#108 失望されるよりも恐ろしいこと
「視線も、欲求も。全部俺だけに向けてくれ。俺なら、大丈夫だから。耐えられるから」
遊園地の通りを、彼女の手をしっかりと握りながら進む。
寒気がする。絢香さんが俺の発した言葉どおり、俺に全てを向けてくれているのだろう。
湧き上がってくる嫌悪感に。それは作り出されたまやかしだと、無理やりに抑え込みながら歩く。
理性と本能は、俺の思考からかけ離れた指示を出してくる。理性は、彼女から離れろ。本能は、彼女を殴れ。
俺は無理やりにそれらを抑え込むと、状況を打開するために、なんとか考えを回す。
絢香さんが被虐を引き起こしている。涼香ちゃん、及び絢香さん本人から聞いた話では、これは絢香さんが孤独を強く感じたときに、それを紛らわせるために他者からの負の感情を向けてもらう、というものだ。
だからこそ、本来ならば俺がするべきことは彼女の隣に居続けて、そしてここにいる、大丈夫とそう伝え続けること。
なのだけれども。
とにかく、ひとまずはある程度落ち着けるところに行かないと。
なんとか彼女の手を引きながら。遊園地の端っこ、ちょっとした路地へと入り込む。
とは言っても、カモフラージュされただけのスタッフ用出入り口なので、人通りのある道からさほど遠ざかったりしているわけではない。
けれど、人の目につきにくいだけ、他の場所よりは幾分かマシだろう。
「ごめん、なさい。裕太さん……」
「大丈夫。大丈夫だよ。俺はここにいるから」
謝り続ける絢香さんに向けて。俺は、ただひたすらにここにいる、絢香さんはひとりじゃない、ということを伝えていく。
……やはり。以前の被虐と比べて、違うところがある。
彼女の発している雰囲気については変わらずなのだが。しかし、例えば絢香さんの言動であるとか、そういったところが一致しない。
それで言うなれば、今回は被虐が引き起こされた環境についてもイレギュラーと言っていいだろう。俺が――知り合いが隣にいたというのに。
しばらく、彼女の隣に居続けると。だんだんと、雰囲気が落ち着いてくる。俺の方の感情も、同じように平常を取り戻してくる。
おそらく、絢香さんが自身を取り戻してきたようだ。もう少しもすれば、たぶんここから移動しても大丈夫だろう。
「……裕太さん、ごめんなさい」
しかし、それでもなお。彼女が口にしたのは、変わらず謝罪の言葉だった。
時間的にも丁度の頃合いになってきたため、お昼ごはんを食べるために園内にあるレストランへと向かった。
それぞれ食事を前にしながら対面しているものの。やはりというべきか、空気が重たい。
絢香さん自身、先程のことをかなり重く感じてしまっているのだろう。加えて、涼香ちゃんから送られてきたメッセージのことを加味すると、おそらく相当に考え込んでしまっている。
「…………」
なんとかして彼女の背負っている重荷を少しでも軽くしてあげたいのだが、下手なことを言うとむしろ負担になりかねない。
そのためにも、言葉は慎重に選ばないといけないだろう。
少し、先程のことを立ち返って考えてみる。
被虐が引き起こされたのだから、絢香さんは孤独感を感じてそれを埋めたがった。おそらくそこに間違いはない。
じゃあ、なぜ俺が隣にいたというのに、そんなふうに感じてしまったのか。それが、おそらく今解決すべき一番の疑問点だろう。
涼香ちゃんから送られてきたメッセージのことを思い起こしながら、考えを巡らせてみる。
絢香さんは今、俺を不幸にするのではないか、と。そういうことで不安に思っている。一緒にいることが原因で、俺になんらかの不都合が起こるのではないか、と。
そう考え、なおかつ、そうならないように、ということばかりを最大限優先していくのであれば、どうするのが回答になりうるのか。
そんなものの答えは考えるまでもないだろう。……離れる、というものが該当する。
「離れる、か」
さっきの状態は、たしかに俺がすぐそばにいた。だけれども、もしかすると、そのときに絢香さんは今俺が思っていたようなことを考えていたのかもしれない。
そして、仮にそうだとすると。……ああ、たしかに。すぐそばにいたとしても、孤独だ。とてつもなく、寂しい。
そう考えていくと、いくつか疑問が氷解していく。絢香さんの被虐時の言動が、以前のそれと違ったというところも。
ずっと隣に居はしたから、完全にひとりぼっち、とまでは感じていなかったのだろう。だからこそ、以前よりかはいくらか雰囲気がマシだったし、そのおかげで路地まで逃げ切る時間が稼げた。
また、ひとりぼっちじゃないけど、孤独。という矛盾した環境が影響してか、絢香さん自身、被虐に身を委ねたところと、なんとか心を保ったところと、ふたつの想いが共存していたのだろう。
加えて、俺がすぐさま彼女の異変に気づくことができるほどの距離にいたということもあり。絢香さんが自分自身をなんとか保った状態で。彼女が被虐に呑み込まれるよりも先に、手を取ったり話しかけたりと対処を行うことができた。
しかし今回はこうしてすぐさま対処を行うことができたが。その一方でこのままではかなり危険である。
今回起こっていたことを総合して考えるなら、以前までであれば絢香さんから大きく離れることなく、存在が十分認知できる範囲。あるいは、連絡手段を使って頼ることができるというような状況下であれば被虐が抑え込めていた、というものだったはずなのに。それがそうして対策できる範疇から飛び出してきたということになる。
これを放置してしまえば、いつか絢香さんが、俺や涼香ちゃん以外の前で被虐を引き起こしてしまうかもしれない。
これが茉莉や美琴さんであれば、まだギリギリなんとかなるかもしれない。絢香さんや、あるいは涼香ちゃんと事前に相談した上で、このふたりにあらかじめ周知しておけばそこまで問題にはならないだろう。
なにせふたりに関しては、絢香さんの欠点だの弱点だの、そういうことを伝えたとしても今更という話だ。それくらいには親密に付き合ってきている。
ここで問題になるのは、それ以外の人たちの前で引き起こしてしまった場合だ。例えば直樹や雨森さんをはじめとするようなクラスメイトであるとか。
俺がすぐそばに控えていて、その場で誤魔化しつつ対処できるならいいのだが。しかしそんな都合のいいときばかりではない。
もっと悲惨なのは、彼女のことを尊敬、あるいは敬愛している人たちに見られてしまったときだろう。
彼女の、高校内での人気については考えるまでもない。
そしてその人気の理由の一端として、絢香さんの纏っている空気感がある、ということも間違いない事実だった。
俺や茉莉なんかの前では表情豊かに感情を表現してくれている絢香さんだが、学校内では全くの逆。ほとんど表情は変えず、冷静に淡々と物事をこなす。
氷の女王様と呼ばれることもある彼女には、ある種の敬意を以て接されており。そしてそこに求められているのはある意味では「完璧な新井 絢香」という人物像だ。
その始まりを考えると複雑なものがありはするものの。とはいえ、絢香さんはそういうようにして周囲の人と接していき、そして成功した。
成功は、した。なんなら、そこに孕んでいるミステリアスさといった要素などに関しては、彼女自身へと周囲の人たちが深く踏み込むことを躊躇わせる要素として成立しており、ある意味での利点にすらなってはいた。
だがしかし、そこには大きな弱点と、そして、彼女自身を蝕みかねない制約とがあった。
これらの絢香さんに向けられている周囲からの感情は、そのほとんどが期待に依るものなのだ。
だからこそ、それが喪われたとき。作り上げられた虚像と、それによる立場は崩れ去り。そこにはひとときの失望が生まれる。
いや、失望でさえ絢香さんにとっては彼女自身へとそれが向くだけマシだろう。問題なのは、その後。失望の先にあるもの。
興味の喪失。早い話が、気にされなくなる、ということが彼女にとってこの上なく恐ろしいことであり。
そして、絢香さんの引き起こす被虐が彼ら彼女らに見られてしまった、知られてしまった際には。そうなってしまう可能性が十二分にあるのだ。
それだけは、回避しないといけない。
「ねえ、絢香さん」
「どうしましたか?」
「いや、お昼ごはんのあと、どこか行きたいところはあるかな? って、そう思ってさ」
俺がそう尋ねると、やはり少し暗い顔をしたままで彼女は少し考えてから。俺の好きなところならどこでも、とそう言ってくる。
そう言われるのは、想定どおり。絢香さんの元の性格からしても、今の彼女の心境からしてもそうだろう。
「なら、俺は行きたいところがあるんだけどさ。付き合ってもらってもいいかな?」
昼食後。裕太さんに連れられるままに遊園地を移動して。
途中、どこに行くんですか? と、そう尋ねてみたものの、彼からは、ただ、内緒、とだけ。
裕太さんは、私の手を握って、優しく引いてくれている。
先程の一件があってから、昼食のときなどのやむを得ないときを除いて、彼はずっとこうして手を繋いでくれていた。
おそらくは、私が寂しさを感じないように、と。そうしてくれているのだろう。
少し恥ずかしくも感じるけれども。それ以上に嬉しさと、暖かさと。なにより、安心感がそこにはあった。
自分でも、まさかこんなところであんなことをしてしまうだなんて思ってもみなかった。
ただひたすらに寂しくて。ただひたすらに寒くって。
それが嫌で、嫌で、嫌で。気づいたときには気づいた裕太さんが必死に私に呼びかけてくれていた。
そのおかげもあって私はなんとか自分を保ち続けることができて、遊園地に似つかわしくない声や行為が発生することはなかった。
だがしかし、それと引き換えに。裕太さんには精神的負担を強いたことだろう。それだけでなく、せっかくのデートだというのに、その時間も使い潰してしまって。その上、空気感もとても重苦しくなってしまった。
裕太さんはなんとか明るくしようとしてくれていて。私もそれに乗りたいという気持ちはありはするのだけれども。どうしても、それよりも先に申し訳なさなどが勝ってしまって、うまく感情が起き上がらない。
そうして暗いままでいるということ自体が、よくないということは把握してはいるのに。
「さて、そろそろ着くかな」
裕太さんがそう言ったのを聞いて、私は顔を上げる。
その行為をして。やっと自分が自然と下を向いていたのだということを認識する。
「なんていうかさ。こういうのは夕方とか夜とかにロマンチックであるとか、キレイであるとか。そういうイメージのあるアトラクションではあるけどさ」
そこにあったのは。見上げるほどに大きな、円盤状のアトラクション。
「観覧車……?」
遠巻きから見ることはあっても、こうして間近で見るのは初めてだった。真下から、ということもあるのだろうけど、頂上が見えないくらいに遠く感じる。
「昼間だからさ。こう、そういった雰囲気にはなりづらいかもしれないけど。それでもよければ、一緒に乗ってくれないかな?」
彼は少し照れくさそうに頬をかきながら、そう言う。
元より、彼の行きたいところについていくと決めていたし、特段これと言って断る理由もないため。私はそのままに頷いた。
私が同意したことに裕太さんは短く感謝を述べて。
そしてどうしてか、握る手に、ほんの少し力が籠もっていた。
決して痛いというわけではないのだけれども。
「それじゃあ、行こうか」
裕太さんは、そう明るく笑いかけてくれながら、優しく手を引きながら、観覧車へと歩き出した。