#15 今日の夕飯はカニ玉です
「それじゃ、今日は帰るね!」
そう言った美琴さんは、夕飯くらい食べていけばいいのにという裕太さんの言葉に「さすがにそこまで厄介になっちゃうと、返すどころか負債が積み上がっちゃう」と、笑って断っていた。
そうして、メイド服から着替えて元々着ていた制服に身を包んだ彼女が帰ろうとしたところで、裕太さんがせめて駅まで送ると、強引についていっていた。
「それで、ついていかなくてよかったの?」
裕太さんが美琴さんと出ていってしばらく。私が夕飯の準備をしていると、茉莉さんが声をかけてきた。
言葉の意味はわかるが、それを気にかけられる理由がわからない。どういうことだろうと首を傾げていると、茉莉さんが言葉を続けてくれる。
「いや、ほら絢香さん、いつも裕太についていこうとしてるでしょ? だから今回はついていかなくてよかったのかなって」
「ああ、それなら今は夕飯の準備をしているので」
ボウルに割り入れた卵をかき混ぜながら、その中身を茉莉さんに見せる。ちなみに今日はカニ玉のつもりだ。
とはいえ、まあ、ついていきたいというのはもちろんなのだけれど、今は美琴さんが隣にいるわけだし、私だって仕事があるからそちらを優先するべきかな、
と。そんなことを思っていると、
「いやほら……なんていうか、今、私たち不本意ではあるけど、いろいろあって競争する立場にあるわけでしょ?」
「まあ、そうですね。……その節については涼香が」
「いやいや、別にこれというほど迷惑に思ってるわけじゃないし、むしろ……いや、これはいいか。そんなことよりも」
ビシッと、指を突きつけられる。
「今、同じく競争相手の美琴さんが現在ふたりっきりで裕太と歩いているわけですが、ついていかなくてよかったのかなって」
「はっ!」
失念していた。
「まあ、そんなことを言い始めると、前回美琴さんが来たときも同じ状況だったわけだけども」
「そういえばっ!」
なんであのときに気づかなかったんだろうか。……いやまあ前回も今回も、裕太さんにその間に夕飯作っておいてくれと頼まれて、それに気を取られていたのもあるとは思うけど。
形がどうあれ、ふたりきりで裕太さんと美琴さんが歩いているわけで。これは明確なアピールの場ができているのに等しい。
「というか、それをわかってたのなら茉莉さんがついていってくれればよかったじゃないですか!」
「いや、それは恥ずかしいっていうか。ちょっと気が引けるっていうか。さすがに絢香さんみたくヤバい行動に移す勇気はなかったかな……と」
それなら仕方がないか。肩を落としながら、ともかく一旦は自分の仕事に集中しようと料理を再開する。
……ん? そういえばさっき、なんかしれっとどこにでもついていこうとしてる私がヤバいやつみたいな扱いされてるような気がするんだけど。気のせい?
「まあ、絢香さんがいいのならそれでいいや」
「いや、よくはないんですけどね?」
とはいえ今からではどうすることもできない。
次からはついていくべきだろうか。いやしかしそれはそれで断られてしまいそうだ。あくまで駅まで美琴さんを送るだけなわけだから、そんな大人数で行く必要もないだろうし。私たちの誰かが代わりに行くというのでは本末転倒だろう。
もちろん勝手についていくということができないわけではない。しかし、不可能ではないものの前科一犯の状態で、なんならそれ自体つい最近やってしまった立場からではさすがに破らない方が吉だろう。
ぐぬぬ……と、これ以上どうしようもない状況にやきもきしていると、茉莉さんが声をかけてくる。
「それはそうと、なにか手伝うことない?」
「えっ?」
「だから、今夕飯の準備してるんだよね? なにか私に手伝えることないかなって。……ほら、いちおうは私もメイドなわけだから、なにかするべきかなと」
そう言われて納得する。涼香は基本的にはゴロゴロしているが、代わりに茉莉さんのメイド服を仕立ててくれていたわけで。
そういう意味では、茉莉さんはほとんど仕事をしていない状況なわけで。まあ、裕太さんがそもそも茉莉さんに仕事を振ろうとしていないというのも事実なのだが。
曰く「茉莉は巻き込まれでそういう立場になったわけだから、無理になにかを頼むのはなあ」とのことらしい。私にばかり仕事を頼んで悪い、と謝りながら話してくれたときに聞いた話だった。
ちなみに涼香にも振ろうとしていないが、こちらは純粋に普段の態度があれだから頼むのも違う気がする。とのことらしい。もちろん代わりの仕事をしていたのは事実だけど……ううむ、ちょっと態度については改めるように言うべきだろうか?
でもまあ、自分からなにかしようとしてくれているのに対して断るのも違うだろう。裕太さんだって無理に頼むのは、ということだったし。
「それじゃ、手伝ってもらってもいいですか?」
「了解。それでなにすればいい?」
「じゃあ茉莉さんはレタスを千切って水で洗ってもらってもいいですか?」
「わかった」
そう言って、彼女は隣に並んで言った仕事をしてくれる。定期的に出来た、と成果を見せてくれ、次になにをするべきかを尋ねてくれる。
誰かと一緒に料理なんて、滅多にすることでもなかったので、ちょっと楽しい。
「それじゃあ茉莉さんは次は……」
「ね、ねえ、絢香さん」
途中、次の指示をしようとしたときに声を遮られた。なんの用かと待っていると、彼女は少し恥ずかしそうに口を開いた。
「なんていうか、友達という過程をすっ飛ばして同じ家で過ごすって、すごく距離感近い関係になってしまっているけど、過程はどうあれ一緒に仕事して一緒に暮らしてるわけだからさ。その……」
もじもじ、と。恥ずかしがりながらに、彼女は言う。
「同級生なわけだから、その、さん付けはちょっと他人行儀すぎるかなって」
まあ、涼香ちゃんにはさん付けどころかなぜか呼び捨てされてるんだけどね、と。彼女は苦笑いしながらにそう言っていた。
「あっ、もちろん学校では名字にさん付けでいいよ! で、でも家の中だけなら――」
「茉莉ちゃんっ! あっ、それなら私のことも好きに呼んでくれていいからね!」
私は嬉しくなりながら、ちゃん付けで彼女の名前を大きく叫んだ。
彼女の手をぎゅっと掴むと、茉莉ちゃんはしどろもどろしながら「あ、絢香……ちゃん?」と、言ってくれた。
嬉しくなって握る力を思わず強めてしまう。痛かったのだろう、彼女が顔をしかめてしまって、やっと気づいてパッと手を離す。
「ご、ごめんね! つい!」
「大丈夫大丈夫、これくらい」
そう言って、改めて茉莉ちゃんは次の作業を聞いてくれる。
私が指示を回すと、それに従って動いてくれる。決して彼女の手際がいいとは言えないが、それでも一緒に、それもお互いにちゃん付けで呼びたい間柄の人と一緒に料理をしているという事実がとても嬉しく、楽しかった。
学校ではちゃん付けで私が呼ぶことはあっても、呼んでくれる人はひとりとしていなかった。私自身の人付き合いが苦手なのが理由なのはわかっているが、それでもちょっと寂しかった。
それが、茉莉ちゃんに呼んでもらえて。それから私が呼ぶことも許してくれて。それがこの上なく嬉しくて。
そうして。結局昨日とそんなにかけた時間こそ変わらず、しかし昨日よりちょこっと豪勢な夕飯が出来上がった頃に、ちょうど裕太さんが帰ってきた。
彼は私たちの呼び方が変わっていることに最初は驚きこそしたが、しかし、仲がよくなったのだろうと、すぐに嬉しそうにしてくれていた。
ふふん。いつもよりも幾ばくか上機嫌な気分のまま、私はふたりで作った料理をテーブルに配膳することにした。
夜道をこうして美琴さんと歩くのは2度目、というわけではなかった。
部活で帰りが遅くなって、そのまま途中まで一緒に帰ることはあった。
だというのにどうしてか。今回ばかりはなぜだかちょっと恥ずかしい。
未だに美琴さんに関してはどうしようもない先輩という認識は抜けていない。しかし、変な方向性とはいえ関係性が発展してしまったからだろうか。今まで一度も気にしたことがなかったのに、誰か知り合いにこれを見られたらどうしよう、と。そんなことを考えてしまう。
ちらりと隣を見てみると、とても満足げに、楽しそうに歩いている美琴さん。
楽しそうなのは、いいこと、だよな?
人の気も知らないで、という個人的な感情はとりあえず端に置いておいて。
「本当によかったんですか? 正直未だに美琴さんが正気であの判断をくだしたとは思ってないんですけど」
「……まあ、たしかに自分でも正気の沙汰ではないと思ってるよ?」
あっ、そうなんだ。というか、自分でそれ言っちゃうんだ。
「ただ、ね? とはいえ私が君になにかしてあげたいって気持ちは本当だし、けれど君にはお世話をしてくれる人が3人いて。なら、私だって同じになるべきなんじゃないかなって」
「いや、それならそれで別にそこまでしなくてもいろいろできたでしょう?」
「まあ、それはそうなんだけどね」
美琴さんはそう言うと、前を。いや、もっとどこか遠く。空に浮かぶ星や月を眺めながらに、言葉を続ける。
「ちょっとは、私だってあの子たちに負けたくないって気持ちはあるんだよ」
「――ッ!」
言われて、心臓がドクリと跳ね上がる。果たしてそれがどういう感情から言われたものなのかはわからないが、しかしどうして、勘違いをしてしまいそうになる。
俺も彼女と同じく遠くの空を見つめ、どうにか美琴さんに己の顔を見られないようにする。沈まれ、と必死で感情を抑えてみるが、どうにも顔の紅潮は収まりそうにない。
「だからね、私も君のメイドになることにしたんだ。そのためには正気かどうかなんて些細な問題でしょう?」
「いや、全く以て些細な問題じゃないと思いますけどね!? 正気はしっかりと保ってほしいんだけど!」
「正気だよ! 少なくとも今は!」
堂々と宣言をされるが、どうにも信じがたい。だってこの人、人の家にメイド服持ってきて、着たんだよ? それもついさっきまで着てたんだよ?
とはいえ、それを受け入れてしまった俺も、正気ではないだろうが。
「と、に、か、く! ……安心していいよ。私はちゃんと、気の迷いでもなんでもなく、自分のしたいこととして、君のメイドになったんだから」
駅が近づいてきて。タッタッタッと、美琴さんは少し先行する。
クルリと回ってこちらを向いて、ニコッと笑う。そんな仕草にかわいいと思ってしまい、カッと顔が熱くなる、
「その判断自体は正気じゃないかもだけど、そうしたいって思う私の気持ちは、本気だから!」
そうやって、言うことだけ言い切って、彼女は「じゃあねっ!」と手を振り、駅の中へと駆け込んでいった。
「ほんっと……っ!」
やりたい放題やるだけやって。……本当に、嵐のような人だ。
未だに熱の籠もったままの顔を片手で抑えながら、大きくため息をつく。
言いたいことや、言いたいこと。それから言いたい文句がいくらかあるが。けれど、とりあえず今はいいや。
それでも、嬉しいと思ってしまっている自分がいるから。
もうすっかり春ではあるが、それでも少し肌寒く、夜風はちょうど顔から熱を奪ってくれる。
「……帰るか」
その場で立ち尽くしていたしばらく。顔の熱が収まったところで、気持ちを切り替えて帰路につく。
今までならば、適当にコンビニに寄って弁当を買うところだったが、寄り道せずに真っ直ぐに家に帰る。
出るときに絢香さんに頼んだから、きっと着く頃には出来上がっていることだろう。
奇妙なきっかけで始まった変な関係で、正直心労のほうが大きいといえばそのとおりなのだけれども。
けれど、そんなことを考えると少し足が軽くなる。ちょこっと嬉しく思えてくる。
今日の夕飯はなにだろうか、なんて。そんなことを考えたのはいつぶりだろうか。