#106 賭け
「……わかった」
茉莉の放った言葉を。私は否定するでもなく、肯定するでもなく。ただ、真っ直ぐに受け取った。
この様子を見る限り、茉莉を説得するのは無理だろう。まあ、そんなことは最初からわかりきっていたことではあるけれど。
「ふたりが、絢香ちゃんを助けたいって思ってるのは理解した。でも、私はそれには賛同できない」
私や美琴さんがお姉ちゃんを助けようとしていることを知った彼女は。きっと、おそらく以前に増して、お姉ちゃんが復活してこないように妨害してくることだろう。
茉莉に対して、こうして面と向かって話をするのは時期尚早だっだろうか? ……いや、どちらにせよ彼女はジリジリとお姉ちゃんと裕太さんの距離を広げていっただろう。どのみちそうなれば、ゲームオーバーだ。
けれど、こうして話したおかげで、お姉ちゃんがおかしくなった原因は理解できた。併せて、どうすればいいのかも理解できた。
「だから……って、どうしたの涼香ちゃん。急にニヤニヤと笑って」
「……ん、なんでもない」
私の口角が上がっているのを見て、茉莉が不審がった。それはそうだろう。この話の流れで笑うのは突拍子もなさすぎる。
でも、思わず笑わずにはいられなかった。
私はおもむろにスマホを取り出すと、メッセージを書き込む。
そして、ひとしきり書ききって、送信。
「なにをしてるの?」
「ちょっと、裕太さんに連絡。……ああ、安心して。今の茉莉の話を密告したとか、そういう話じゃない。どちらかというと、デートの指南とか、そっちに近いような話」
「いや、それにしてもなんで今そんなことを……」
不思議そうな顔で、茉莉がこちらに視線を向ける。
彼女の立場からしてみれば、その疑問は適当なものだ。なにせ、茉莉はひとつ大きな勘違いをしている。
だから、今までの話と、今の私の行動に、関連性がないものだと思い込んでいる。
そこの勘違いのない美琴さんは、なんとなくなにをしているのかは察している様子だった。
「私にやれることはやった。ここから先は、正直、賭けになる」
「賭け? それってどういう……まさか!」
どうやら、茉莉も私の考えていたことにやっと気づいたらしかった。
茉莉は、ひとつの勘違いを抱えていた。今回の件について、絡んでいるのは私と美琴さんだけだということ。
今回、お姉ちゃんと裕太さんは。この話を聞かないようにするために、ただ追い出されただけだと思っている、ということ。
しかし、実際には――、
「もしかして、裕太も気づいてる……?」
「お姉ちゃんの違和感については、そのとおり。その原因が茉莉だというところまではさすがに気づいてないけど」
……良くも悪くも、今回、お姉ちゃんのことを助けられるのは。裕太さんただひとりだろう。
私でも、美琴さんでも。元凶の、茉莉でもなく。裕太さん、ただひとりだ。
そして、現在。裕太さんはお姉ちゃんを助けるために動いてくれている。
つまり、このデート自体が、お姉ちゃんを助けるためのひとつの計画。
実質的に最初で最後の、唯一のアクションとなってしまったけども。
そうなるだろう、とも思っていた節はありはするものの。ふたりをデートに送り出しておいたことにより、なんとか首の皮一枚繋がった。
どうやら、いちおう運はこちらに向いているらしかった。
私が裕太さんに送ったのは、このデート中にお姉ちゃんを助けてあげて欲しい、というそのメッセージ。
今回のデートに関わることなのだから、いちおう指南ということで嘘はついていない。
併せて、現在のお姉ちゃんが抱えているであろう問題についても、軽く説明を付記しておいた。原因がわからなかった以前とは違って、これならば裕太さんが動くことができるはずだ。
方法については彼に任せるしかないが。……きっとうまくやってくれると、そう信じてる。
そして。私と美琴さん。そしてなにより裕太さんがなにを企んでいるのか、ということを察して。茉莉はバッと、慌てて立ち上がる。
ここまでずっと冷静でいた彼女が、初めて焦りを見せた。
しかし、そんな彼女の前に、私と美琴さんが立ち塞がる。
「茉莉の相手は、私たち」
「ごめんね茉莉ちゃん、さすがにここは通せない」
「…………」
ギリッと、歯を食いしばりながら。彼女はなにも言わず、立ち尽くす。
「まだ、まだ終わらせない。なにひとつ、諦めさせない」
私の放った言葉に、茉莉はギュッと拳を握りしめ、そのまま諦めたように元のように座る。
今から、ふたりの邪魔をしに行くことはできないと理解したのだろう。
タイムリミットは、このデートが終わるまで。
私と美琴さんによる茉莉の抑え込みが利くのは、それまでだ。
もしもこれを過ぎてしまったなら、彼女は今回のように私たちの話に付き合うこともないだろうし、うまく取り入って、お姉ちゃんから離れないだろう。
もちろん、その理由は、裕太さんから引き離すため。それを許してしまうと、私たちにはもうどうにもできなくなる。
だからこそ、お姉ちゃんへ茉莉が関わることができない、今が最初で最後のチャンス。
取り返しがつかない、一発勝負。
まるでかなり危険な賭けのように聞こえるし、実際問題そうあることは事実ではあった。
しかしその一方で、リターンが大きいのも事実だった。
今回の話を聞いて、確信した。お姉ちゃんが精神的に塞ぎ込んでしまっているその理由が、裕太さんを不幸にするかもしれないという思い込みなのであれば。
返していえば、その不安さえ取り去ってしまえば、諦める理由もなくなる。
なんならむしろ、茉莉からお姉ちゃんへの妨害の手段を失うことにも繋がり、成功さえすれば、ほぼこちらの勝ちになる。
だからこそ、賭けるのだ。
裕太さんが、このデート中に。お姉ちゃんのことを助けてくれると、そう信じて。
私たちは、待つしかない。
「遊園地とか、初めて来たかもしれない」
「裕太さんもなんですか? 実は私もで」
涼香から半ば無理矢理気味なかんじで押し付けられたチケットで訪れたのは、電車で1時間ほどのところにある遊園地。
大都市にある有名なものではないものの、家族連れや学生の友人グループ。あるいは、男女ふたりでやってきている姿でそこそこ賑わっている。
……まあ、今の私たちもその例に漏れず。男女ふたりきりでやってきているので、傍から見ればカップルのように見えるのだろうけれど。
ふと、そんなことを自覚したら顔が熱くなってきそうな気がして。慌てて、ここが外だと思い直し、いつものとおりに平静を装う。
「でも、その。……裕太さんは、本当に私と一緒でよかったんですか?」
「それはあれか? 抜け駆け云々の話をするなら話をしてないだけで同衾してるから他の人に譲るべきなんじゃ、みたいな?」
「ちっ、違います!」
からかわれて、同時、その時のことを思い出してしまって、また身体が熱くなってくる。
さっきのこともあって、ただでさえ冷静でいられそうにないのだから、やめてほしい。
裕太さんはというと、はははっといたずらっぽく笑いながら。わかってるよ、と。
「別に、絢香さんが嫌だなんてことは俺にとってはないよ。むしろ嬉しいくらいだ。だから、絢香さんがいいのなら、俺は一緒にいたいんだけど」
こういうことを言うあたり、やはりわかっていない。けれど、それも裕太さんらしいところだろうと、そうも思う。
「……そう、ですか。私も裕太さんと一緒に来れて、嬉しいです」
「そっか。それなら俺たちで来たことに、なんの問題もないな!」
優しい笑顔を振りまいて、裕太さんは暖かく接してくれる。
これがこの上なく心地よくて、そして恐ろしい。
「その、裕太さん……」
「うん? どうしたの?」
質問が、喉まで出かかって。しかしそこで言葉が引っ掛かる。
そのままうまく出てこずに、やっぱりなんでもありません、と。そう笑ってごまかしておく。
裕太さんの性格上、手紙を受け取って読んでいないなんてことはないだろう。
あれを読んだというのに、変わらずこうして優しく接してくれている裕太さんは、いったいあの手紙に対してどう思ったのだろうか、と。
彼のその気持ち、想いに触れてみたいけれど、それがこの上なく怖い。
聞きたいけれど、聞きたくない。真逆の気持ちが板挟みに私の動きを縛っていく。
「とりあえず、適当に回りながらアトラクションに乗ってみようか」
入り口付近にいつまでもいても仕方がないと、そう言いながら、裕太さんは私の手をとってくれる。
暖かで、大きくて。安心する手。いつか、私が自分を喪ったときにも、握ってくれて、ただ、ここにいるということを教えてくれた、この手。
――離れたくない、離したくない。
そんな感情が、どうしても湧き上がってきてしまう。
キュッと、締め付けられるようなそんな感覚に少し身体が強張って。そのせいか、動き出しが少し遅れてしまう。
手を引いてくれたのに、私が歩き出さなかったためか、不思議に思った裕太さんは、その足を止めてこちらに振り返る。
首を傾げながら私の顔を見つめる裕太さんは、なにかに気づいた様子で、柔らかに微笑んで。
そして、そっと。私の口元に、優しく触れた。
「ふぇっ!?」
「あ、ごめんね。……でも、うん。こっちのほうがいい」
驚く私に、しかし裕太さんはそのまま指先で口角を押し上げて。そして、笑顔を作る。
「絢香さんが外ではわざわざこうしてるってのはわかってるんだけどさ。でも、今日くらいは好きに笑って、好きに楽しんでもいいんじゃないかな。お互い、初めて来た遊園地なんだし」
「好きに……?」
「そうそう。嫌なしがらみとか、考えたくもない懸念とか、今日だけは取っ払っちゃってさ」
きっと、裕太さんからしてみれば、なんてことはないただの提案。私がなにか思い悩んでいるようだから、そんなことは気にせずに楽しもう、と。そういう意図だったのだろう。
「まあ、そんなこと言っても。ここは高校からそんなに離れた場所にあるわけじゃないから、もしかしたら見知った人がいるかもしれないけど……」
裕太さんは少し困り顔でそう言う。たしかに、その可能性は十分ある。
「では、そのときは裕太さんが私の顔を隠してくださいね?」
「え? ……あ、ああ、任せてくれ!」
やや戸惑いながらも、彼はそう答えてくれる。
おそらくは、裕太さんも私と同じで、その行為に微塵の意味もないことは理解しているのだろう。
私の顔は、かなり知れている。私たちが同じ高校の生徒がいる、と察知するよりも早く、おそらくは向こうが気づくだろう。
それに、仮に裕太さんが庇ってくれたとしても。その裕太さんも、私のせいで顔が知れてしまっている。……申し訳ないことに、悪い方の意味で。
ついでにいえば、そんなふたりが連れ立って遊園地に来ているのだから、厄介事にしかならないだろう。
でも、裕太さんはそれでも。それを理解した上でも、私のことを守ってくれる、と。
だから安心して、一緒に楽しもうと。そう言ってくれる。
「そうですか……」
ああ、もう。……本当に、この人は。
私のことを、助けてくれる。
私の周りを取り囲み、がんじがらめにしようとしてきたものたちが。割り砕かれ、消え去ったような。そんな感じがして。
腕も、脚も。軽く、動きやすくなった。
そうだ。せっかくのデートなのだ。それなのに、変なことで思い悩んでいては、一緒に来てくれている裕太さんにまで、余計な心配がかかり、十二分に楽しめないだろう。
今なら。……少なくとも、今だけなら。
しがらみも、懸念も。心配も、不安もたくさんある。
けれど、今だけは。そういったものを忘れて、解放されて。
彼が、それをしてもいいと、そう保証してくれたこのデートの中でなら。
「ええ、わかりました。……それならたくさん、楽しみましょう!」
心の底から、笑ってもいいのかもしれない、と。そう感じた。