#45 残ったもの
美琴さんを部屋に放置するのは少し憚られたが。頭を冷やそうと、廊下の窓を開け、軽く夜風に当たりにいく。
あんなふうに偉そうに言いつけておきながら、俺自身もかなり頭に熱がこもっていたようで。こうして離れて初めて、思考が落ち着いてきたように感じる。
「……重い」
改めて。自分自身にのしかかっている感情に、責任に。吐き戻しそうなほどの重圧を感じる。
しかしこれからは、これらに向き合わなければならない。己に向けられた感情である以上、それらには真摯に向き合わなければならない。
それが、たとえ感情を受け入れるとしても、そうでないとしても、だ。
4月の頭の頃なんかは、平穏に学校生活が送れればそれでいいと、そう思っていたはずなのに。今ではどうだろうか。到底そんなものからはかけ離れてしまっていて。
しかし、それでも絢香さんたちがいる生活が、たしかに楽しいものだと感じて。こんな時間が続いていけばいいのにな、なんて。そんなことを思っていた。
しかし、今回の一件を通じて。その考え方が良くも悪くも最高級に甘ったれた、曖昧な考え方であったことを痛感させられた。
みんな仲良く楽しいね、という今の時間は、ひっくり返して言ってしまえば、俺が誰をも選ばず、全員を――少なくとも、絢香さんと美琴さんのふたりを宙ぶらりんにしてしまう判断であり。
この状態を続けてしまうことは、彼女らにとってあまりにも酷すぎる対応だということ。
「とはいっても、じゃあ選びます、で選べるものでもねえんだよなあ」
なんとなく空を仰いで見れば、雲で霞んだ月が。ぼんやりとした明かりを、滲むように広げていた。
なぜか巻き込まれてしまった、というか、むしろ嵐の中央部にどうしてか据えられてしまった、衣服争奪戦。
そんな大層なことを、と。そう思って、あまり自分から考えようとしてこなかったのだが。どうやら、そうも言っていられないらしい。
「誰かのために、服を仕立てる……か」
その行為自体は、さほど珍しいことでもない。むしろ、服というものの本質から考えるのであれば、それを作る上で対象を用意することは妥当と言える。
もちろん大衆向けの衣服と同じように大まかなサイズとして汎用的なものを作ることもできなくはないが、対象を置いて、その人に合わせて作るほうが、サイズのブレも小さく、なおかつ、雰囲気などをその人に合わせてデザインすることもできる。
量産の都合、本来削らなければならないところを、自分の手で仕立てる場合は、細かく指定できるのだ。
しかし、当然ながらそれらには、先述のとおり「誰か」をデザインの対象とする必要があり。
「…………」
そして、俺にはその経験が無かった。
いや、微塵も経験がなかったわけではない。随分と昔に。唯一、家族に対してのみ、作ろうとしたことがあった。
しかし、両親はこれがなかなか忙しかったようで。デザインの構想だけが紙に埋め尽くされるばかりで、結局それが叶うことはなかった。
高校に入ってから手芸部に所属して。美琴さんと知り合ってからというもの、ことあるごとに彼女からは「私に服をデザインして!」と、頼まれることがあった。
そのたびに、最初の頃は丁重にお断りして。だんだん慣れてきてからは適当に流すようになり。
けれども、そういった対応をしていたその理由が、今になって、わかる。
怖かったんだろう。拒絶されることが。
誰かを対象とせず、作った衣服は。ある意味では受け身な作品ともいえた。
だから、たとえある人に気に入られずとも、その人の趣味に合わなかっただけであり、別の人には受け入れられる可能性がある。だから、気負うことなく作れていた。
しかし、美琴さんを対象として作れば。……いや、美琴さんでなくとも、誰かを対象として作ってしまえば。その人に認められなければ、その時点で作品として失敗になりかねない。
仮にそれが、他に人に認められ、好んで着られたとしても。それではいけないのである。
だからこそ、怖かった。
そうして、実際に作ろうとするその前から。拒絶されてしまったらどうしようという、まだありもしない幻想に囚われて。手足を縛りあげられていたのだった。
「美琴さんに限って、そんなことを言うとも思えないのに……な」
これは、偏見である。
しかし、どうしても美琴さんが俺の作った衣服にケチをつけている未来が見えない。
諸手を挙げて大喜びしている未来なら、容易に見えるのだが。
そしてそれは、絢香さんにしても同じであった。
茉莉や涼香ちゃん。……特に涼香ちゃんはちょっと掴みどころがわからないところはなくはないが。しかし、やはり拒む姿は想像できない。
それこそ、俺がとんでもなく破廉恥な衣服を用意してきたら話は別だろうが。それは極論というものだろう。
で、あるならば。やはり今までの俺が見てきたそれは、俺自身の考え過ぎから来た、ただの妄想だったのだろう。
「……よし」
やるべきことは、わかった。覚悟も、決まった。
そう思った頃には随分と頭もスッキリしていて。落ち着きも取り戻せていた。
戻ろう。部屋に。
「んんっ」
グッと身体を伸ばしてみる。息を吐きながら、力を抜いて。それと同時にどっと疲れと、睡魔が襲ってくる。
……そりゃそうだ。電車で軽く寝たとはいえ、昼にあれほど遊び、夜にあれほど緊張したのだ。
まだ懸案事項はあるにはあるのだが。今はひとまず、寝るとしよう。
ふと気になって見上げた空には、ハッキリと輪郭を見せた月が煌々と輝いていた。
部屋に戻ると、当初の布団のとおりに横になっている美琴さんがいた。
おそらくは彼女も落ち着いてくれたのであろう。枕元には、件のメイド服が畳まれていて、元の服装になっていることがわかる。
そこそこの時間廊下にいたので、既に眠ってしまっているのだろうかと思ったが、美琴さんの方もそう簡単に眠れなかった様子で、布団に包まって横になってこそいるものの、俺の一挙手一投足に気を張って、ときおりピクリと身体を動かしていた。
「……おやすみなさい」
なんと声をかけるべきかと。そう悩みはしたものの。結局はその言葉に尽きるだろうと思い、ひとことだけ、そう伝えた。
その言葉を境にして、彼女の緊張も解けたようで。力の抜けた後ろ姿からは、しばらくして小さな寝息が聞こえてきた。
俺も寝よう。
瞳を伏せ、そのままゆっくりと。
考えなければいけないことは多いが、今は一旦それらを放棄して。とにかく休もう。
状況としては変わらず、美琴さんと同じ部屋で眠ろうとしているというのに。
先程まではあれほど緊張して眠れるだろうかと心配していたものだが、今は不思議とリラックスして、このまま微睡んでいけそうである。
もちろん、疲れ云々が先行してそれどころではないということもあるのかもしれないが。それ以上に、やるべきこととして考えがまとまったのが大きかったのだろう。
布団の暖かさを感じつつ、そのままゆっくりと、ゆっくりと。思考を手放していき。
……次に気がついたのは、朝になってからだった。
美琴さんよりも先に目が覚めたようで、寝相でやや服の乱れた姿を視界から外しつつ、荷物の支度をする。
そのうちに美琴さんが目を覚ましたようで。
ぼんやりとしたまなこをこすりながら、ふわあっと大きくあくびをした。
「……どうして、裕太くんがいるのぉ? というか、ここ、どこぉ?」
どうやら現状の様子を見る限りでは寝ぼけた様子の美琴さんが、昨日の様子なども含めてぼんやりと記憶の端から消し飛んでいるご様子。
「どうしてもなにも、一緒に泊まったんじゃないですか。宿に」
そうやって彼女の記憶を補填してやると、数秒ほどのラグこそ発生したものの、すぐに飛び起きてくれて、顔を真っ赤にしながらも、すぐさまの帰宅によく協力してくれた。
「そういえば、これどうします?」
と、俺はプラスチックの袋をひとつ手に取り、尋ねた。
それは昨晩に花火を行ったときのものであり。まだ、線香花火が2本残っていた。
「んー……持って、帰る?」
返ってきた答えは、そんななんとも煮えきらない、曖昧なものだった。
ただ、それらの主張が意味するところをなんとなく汲み取れば、それらを使ってまた花火をしようというわけではないが、とりあえず持ち帰って保管しよう、と。
あまり要領を得ないその主張に、補足を付け加えるようにして、俺は口を開く。
「いちおう花火なんで、このまま保管とかしたところで湿気って使えなくなりますよ?」
花火というものの性質上、とりあえず持ち帰っておいていつかやりたくなったら、ということは無理だ。
しかし、美琴さんは静かに首を横に振った。
「湿気って使えなくたって、いいの。でも、なんていうのかな」
そう言うと、美琴さんは慈しむような視線を線香花火へと向けて、ゆっくりと語った。
「中途半端に残ってしまった線香花火そのものが、私から裕太くんへの告白そのものであるように思えちゃってね」
「――っ!」
その言葉に、一瞬息を呑んだ。
「私から、たしかに告白して。けれどそれは、いろいろと早計で。だから、こうして余っちゃった、って。そう、思えて」
美琴さんも、なんとか昨日のことを割りきろうとしてくれているのだ。しかし、それは。そう簡単に、できるものではない。
だから、なんとか納得がいくように、自分自身に、そして、俺に。言い聞かせようとしているのだろう。
あくまで、悪いのは自分だと。俺は悪くないのだと。
つまり、これは。この、線香花火は。
「……わかりました。持ち帰りましょう」
心残りなんだ。やり切れなかった。自分の想いを伝え切れなかった――という、そんな、心残り。
美琴さんはこれに、強引な言い聞かせで納得しようとしているが。本来、正しい対処法はひとつしかない。
そして、それを出来うるのは、俺だけだろう。
1本数グラムほどの線香花火のはずなのに、どうしてか酷く重く感じる。
それが、己の感じている責任から来ているものだということは、すぐに理解した。
一瞬、怯む。逃れたいと、考えかける。けれど――、
向き合うと決めたのだろう。立ち向かうと決めたのだろう。
ならばしっかり、前を見据えろ。
線香花火を丁重にカバンの中に仕舞って、俺は、彼女に向き合った。
「美琴さん」
「……うん、どうしたの?」
突然、真剣な面持ちで俺が話を持ちかけたことに、美琴さんが首を傾げる。
すう、はあ、と。ひとつ大きく息を整えて。
「答えは、必ず返します。ただ、少しだけ猶予をください。……他の人たちと、向き合うための、猶予を」
「……いいよ。裕太くんならきっとそう言うだろうと思ってた」
それは、体裁だけ取りあえげてしまえば。告白を受けたにも関わらず、その返答を保留して、他の人のことも考えさせてほしい、というもの。
相当にひどい要求だとは自覚しているが。しかし、彼女はそれを受け入れてくれた。
「今年中には、必ず。答えを出しますから」
7月末頃。今年が終わるまで、残り5ヶ月くらい。
それまでには、必ず。
「うん。待ってる」
にっこりと、彼女は俺に笑いかけてくれる。
だからどうか、この心残りを。
あと半年ほど、保たせてほしい。
灯した火を、できるだけ長持ちさせられるように。
ゆっくりと、静かに。ときおり、パチパチとオレンジの火花を散らしながら。