違って嵌まった歯車を例え修理することができたとしても。
その間に起こってしまった歪み、軋み。これらが治ることは、なかった。