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#23 なにもかもがチグハグで

 捜索を音に頼ったのは、存外によい判断だった。

 特に今のような雑木林の中だと、視界では塞がれようとも声なら貫通していくし、俺の存在以外に音を立てる要因がほとんどないので、彼女からのレスポンスを聞き逃すこともない。


 絢香さんの名前を呼び続けること、数分。ガサリ、というなにかが茂みの中で動く音がした。


「絢香、さん?」


 一瞬、なにかの野生動物がいる可能性も疑ったが、しかしそれにしては逃げる様子もない。

 念の為、慎重に音がした方向へと向かう。


 おそらく、音はこの木の裏からした。ゆっくりと近づいていき、そこにいる存在を確かめる。


 ――いた。絢香さんが、いた。


 怖かったのだろう。殻に籠もるようにその場で小さく座り込んでしまっており、身体もやや震えている。

 とはいえ、望んだ顔がそこにあったことに強い安堵と安心感とがこみ上げてくる。思わず身体の力が抜け、腰を落としてしまう。


 しかし、よかった。見つけることができて。……そうだ、直樹たちに見つけることができたことを伝えなければ。

 俺はスマホを取り出すと、直樹宛てに絢香さんを見つけた旨をメッセージで伝える。すぐさま彼から「よかった」という返事がくる。

 とりあえずさしあたってはこれでいいだろう。スマホを消すと体勢を整え、再び絢香さんへと意識を向ける。


「絢香さん、なにか怪我とかしてない? 大丈夫?」


 そう声をかけてみるが、返事はない。特に怪我はない、ということでいいのだろうか。

 ……こんな絢香さんは初めてだ。家の中での表情豊かな彼女でもない。学校なんかでの氷の女王様の彼女でもない。

 今までに見たことない絢香さんの雰囲気に困惑しながら、しかし俺はなんとか彼女との意思疎通を図る。


 とりあえず、自力で歩いたりできる状態なのか。それを確かめたくて、質問を投げかけていた。


「……さい」


 そんな中で、絢香さんがそんな声をかけてきた。

 弱々しいその声は、静かなこの空間でも聞き取りづらいほどで、その内容がハッキリとわからない。


「すまない、聞き逃したからもう1度言ってくれないか?」


 今度は聞き逃さないように、しっかりと耳を澄ませる。

 すると、絢香さんもしっかりと伝えようとしてくれたのだろう。弱々しいのに変わりはないが、さっきよりも幾分かハッキリとした口調で言ってくれる。


「殴ってください」


 そう、ハッキリと言った。


 聞き間違いだろうか。


 いいや、彼女はハッキリとそう言った。


 聞き間違いであって欲しい。


「お願いします、殴ってください」


「――ッ!」


 けれど、彼女はハッキリとそう言った。


 聞き間違うことなく、俺はたしかにそう聞いた。


 なんだ、これは。なんなんだ、これは。

 絢香さんは伏せていた顔を上げると、悲しみの見える笑顔でこちらを見てくる。

 向けられた視線は俺を捉えているようで、しかしそのさらに奥を見透かそうとしているようにも感ぜられて。

 なにもかもがチグハグで、定まっていない。噛み合わず、歯車が軋み、悲鳴をあげている。


 そもそもこの状況下で殴ってくれってどういうことだ。

 意味不明すぎる今の現状を整理しようとして、ひとつの記憶が蘇る。


「お姉ちゃんドのつくマゾだから」


 涼香ちゃんが放った、その言葉。冗談半分に言ってきたものだと処理してきたが。……って、

 いやいやいやいや、仮にそうだとしても意味不明すぎる。絢香さんがマゾだからといって、この場で殴ることを要求してくる理由はなんだ。状況とミスマッチすぎる。

 威圧的な木々に囲まれて錯乱しているのだろうか。理解しようと様々な案を考えてみるが、俺は絢香さんではないのでわかるはずもなく。


 ただ、ここ場に居続けるのもよくない気がして。

 少し無理にでも彼女を森から連れ出そうと思い、俺は立ち上がり、彼女へと()()()()


「……はっ?」


 バチン、という音が鳴った。それは、絢香さんへと向かおうとした平手打ちを、俺が左手で掴んで止めた音だった。

 なら、その平手打ちをしようとした腕は、誰のものだ? ……じんわりと広がってくる右腕の痛みに、今の状況を理解する。


 俺は彼女の身体を支え起こすために手を差し出し、そのまま大きく振りかぶって、彼女の顔に向けて振りぬこうとしていた。


 俺が、彼女を、殴ろうとした。


「どうして止めたんですか?」


 見上げてくるその瞳は虚ろで。言い表せぬほどの嫌悪感を湧き上がらせてくる。

 嫌だ。恐ろしい。気持ち悪い。怖い。――殴りたい。己の中にそんな感情があったのかと思い、嗚咽がこみ上げてくる。


「お願いします、殴ってください。……それとも、私は殴る価値すらない人間でしょうか」


 同時、本能がコイツはダメだと警告してくる。関わるべきじゃない、今すぐここから離れろと。

 2歩、3歩とあとずさりをする。絢香さんの得体のしれない狂気と、俺自身の意志のない凶行との距離を離させる。


 どうすればいい。どうするのが正しい。思考を回そうとするが、その度に暴力衝動がどこからともなく渦巻いては絡みついてくる。


 そうだ。助けを――、

 自身のポケットの中にあるスマホで誰かに助けを。……誰に助けを求めるべきだろうか。


 直樹。論外、状況が掴めるわけがない。

 雨森さん。ダメだ、こんな状況の彼女の知識があるわけがない。

 茉莉。なにか知っていそうな雰囲気はあったが、しかし茉莉は俺を頼ってきたのだ。つまりは、彼女でも無理。

 美琴さん。は、茉莉以上にわからないだろう。


 で、あるならば。


 俺は一縷の望みにかけて、彼女に電話をかける。

 頼む、出てくれ。


 プルルルルル、プルルルルル。耳にあてがったスマホから、コール音が聞こえてくる。

 繰り返されるその音が、ひどく長く感じられて。

 5回ほど繰り返されたところで『はい』という、気怠げな声が聞こえてくる。


「涼香ちゃん、絢香さんの様子が!」


『落ち着いてください。お姉ちゃんがどうかしたんですか?』


 電話越しの相手。涼香ちゃんにそう言われ、俺はいったん深呼吸をする。

 焦ったままで話して状況を伝え損ねては本末転倒だ。思考の邪魔をしてくる嫌な感情どもをなんとか振り払いながら、俺は涼香ちゃんへと現状を報告する。

 ひとしきり俺からの説明を聞いた涼香ちゃんは『なるほど』と言うと、ひと呼吸おいてから俺へと質問を投げかけてくる。


『裕太さんは、今、お姉ちゃんを殴りたいですか?』


「はい?」


 要領を得ないその質問に、思わず素っ頓狂な声が出てしまう。

 しかし、決してふざけているわけではないようで、彼女は同じ調子のままで、再び殴りたいか、と質問をしてくる。


「どうして自分にそんな衝動が湧き上がってきてるのか、自分でもよくわからないんだけども。……殴りたい」


『やっぱり。……ああ、安心してください、裕太さん。その衝動は真っ当なものです』


 直後、俺は耳を疑った。

 もしかしたら、助けを求める相手を間違ったのではないかと考えた。


『大丈夫です。双方同意の上で行うものなので問題はありません。安心してください』


 涼香ちゃんは、そう言い。そして、


『殴ってあげてください』


 まるで、俺が踏みとどまった凶行が正しいとでも言うかのように。そうするべきだと言うように。


 絢香さんが暴力を受けることを望み、

 俺の衝動が暴力を振るいたがり、

 涼香ちゃんがその全てを肯定してくる。


 狂った状況下に置かれたからか。それともこれが元々の俺自身だったのか。自制していることがバカらしく思えてきて。

 全てを衝動のままに身を任せてしまおうとして。


「他に、解決する方法はないのか」


 ……けれど、それでも僅かな俺の理性は、ダメだ、と。そう叫んだ。

 俺の問いかけに、スピーカーの向こうで涼香ちゃんが驚いたように声をあげた。

 そしてしばらく考え込んで。


『ない、わけじゃない』


 戸惑い、だろうか。迷いの見える声色で、彼女はそう言う。


『詳しい話は、私の口から言うべきじゃない。けれど、今の状況のものすごく簡単に言うならば、お姉ちゃんは極度の寂しがり屋で、今、とてつもなく寂しがっている。だから、解決方法は至極単純、そばにいてあげればいい』


「ならっ!」


『話は最後まで聞くべき。そもそもそれで解決できるなら、最初から言ってる。いくらお姉ちゃんがマゾだろうが、理由もなくそれを提案なんてしない』


 私だってお姉ちゃんに傷ついてほしくはない、と。絞り出すように涼香ちゃんは言葉を紡ぐ。


『そばにいるというのは、単純だけれどとても難しい。裕太さんも感じたはず。今のお姉ちゃんから発せられる、異常なまでの嫌悪感を』


「……」


『お姉ちゃんの状態が戻るまで、その嫌悪感から耐え続ける必要がある。もし、それができないのであれば、お姉ちゃんが苦しんでいる現状を長く続かないように、今すぐ殴ってあげて』


 涼香ちゃんはそう言うと、あとの判断は任せると言って電話を切った。

 ツー、ツー、という虚しい電子音を聞き流して。俺は絢香さんに向かい直す。


「お願いします、裕太さん。殴ってください」


 その言葉に、再びの暴力衝動が湧き上がってくる。


 殴ってしまえば、全て解決する。この感情も、絢香さんの現状も。

 一方で、そばにいるという判断は、この衝動に向き合いながら、寂しさに苦しんでいる絢香さんへと寄り添い続ける必要がある。


 1歩、彼女に近づく。本能が警笛を鳴らす。近づくな、と。

 2歩、彼女に近づく。衝動が身体をつき動かそうとする。より楽な方へと。


 3歩。俺は彼女に近づき、その身体を抱き締める。


「どう、して……」


「ごめん……」


 殴ったほうが、お互い手っ取り早く解決できる。それは、涼香ちゃんの言葉からわかっていた。

 けれど、それでも。……もしかしたらこれは、俺のエゴかもしれないけれど。


「やっぱり、暴力で解決するなんて。そんなのは、ダメだ」


 ギュッと抱き寄せる。絢香さんの柔らかな身体はガラス細工のように繊細で、少し力加減を間違えただけで壊れてしまいそうだった。

 そんな彼女を殴ろうとしてたのかと思うと、ゾッとする。


 ゆっくりと抱擁を解き、俺は彼女の隣に並んで腰をおろす。


 遅くなることだけ、連絡しておくか。


 俺は絢香さんが軽く捻挫をしてしまったからと適当に理由をでっち上げ、直樹へと連絡を入れる。

 迷子になったわけではないので、むしろ探しに来て逆に迷子になられても困るから。と併せて送り、捜索不要と伝えた。

 直樹から、了解の返事を得たことを確認して、俺はスマホを消してポケットに仕舞う。

 これで、しばらくは時間をとれるだろう。


「ごめんね、絢香さんのことを無視してるわけじゃないから」


「……いえ、大丈夫です」 


 そばにいると言ったくせに、開幕早々スマホを操作したことに機嫌が悪くなっていないかと心配するが、杞憂だったようで安心する。

 キュッと、不安げに握り込んだ彼女の手に。俺はそっと手を触れさせる。ピクリと驚いた様子はあったものの、拒まれることなく、受け入れられる。


 互いに声をかけることはなく。しかし、互いの存在だけをたしかに感じとろうとしていた。

 触れていた手が握られる。当然、振り払うわけもなく握り返す。

 ……一瞬でも振り払うという選択肢が自身の中に生まれたことを反省する。そっちの選択肢は既に潰しただろうと、自制を強める。


 嫌悪感が消え去ったわけじゃない。殴りたいという感情は未だに身体の中を駆け巡っている。

 けれど、さっきみたいに衝動のままに殴ろうとするなんてことは、起きない。そんなことは起こさせない。

 理性と本能のぶつかり合いに吐き気を催すが、それをなんとか噛み殺す。ちょっとした感情の機微ですら伝播しそうなこの状況で、俺が不安定になるわけにはいかない。


 木漏れ日の中、触れ合う手を通して。ゆっくりと時間をかけて。俺は、たしかにここにいると。そう、彼女に伝える。


 大丈夫。ここにいる。ひとりじゃない。

 だから、安心して欲しい。そんな想いが、彼女に伝わることを願って。

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