#29 美琴の悶絶
「わああああああっ! はしたないはしたないはしたない!」
自宅のベットに突っ伏しながら、足をバタバタとして、私はひたすらにそう叫んだ。壁越しに弟が「うるさい、発情期が」と言ってくる。
「発情期じゃないもん、思春期だもん!」
「随分と遅い思春期なことで」
いやまあたしかに高3で思春期ってけっこう遅い気はするけど。
そんな弟の言葉を無視しながら、私はクッションに顔をうずめ、ぎゅっと抱き込む。
今更ながらに今日やったことのとんでもなさを再確認する。
アポ無しで突撃したのは、まあこれはいつものことだからいいとしよう。
まずは、衣服。水着版のメイド服だ。いやまあもはやメイド服なのかとてつもなく怪しい状態ではあるんだけど、私はメイド服だと主張する。そうでもないと恥ずかしくて着れない。
というか、アレを着たのかと思うとやっぱり恥ずかしさが戻ってくる。
「でも、かわいいって言ってくれた」
キャーッと、思い出しながらあのときに言えなかった歓声を表に出す。今度は無言で隣から壁ドンが飛んでくる。……ちょっと静かにしよう。
でも、本当に嬉しかった。あのときは恥ずかしさなんて、どうでも良くなってしまうくらいに。
「それに、えっちな気持ちにもなってくれたみたい」
そういうふうに見える服だと、予想していなかったわけではない。なんならちょっとだけだけど、そういう目的で作ったみたいなところもある。もちろん、一番の理由は夏だからだけど。
そういうふうに思われるのは、恥ずかしいけど。でも、どうしてか身体の奥から、感じたことのない熱さが少しずつ沸き立っているのがわかる。
「でもでもでもでも、なんであんなこと言っちゃったかなあ!」
再び頭からクッションに突っ込み、足をバタつかせる。
別に、劣情を抱いてくれてもいいんだよ。
私は彼に急接近して、耳元でそう囁いた。なんと大胆な行動で、そしてなんてはしたない行為だろう。
鏡がないから確認のしようがないが、見なくてもわかる。私の顔は、いま真っ赤だろう。それくらいに顔が熱いのが感ぜられる。
あの瞬間の裕太くんの顔は今でも覚えている。初めて見た、心からの驚き。期待と困惑とが入り混じっていた顔。それを見た私は、自分のしでかしたことがどんなことかに気づき、急ぎいつもの調子でなんとか誤魔化しにかかった。
その後の彼はいつもの調子でツッコミを返してくれていたので、なんとか誤魔化せたと思いたいけど。……でも、どうしてか忘れてほしくないと思ってしまう私もいた。
「それでいて、ついでに帰りの電車で寝ちゃうしさあ……」
それも、裕太くんの肩を枕にして。……はい、ちょっとの間だけでしたが、とてもとてもいい夢が見れました。具体的な内容は忘れちゃったけど、とにかくいい夢だったことだけは覚えてる。
最寄り駅の少し前に、優しく肩を叩かれて私は起きた。幸い、よだれを垂らしていなかっただけマシではあるが、はたしてどれほどに間の抜けた顔を彼に見せていたのかと思うととてつもなく恥ずかしい。
しかし、最後の寝落ちだけは私の睡眠不足が原因だけど。それ以外については、正直自分でもなんでこんなことしたのだろうと、そう思ってしまうようなことではあった。
私としても、やっぱり裕太くんとそういう関係になれたら嬉しいなとは思っている。だからこそ、彼のメイドになると宣言したのだ。他の3人に遅れを取らないために。
他の3人に、遅れを取らないために。……ああ、そうか。それだ。
私は、焦っているんだ。
4人の中で、私は1番最後にメイドになった。その上、彼女たちは彼の家にお泊まり……というか、事実上の同棲をしているというのに対して、私はあくまで通っている以上の関係性になれていない。
そんな状況に、ただでさえ焦りは感じていた。しかし、その焦りが一気に鮮明になったのは、おそらくは1ヶ月半ほど前。裕太くんたちの校外レクの後からだ。
あの日を境に、絢香ちゃんの距離が一気に裕太くんに近づいた。物理的な距離は元々近くはあったが、それ以上に心理的な距離のほうがぐっと近づいていた。もちろん物理的な距離もより近くなっていたけど。
それだけじゃない。その様子を見た茉莉ちゃんが、行動に移そうとしていたのを私は何度か見ていた。あれほど嫌がっていたメイド服に見を包んで彼の前に出ていこうとして、けれどやっぱり恥ずかしくて着替えに戻る。そんないじらしい様子を私は知っている。
私はどうだろう。部活の先輩と後輩だ。それ以外には? ……なにも思いつかない。
その焦りが、私にあんな行動をさせたのだろう。
すっと私は起き上がり、そのままベットの上に座り込む。胸元に両手を持ってきて、少し持ち上げてみる。
大きさに関しては、そこそこ自信のあるほうだった。それによっていろいろ言われたり、様々な視線を向けられたりしていたからこそ、それなりに胸を張れるところではあった。
けれど、裕太くんは、あんまり興味を示していないようだった。大きいのは好きじゃないんだろうか。それともお尻のほうが好きな人なのだろうか、そう、思っていた。
あの水着を着た時、彼の視線は何度も意図的にそこから外そうとされていたが、それと同じだけ、胸へと向いていた。頑張って視線をそらそうとしている裕太くんは、とってもかわいかった。
そしてなにより、自分の自信のある所にちゃんと彼も興味を示してくれているのだと。その実感を得ることができて、舞い上がるような気分になった。
「……見えるような服を作れば、喜んでくれるのかな」
ふと、そんなことを思った。
正直、向けられる視線の多くは嫌なものが多いし、そういう意味でもあんまり好きではなかった。
けれど、裕太くんに見られるのであれば恥ずかしくはあるけれど、同時にちょっと嬉しくもある。それだけ意識してもらえているのだと思うと、浮足立つものがある。
これだけは、少なくとも現状で。あの3人に勝てていることだった。
ならっ! と。そこまで考えて、悶絶する。
自分の考えていたその発想の、破廉恥さに恥ずかしさが込み上げてくる。それに、本当にそんな方法でいいのだろうか。そんな気持ちも湧き上がってきた。
「ううううううううー!」
恥ずかしい、恥ずかしい。再びベットに突っ伏す。
隣からは弟が「うるさいってば発情期!」と、またも抗議の声が飛んでくる。
「だーかーらー! 発情期じゃないってば! 思春期!」
「……ああ、たしかに思春期かもな」
やっと納得してくれたのか。と、少し満足感を覚えるが。しかしそれ以上の恥ずかしさが強くて、クッションに頭をこすりつける。
「ほんと、思春期だな。いろいろ覚えたばっかりの、思春期男子そのまんまだわ」
壁越しに放たれた彼の言葉は、姉の耳に届くことはなかった。
玄関を開き、中にはいる。
「ただいま……って。そうか」
美琴さんを送り届けてから、家についた頃には午後9時過ぎ。癖になっていた挨拶に、返してくれる人は誰もいない。
随分と久しぶりに思える、慣れ親しんだがらんどうの家。
パチ、パチ。順番に明かりをつけながら廊下、リビングへと進む。
当然そこに誰がいるわけでもないのに、一瞬誰かがいるように空目してしまう。
「弱く、なったな」
以前なら、こんなこと感じなかったのに。一瞬そう思いかけて、いいや、違うと頭を振る。
元からずっと、弱かったんだ。けれど、それをどうすることもできなくて。いつしか目を背けていた。
「だから、こっちの俺が本当の俺なんだな」
誰もいないこの家が、あまりにも大きくて。
たったひとりの俺は、あまりにも小さくて。
小さな頃からなにひとつ変わっていない。その実感を強く覚えるごとに、胸の奥がグッと押し潰されそうになる。
「……寝るか」
このままだと更に嫌な感情が湧き出てきそうで。あらゆることから逃げるようにして自室へと向かおうとしたそのとき。
ピロン、軽快な電子音がした。
「直樹、か」
メッセージが届いていた。なんだろう、わからない問題でもあったのだろうか。或いは、なにか忘れ物でもしたのか? とにかくスマホを取り出して、画面を点ける。
アプリを開いてみてみれば、そこにあったメッセージは、
夏休み、どこに行きたいかちゃんと考えとけよ!
「勉強しろよ。……いや、勉強しろよっ!」
思わず、笑いが漏れ出してしまう。ついでに、そのままの感想をメッセージで送る。
いやまあ、それはそうだけどさ。と、言い訳っぽい文面が返ってくる。目標があればやる気も起きるっていうか。
やる気、か。たしかに直樹は目標があって、そのためであれば素直に頑張れるやつではある。
わかった、なにか考えておく。そう送り返すと、彼からはなんともシュールなキャラクターが満足そうなスタンプが返ってくる。
いったいそれはなんのキャラだと突っ込みたいところではあったが、直樹の勉強の邪魔をするわけにもいかない。
スマホの画面を消して、ふと、再び部屋を見る。
不思議と、さっきまで感じていた圧迫感がなくなっていた。
内向きに内向きにと陥りかけていた思考が、直樹の言葉に触発されてか、夏休みにやりたいことを考えるようになっていた。
これに関しては、純粋に直樹に感謝するとしよう。おかげで嫌な気分が紛れた。
……アイツには絶対に、口に出しては言わないが。調子に乗るから。
「っと、直樹に言っておきながら俺がやらないというのは違うよな」
夕方はふたりに付き合っていたこともあり、俺自身の勉強。特に宿題については進捗があまり芳しくない。
自分自身のテスト対策は、彼らに教えたときに自分で再確認できた分と、それから宿題を行って。それで理解が曖昧だったところを再度洗い直すことにしようか。
それなら、軽く夜ふかしの準備をしよう。
とりあえず紅茶を入れて、それから適当なお菓子でも用意して。
電気ケトルを手に取り、水道から水を注ぐ。
スイッチを入れて、沸き上がるのを待っている間に、ティーポットと、カップソーサーの準備。茶葉を計量スプーンでひとすくいして。
そこまでやって、気づく。弱くもなったが、同時に、随分と楽しむようにもなったものだ、と。
今までなら、ひとりだから別にいいやと水道水で済ませていただろうに。今はこうしてわざわざ紅茶を淹れている。
パチンッ、お湯が沸き上がったことをケトルが告げる。
俺はポットの中に茶葉を入れてしまい、そのままの手でケトルから熱湯を注ぐ。
面白い、興が乗った。お菓子で簡単に済ませてしまってもいいが、抽出が終わるまでに、手早くサンドイッチでも作ってしまおう。
自分のためだけに、料理を作ったのはいつぶりだろうか。それこそ本当に数年ぶりかもしれない。
けれど久しく行ったそれは、あのとき感じた空虚さなんて感じることなく。どうしてとても楽しいものだった。
それこそ、料理を始めたての時に感じた、あの頃の楽しさのような。
出来上がったサンドイッチを4つに切り分け、味見と称してひとつ食べる。……少し、マヨネーズにマスタードを混ぜても良かったかもしれない。そうすればきっとみんなに振る舞ったときに、喜んでくれるだろう。
紅茶の方もそろそろよい加減だろう。カップへと注ぐと、アッサムらしい赤色と、どこか甘みのあるような香りがふわりと漂う。
軽く口をつけてみる。熱くはあるが、こちらはいい塩梅だ。自信を持って他人に振る舞うことができる。
俺は少し気分をよくしながら、紅茶とサンドイッチとをお盆に載せ、自室へと向かう。