#24 寂しがり屋がふたり
しばらくして、彼女の嫌悪感も、俺自身の衝動も収まってきた。
きっとアレは一過性のものだったのだと安堵する一方で、しかしそれでもたしかに自分の感情だったのだと思い、戦慄する。
「さっきは、ごめんなさい。あんなことをお願いしてしまって」
「ううん。こっちこそ危うく殴ってしまうところだったし、お互い様だよ」
「……聞かないんですね、理由」
目を合わせることなく、彼女はそう言ってくる。
気にならないわけがない。なんでこうなったのか、なにが理由でこうなったのか。正直な感情でいえば、今すぐにでも問い詰めたい。
しかし、それがダメだということは重々承知している。わざわざあの涼香ちゃんが伏せたのだ。人の隠したいことを面白がってバラす、あの涼香ちゃんが。
つまりこれは、絢香さんの深い部分の話であり、無理に聞き出すべきことではない。
「話したいなら聞くけれど。そういうわけでもないだろう?」
「……ごめんなさい」
「謝らなくっていいよ。俺だって他人に言いたくないことのひとつやふたつあるし」
急ぐ必要なんてない。もし、絢香さんが言ってもいいと思ってくれるその時まで、待とう。
そのためにも、俺自身が伝えてもいいと思われるような人間にならないといけないが。
「ねえ、裕太さん」
声をかけられる。今度は、しっかりと目を合わせながら。
「私は、メイドとして裕太さんの役に立てていますか? ……その、迷惑をかけてないでしょうか?」
その声はあまりにもか細く、その瞳は今にも泣き出しそうで。
ああ、きっと彼女にとってはコレも不安の一助となってしまっていたのだろう。
普段から感謝を伝えていないわけではなかった。家事に対してはしっかりと礼を言っていたと思うし、食事についてもしっかりと感想を伝えていたはずだ。
しかし、つい先日に俺が料理できると彼女は知り、そしてその日、俺は彼女の仕事を奪った。もしかしたら、自身は不要なのではないか、と。そんなことを感じたのかもしれない。
その程度で、と思わないわけではないが。けれど、絢香さんが極度の寂しがり屋だと教えられた今では、もしかしたらと思ってしまう。
「……正直なところ、迷惑はそこそこかかってる」
だが、ここでうまい嘘を作って慰めてやれるほど、俺はできた人間じゃない。
俺の言葉に、絢香さんの顔がサッと青ざめる。
「でも、それ以上に助かってる」
俺はできた人間じゃない。だから、俺の出来る範囲で。最大限に。
「たしかに俺は料理はできる。なんだったら親が基本的に不在だったせいで、基本的な家事はひととおりこなせる」
自分の分だけならと面倒くさがっていた料理はともかくとして、掃除であるとか洗濯であるとかは頻繁にとは言わないものの、彼女らメイドが現れるまでは俺が全てやっていたわけで。
実際、半物置状態になっていた客間を整理する以外に、これといって大きな掃除などはしたことがない。
「けれど、料理ができるったって、やらなきゃ意味はない。ひとりだと面倒くさがって料理はしようとしない。だから、絢香さんたちが来るまで、コンビニ弁当とかゼリー飲料で済ませてた」
俺にとってのひとりの食事は、それを楽しむということとそこにかかるコストとを天秤にかけた結果、ただ生命を繋ぐための必要事項となってしまっていた。
しかしあの朝、絢香さんの作ってくれた朝食を食べて。久しぶりに他人と囲んだ食卓を通して。俺はたしかに、いいなと感じた。
それだけじゃない。
おはようって言ったら、おはようって返ってきて。
おやすみって言ったら、おやすみって返ってきて。
ドタバタしながらみんなで家から出ていって。
帰ってきたら、ただいま、おかえりって言い合って。
「そんな、些細なことでさえ。俺にとってはあまりにも新鮮で、そして心地よかった」
海外で頑張っている両親に不満があるわけじゃない。必要とされ、それに応えているふたりはカッコいい存在だと思っているし、構えていない代わりにと十二分なほどの生活費を送ってくれているので、ありがたいことに今まで俺は不自由したことはない。
なんなら今回の一件で4人分の生活費をたかったというのに、問題なくポンと渡してくるあたりすごい両親なんだなとは思っている。
けれど、それはそれとして。がらんどうの家が、俺にとってあまりにも大きすぎたのも事実で。
俺はそれに慣れていたつもりでいて。けれど実際は知らず知らずのうちに、随分と堪えていたようだった。
「絢香さんは、今日の晩御飯ってなんだろう。って、思ったことある?」
「えっ?」
「俺はね。絢香さんが来てから、絢香さんが料理を作ってくれるようになってから。そんな感情を、久しく思い出したんだ」
リビングで待っているときに、不意に香ってくるカレーの匂い。あるいは、家の近くを通ったときに、換気扇越しに届く焼き魚の匂い。
それだけじゃない。ただ、家に帰ればそこには待ってくれている人がいて、そしてその人が料理を用意してくれている。ただ、それだけでいい。
その料理はなんだろう。大好物のエビフライかもしれない、もしかしたら俺の嫌いな食材が入っているかもしれない。そんなプラスなイメージもマイナスなイメージも、全てひっくるめて。
「俺は、自分で作るか。あるいは買って帰ってくるばかりで。もう随分とそんなこと思いもしなかった」
これを伝えるのは、少し恥ずかしいけれど。
「けれど、絢香さんのおかげで思い出すことができたその感情は、とても温かなもので。そのとき感じたんだ。ああ、ひとりぼっちの家に慣れたつもりでいたくせに、その実ただの寂しがり屋だったんだなって」
絢香さんと、なんら変わりのない。ただの寂しがり屋。
だからこそ、俺は。
「絢香さんの作る料理が食べたいんだ」
それは、俺が料理ができようができまいが関係ない。
他人が作ってくれたということが大切であって。いいや、本質的にはもっと単純で。
ただ、家に誰かがいてくれている。それだけでいい。たった、それだけで。
「もちろん、俺が料理を作って、それを食べてくれるでも構わない。そうすれば、絢香さんも今日の晩御飯がなんだろうって思うことができ……」
「あっ、あわわ、あわ……」
自分自身の思いの丈を伝えることに必死で。絢香さんの様子を伺うのをすっかり失念していた。
彼女は茹だったかのように顔を真っ赤にして、それは今にもそこから湯気が出そうなほどだった。
そうしてそれに連られてか。あるいは自分の言ったセリフの恥ずかしさに気づいてか。俺自身の顔が熱くなるのが感ぜられる。
「えっと、だからその、なんだ……」
空いている手で顔を覆いながら、俺はなんとか言葉をつなぐ。
せめて、これだけは言わないといけない。
改めて、感謝を。しっかりと。
「絢香さんの存在に、俺はとても助かってる。本当に、ありがとう」
「むきゅう……」
「えっ!?」
突然、絢香さんの身体から力が抜けて、こちらへ倒れ込んでくる。どうやらキャパオーバーでショートしたらしい。
彼女の身体を支え、無理のない体勢になるように調整する。
寂しがり屋がふたり、肩を寄せ合って安心しようとしている。実に滑稽で、しかし合理的だ。
……きっと目が覚める頃には、いつもの絢香さんに戻っているだろう。なんの根拠もない、そんな確信が。しかしどうして、ハッキリとそう思えた。
「しかし……くっそ……」
なんだよ、ほんと。なんてこと言ってんだよ、俺。
――絢香さんの料理が食べたいんだ。
なんて。そんな気障ったらしい言葉を。
「……プロポーズじゃあるまいし」
絢香さんの目が覚めて、随分と調子も回復したようだった。
自分で歩けるくらいにはメンタルも元に戻ったようで、しかし握った手は離してくれなかった。
時間もそこそこ経過していたようで、陽はかなり傾きかけていたが、なんとか帰る前の最後の集合には間に合った。
けれど絢香さんはそこでも手を離してくれなかったので、クラスメイトたちはギョッとして、なにごとだと言わんばかりに様々な視線を送られた。
まあ、こういう扱いをされるのもこれで2度目なわけで。そういう関係もあってか、ちょっとだけ慣れている自分がいた。
「悪い。心配かけたな」
「そんなこと気にすんな。それよりも無事で良かった」
班のメンバーと合流し、遅くなったことへの謝罪をする。呆れを始めとした言葉こそあれど、誰からも怒られなかった。
「それで? 随分と仲良さそうだが、今度こそ付き合ったのか?」
「残念、俺たちはそういう関係じゃねーんだわ」
「それを見せつけられながら言われても説得力ねーんだよなあ」
面白くないとでも言いたげに、彼は口を尖らせる。
しかしその表情は笑っていて、つまりはただ単に面白がっているだけなのがよくわかる。
「絢香ちゃん、大丈夫!?」
「新井さん! 捻挫をしたと聞きましたが、大丈夫なんですか!? 私、多少なら救急セットが」
「捻挫……? あっ、ええ、大丈夫です。そこまでひどいものではなかったので、その場で休憩したこともあって、ずいぶんと良くなりましたから」
直樹たちに捻挫したからと嘘をついたことを共有するのを忘れていた。
一瞬しまったと焦ったが、しかし絢香さんが咄嗟の機転で話を合わせてくれたようだった。
「ありがとうございます、雨森さん、宮野さん」
「あっ……」
やや強調気味に言われた呼び名に。今度は茉莉が気付かされる。
茉莉にしては珍しいミスだが、しかしそれほどに心配だったということだろう。幸い、雨森さんは気づいていない様子なので、大丈夫だろう。
「なあ裕太」
「どうした直樹」
「茉莉と新井さんって実は仲いいんじゃないか? ほら、この前は新井さんが茉莉ちゃんって呼んでたし、今は茉莉が絢香ちゃんって呼んでたし」
前言撤回、気づいてるやついたわ。俺の正面に。
コイツ、変なところで鋭いというか、勘がいいというか。
「ま、気のせいじゃね? ほら、普通に名字で呼び合ってるし」
隣で話しているふたりは、さっきの一件もあってかミスなく名字で呼び合っていた。
とはいえ、正直誤魔化すための言い訳としてはかなり苦しいと思っていたが、
「うーむ、そんなもんかあ」
そこは直樹、よくも悪くも単純だった。
「はーい、それじゃあ全員分の点呼も取れたので、今から帰るよー!」
小野ちゃんがそう言って、各班ごとに来た山道を降りていく。
そろそろ俺たちの番になるというところで。
「直樹、荷物半分寄越せ」
「えっ、なにカツアゲ?」
「ちげーよ、半分持ってやるって言ってんだよ。……まあ、多少なりとも迷惑掛けたし、行きと違って弁当もないから、荷物も気にしなくていいしな」
そう言って山のような荷物の一部を借り受けようとしたが、なぜか断られる。
「俺のことは大丈夫だから、どっちかってーと、回復したとはいえ捻挫した新井さんの方に付き合ってやってくれ」
「そう言うなら、そうするが」
まあ、絢香さんの捻挫は俺がでっち上げた嘘なのだが、しかしそうするほうがバレなさそうというのも事実か。
「と、いうかよお」
なにか物申したげな直樹のその表情に、しかし理由のわからない俺は首を傾げるしかなかった。
「お前、その手を振り解いてまで俺の手伝いをしてくれと、俺に言わせる気か?」
「あー……」
未だに繋いだままの、絢香さんとの手。帰りになればさすがに手を離してくれるかと思っていたが、どうやらその気はないらしい。直樹の言葉を聞いたからか、絢香さんはなおのことギュッと力を込めて握ってきた。
……たしかに、俺はこちらに専念すべきだな。
「ま、このアホの荷物なら私が手伝ってあげるから、あなたたちは仲良くしてなさいな」
茉莉のその言葉に、直樹が「えっ、マジで!?」と嬉しそうな声をあげていた。よかったな、と思う一方で、ちょっとわざとらしくいわれた後半部分に気になる点があるにはあるが。
「行きましょうか、裕太さん」
「……ああ」
絢香さんに手を引かれ、俺はそれに従って歩きはじめる。
まあ、今は絢香さんのことを気にかけてあげることにしよう。
彼女に、認めてもらえるような人間になるためにも。