#19 歪な祈り
トントントントン、チャカチャカチャカチャカ。軽快な音がキッチンから聞こえてくる。
「絢香ちゃん、そんなにキッチンの方を気にしても料理が出てくるまでは早まらないよ?」
「わ、わかってますよそれくらい……」
茉莉ちゃんに言われた言葉に、いったい私にどんな印象を持っているのだと、少し問いただしたくなる。
しかし、そういうことを言われるくらいにキッチンに目を向けていたというのもたしかだった。それはもう、たまにこちらの様子を伺っている裕太さんが、そのたびに合う私との視線に苦笑いをしてしまうほどには。
けれども、気になるのだからしょうがない。最初は、心配だという理由もあった。もしかしたら怪我をしてしまうかも。それこそ、ここに来たばかりの私が指を切ったように。……まあ、アレはただの私の不注意が原因ではあったけど。
しかし、そんな心配はもう既に吹き飛んでしまっていた。それくらいには、裕太さんの料理の手際はよい。
料理ができるというのを疑う余地がないくらいに。むしろ、最近は作ってなかったという方が嘘ではないのかと思うくらいにはテキパキと調理が進んでいる。
茉莉ちゃんと一緒に作ったときには、彼女も料理は久しぶりとのことだったが、やはり時々は危なっかしいところもあったものなのだけれど。
それこそ、不注意でもしない限りは怪我なんて起きないんじゃないだろうか。そう思わせてくれるくらいには、本当に手際がよい。
なら、なぜ作っている様子をそんなにも見つめているのか。それは――、
クイクイ、と。メイド服の裾を引っ張られる。視線を向けると、同じく裕太さんのいるキッチンを見つめている涼香が、やや厳しい顔をしていた。
「ここまで出来るのは、予想外」
「うん、そうだね」
「ただ、焦るのはまだ早い。とりあえずは、料理を食べてから。味を、見てから」
「……うん」
焦って、いるんだろう。私は。
この家に来た、最初の朝。冷蔵庫の中になにも入っていないことを確認して。裕太さんの栄養バランスを心配したと同時に、私は喜んだ。
料理が、私がメイドとして彼に尽くすことができる明確なひとつの手段になると思ったからだ。
しかし、実際は違っていた。彼は私と同等か、それ以上の手際で調理を進めていた。
曰く、自分の分だけを作るのが億劫であった、とか。曰く、自分が食べるだけならばと面倒になったとか。
つまるところ言ってしまえばそれ即ち、作る理由さえあれば自分で作るということであって。
涼香は、食べてみるまでわからないと言ってくれた。こう言ってしまえば失礼な話だが、例えば裕太さんの作る料理がおいしくなければ。いいや、おいしくないということはないか。直樹さんや美琴さんがあれほどまでにおいしいと主張しているのだ。人の好みの差はあれど、それでマズイということはないだろう。
だがしかし、せめて私の料理のほうがおいしく作ることできれば、少なくともよりおいしい料理を彼に提供できるという利点を作ることができる。それを、私の存在意義にすることができる。だから――、
「よし、できたぞー!」
キッチンから、私たちを呼ぶ声が聞こえる。
5人分の食事をダイニングに移動させる彼に、せめてこれくらいは手伝いをさせてくれといい、配膳を手伝う。
手に取った大皿から香る、エビチリのよい匂い。酸味と辛味が感ぜられる、食欲を煽るいい匂いだ。思わず腹の虫が反応してしまいそうになる。
「……まだ、まだだ。まだ、食べてない」
食べるまでは、味は不確定。なんとかそう自分自身に言い聞かせて。
配膳を終わらせ、各自席につく。今日は5人なのでいつもよりいくらか窮屈だった。
裕太さんの右隣に座らせてもらって。改めて料理を見る。
見た目は、よい。匂いも先刻から変わっているわけでないので、当然よい。残るは、味。
裕太さんが、手を合わせて「いただきます」と言う。それを皮切りに、各々好きなタイミングで、同じように言って食べ始める。
私も、食べよう。
「……いただきます」
結果から言おう。おいしかった。
直樹さんや美琴さんの前評判に違うことなく、いいや、それを以てして、超えてくるほどにはおいしかった。
自分の料理と比べるというのは思ったよりも難しいので、正しく評価はできないが。しかし、負けているだろうという、なんとなくの感覚がたしかにそこにあった。
自分の料理と裕太さんの料理。日常的に食べるならば、どちらを食べたいか。その判断が、裕太さんの料理に向いてしまっていた。
「それで、どうだった?」
「どう、とは」
夕食後、いつもならばひとりで食器を洗っているところだが、今日は「調理器具の手入れは調理した者の責任だから」と押し切られ、ふたりで並んで食器を洗っていた。
食器の音、水の音。それら越しに聞こえてくる彼の声が、どうしてか近いはずなのに遠く感じてしまう。
「ほら、夕方に言ってたでしょ? 久しぶりの料理なこともあるから、忌憚のない感想を聞きたいって」
「ああ、そういえばそうでしたね」
そんなもの、ひとつしかない。問題なくおいしかった。ただそれだけ。
これがプロに要求するレベルとかそういう話であればもう少し違った視点からも見たのかもしれないが、個人の家庭で、それなりの食材から作り上げた料理としては、素晴らしいのひとことに尽きる代物だった。
「おいしかったです。なんの問題もないように感じました」
「ほんと? それにしては夕食中、やけに顔が暗かったように感じたんだけど」
「――ッ!」
言われて、不安が表に出ていたのだと焦る。同時に、なんと失礼なことをしていたのだろうかと反省する。
料理に限らず、自分の作ったものが他人を笑顔にしていると安心し、嬉しくなるものだ。その一方で、顔を俯かせ、目を伏せさせればなにか問題があるのではないかと疑うのは道理であり。自分は、おいしかったと感じたにも関わらず、前者ではなく後者の対応をとってしまっていた。
己の勝手な都合で作って貰ったものへの敬意を払わず、あろうことかまるで不満があるかのように態度で示したことになる。
「いえ、本当においしくって、そのっ!」
「はいはーい! 私も言えるよー! キタンのない意見!」
シンクを挟んだ対面に美琴さんがやってきて、カウンターから身を乗り出すようにして手を上げて主張していた。
「美琴さんの意見って、どうせおいしかった、でしょう?」
「うん、そのとおりだよ! よくわかったね!」
「食べながら延々とおいしいおいしい言ってたじゃないですか。とにかく、洗い物が終わったら駅まで送るので、その前に帰る準備をしておいてくださいね?」
裕太さんがそう言うと、彼女ははーい、と素直に返事をしてリビングの方へと駆けていった。
年上であるはずなのに、子供らしいという評価の似合う美琴さんの言動に、裕太さんはさきほどまで私に料理の出来を質問していたときの不安げな様子から一転、随分とにこやかな表情をしていた。
嫌な感情がふつふつと湧き出てくる。
私も美琴さんみたく。いいや、あそこまで出来ずとも、きちんと料理に受けた感情を表すことができていれば。そんな、後悔。
私は裕太さんの表情を暗くさせ、美琴さんは彼の表情を明るくした。たったそれだけで、しかしあまりにも大きすぎる違いへの自己嫌悪。
そしてなにより、自身の存在意義が薄れていっているように感じられる、その不安。
食器洗いは黙々と進められ、大方の目処がついた。
私は裕太さんに「美琴さんが帰るのが遅くなりますし」と伝えて、残り少なくなった洗い物を引き受ける。
その本音は、私の中に渦巻いている真っ黒なそれが、漏れ出して裕太さんに伝わってしまうのが嫌だったから。
今のところはなんとか抑え込んでいるつもりだが、いつ決壊してしまうかがわからない。もしかしたら、もう既にちょっと壊れているかもしれない。
兎にも角にも、ひどい顔になりそうな私を、見ないで欲しかった。
そうして裕太さんが美琴さんを駅まで送り届けに行き。しばらくして、私も洗い物を終えた。
瞬間、身体から力が抜けていくのがわかった。糸が切れたかのようにその場に崩れ落ち、ペタリと座り込む。
異変に気づいたのだろう。茉莉ちゃんが駆け寄ってきてくれる。
「ちょっと、大丈夫!? って大丈夫なわけないわよね!」
「いいえ、大丈夫ですから」
「そんなヘロヘロの状態で言われても説得力がないから。もう、疲れてるんなら言ってくれれば洗い物くらい変わったのに」
「……いえ、本当に大丈夫なんです。そもそも、今日は裕太さんが代わりに夕飯を作ってくれて、その上に洗い物まで手伝っていただいて。それなのに私が疲れているはずなんて」
「言い訳無用! 友達なんだから、遠慮しないの。とりあえず部屋まで運んであげるから。……立てる?」
そう言って、茉莉ちゃんが手を差し伸べてくれる。私は頷いてからその手を取り、支えて貰いながら立ち上がる。
そのまま肩を貸してもらいながら、自室として使わせて貰っている部屋まで辿り着く。いつの間にか、涼香も一緒についてきているようだった。
3人で部屋に入り、ベットへと腰を降ろすまで茉莉ちゃんは私を手伝ってくれた。
「それで、大丈夫なの?」
「はい。本当に、疲れているとかそういうわけではないので」
そう伝えては見るが、どうにも信用されていない様子で、ジトッとした目付きでこちらを見つめてくる。
「茉莉」
そんな中、口を開いたのは涼香だった。
「お姉ちゃんが疲れてないってのは、ほんと」
「でもっ!」
「茉莉が心配になる理由も、わかる。でも、これはそういうのじゃないの」
涼香はまるで家族だからわかること、とでも言うように茉莉ちゃんに言葉を告げる。
その解釈自体は間違ってはいない。きっと、事情を知っている涼香には今の私の状態が全てとは言わずとも大きなところはわかっているだろうから。
「だから、いったん私とお姉ちゃんのふたりにしてほしい。大丈夫、悪い方には行かない、はず」
だがしかし、だからといって除け者にされるのは、人として納得行くかは別であり。
ギッと。茉莉ちゃんは歯噛みしながら涼香のことを睨む。
とはいえ、そうするほうがよいと理解してくれたのだろう。不服そうな表情のまま、彼女は部屋から出ていく。
その直前、涼香が言葉をひとつ。
「できれば、このことは裕太さんには伏せておいてほしい」
「ちょっと、さすがにそれはっ!」
ドアのところで振り返った彼女は、しかし真剣な眼差しの涼香に、次の言葉を噛み殺した。
「さすがにそれは、約束はできない。善処はする」
「ありがとう。茉莉」
涼香が相変わらずの呼び捨てでそう言うと、茉莉ちゃんはフンと鼻を鳴らしてそのまま部屋から出ていった。
「さて、と」
ふたりきりになったところで、涼香がこちらを向いて声をかけてくる。
「おいしかったね、裕太さんのご飯」
「……うん」
「どう、勝てそう?」
「無理かなって。私は無理かなって思う」
「そっか」
弱気な私の言葉を聞いた彼女は、罰が悪そうに俯き、視線をそらした。
「ごめんね、私の目算が甘かった。私も、あんなに裕太さんが料理できると思ってなかった。もっときちんとリサーチすべきだった」
謝るように、彼女はそう告げる。
涼香のせいじゃない、と。私は首を振る。
「もっと私が料理が上手なら。あるいは、もっと。……いいや、そもそも私がこうじゃなければ」
「お姉ちゃん!」
どんどんと思考が卑屈に回ってしまっていたところを、涼香が強い言葉で制止する。
「そっちの言い訳は、しないようにしようって」
「うん、そうだね……」
そう私が謝っていると、彼女は私に寄り添うように近寄ってきて、服の端をキュッと掴む。
そうして私の胸に頭突きするように身体を押し付けて。
「私が、私が必ずお姉ちゃんの居場所を作るから。お姉ちゃんが傷つかなくていいようになる、安全な居場所を」
祈るように繰り返すその言葉を受け止めながら。私は涼香のことを抱き寄せる。
「大丈夫。大丈夫だから。お姉ちゃんは、私が守るから」