#105 彼女の抱える感情の名は
結局、俺に対して事前に告知されたのはお出かけをするからその準備と心構えだけしておいて、という最初のものだけで。たとえばどこにいくだとか、特にどういったものが必要になるかとか、そういうことについては聞くことはできなかった。
まあ、俺や涼香ちゃん。あと、美琴さんが共謀して動いていると絢香さんに悟られないためにも、俺があんまり知りすぎているというのも好ましくないのだろう。
「……で、今なんて言ったの、涼香ちゃん?」
そうしてついにたどりついた、土曜日。朝早くから珍しく涼香ちゃんのやる気が満ち溢れている、と思えば。突然に集合をかけられた。
そしてそこには、こちらも珍しく、朝っぱらから美琴さんも集まっていた。おそらくは涼香ちゃんが予め呼んでいたのだろう。
「ん、さっきも言ったとおり。内容は特段変わらない、もう一度だけ言う」
そう言いながら、涼香ちゃんはふたたびその手に持っている紙切れをピッと見せながら、フフンと鼻を慣らして胸を張り。
「ここに、たまたま手に入った遊園地のチケットがある。これを、裕太さんにあげる」
「お、おう」
「たまたま偶然、このチケットはペアチケット」
「……それで?」
「お姉ちゃんと一緒に行ってくるといい」
ひとまず、どう考えてもたまたま手に入ったとか、偶然ペアチケットだとか、そんなことはないだろう。……とは思うものの、そのあたりについてツッコむことはしない。
涼香ちゃんが計画のために、わざわざ用意してくれたものだろう。で、あるならばその計画に協力することを決めている俺としては、そのチケットをありがたく頂戴すればいいのだが。
そこに、意外なところから横槍が刺さってくる。
「それなら涼香ちゃんのチケットなんだし、涼香ちゃんが行けばいいんじゃないの?」
茉莉が、そう至極真っ当な立場からツッコんでくる。
そう。チケット2枚あるから1枚あげる、までなら自然な流れなのだが。そこから、もう1枚を絢香さんにあげて、ふたりで行ってくるといい、になると不自然になる。
いいや、これが別な立場の人間からであれば、俺に好意を寄せている絢香さんをアシストするために、というように取れなくもないのだが。こと涼香ちゃんが行っているとなると、話が変わる。
わざわざ、いくら姉妹とはいえ。曲がりなりにも恋敵である相手に対して、そんな特大の塩を送るのか、という話になる。
しかし、それを絢香さん自身が言うのではなく、茉莉が言うとは少し驚いた。
いや、元々そういうところのツッコミ役が誰だったか、というと茉莉が役割として近かったのだが。しかし、最近はその傾向も弱まりつつあったので、ちょっと久しぶりに見た気がする。
……まあ、茉莉もなんだかんだでツッコまれる側の立場が増えてきたので、下手にツッコミにくくなった、というような理由であろうが。
「私は都合の悪いことに、ちょっとやらなきゃいけないことがある。その関係で、美琴さんにも来てもらってる」
「……ふーん」
どこか納得がいっていないような、煮えきらない返事をして。茉莉ほ目を半分伏せる。
たぶん、なんらかの計画なりがそこにある、ということを。確証はなくとも直感で感じているのだろう。明らかに茉莉は、疑ってかかっているような、そんな視線だった。
ただ、幸いにも絢香さんはというと。
「えっ、えとっ。私が、裕太さんと……?」
自分のことで手一杯になっており、そういったことに気づいていないらしいという様子だった。
とりあえず、一番バレてはいけない人にはなんの疑りもかけられていないようでよかった。
「でも、それなら私が行ってもいいんじゃないかしら」
茉莉が、ピシャリとそう言い切る。
涼香ちゃんと美琴さんは、諸用。となると動けるのは絢香さんと、そして茉莉がいる。
そうなると、彼女の言うとおり別に茉莉でもいいのだ。
だがしかし、涼香ちゃんはその質問に想定どおりだと言わんばかりに、ニイッと笑ってから。
「茉莉は、少し前に裕太さんとデートしたばっかり」
と。
「ついでに言っておくと、美琴さんは海での宿泊。私は文化祭でのデートがある。となると、順番的に次の抜け駆けはお姉ちゃんの番になるのは妥当」
ふふん、と。涼香ちゃんはそう自慢げに説明してみせる。
実際には、絢香さんは絢香さんで同衾とかいう、実はこの中でも一番ヤバい抜け駆けをやらかしているのだけれども。わざわざこの場でいらぬ火種を投げ込む必要性も、涼香ちゃんが用意しておいてくれた論を破る必要性もないので、そっと心の中に留めておく。
「……そうね。たしかにそうかもしれない」
どこか不服そうに、茉莉がそう引き下がる。
その様子は、まるで絢香さんを行かせたくないというような、そんなふうにも見えた。
「そういうわけだから、はい。このチケット」
涼香ちゃんから、2枚のチケットを手渡しされる。
「お姉ちゃんのこと、よろしくね?」
その言葉は、表向きには言葉どおりの意味合いで。
しかし同時に。絢香さんの抱えている現状をなんとかしてきてくれ、と。そんな意味合いをも同時に孕んでいた。
裕太さんとお姉ちゃんを送り出して。家の中には、私と美琴さん。そして茉莉の3人が残った。
「さて、それじゃあ裕太さんが頑張ってくれている間。私たちもやることを、やる」
くるりと振り返って、後ろに立っていた彼女と相対する。
ジッと彼女のことを見つめていると、少し不機嫌な声でなに? と、聞かれる。
「もしかして、ふたりのことを追いかけようとか思ってた?」
「……否定はしない。でも、そんなことはさせてくれそうにないわね」
今朝の話し合いの段階で、なんらかの違和感は抱いていたであろう彼女だが。こうして改めて私が敵意を顕にしたことで、茉莉は改めて、持っていたそれを確信へと切り替えていた。
「やることがあるって言ってたけど。……手芸部関係のなんらかじゃないの?」
「私は、別に手芸部関係のことだとはひとことも言ってない。やることがあって、その手伝いで美琴さんに来て貰ってる、とそう言っただけ」
「……たしかに、言ってないわね」
記憶をそらで思い返しているであろう茉莉。その後ろには、いつの間にか美琴さんも控えてくれていた。
「ということは、逆に言うと涼香ちゃんと美琴さん。ふたりでなにか仕組んでたってことなのね」
「……概ね、それで正しい」
厳密には裕太さんも噛んでいるのだけれど。ここでそれを言うと、彼女は今からでも裕太さんたちのことを追いかけていってしまうかもしれない。
それならば、わざわざバカ正直に言わなくても問題ないだろう。
……今回、裕太さんとお姉ちゃんをデートに行かせたのは。お姉ちゃんのことを裕太さんに任せる、という目的もあった。
しかし、それはあくまで目的の半分であり、もう半分は、そのふたりをこの家から追い出すこと。
もう少し正確に言うならば、私と美琴さん。そして茉莉の三人だけの状態を作る、という目的があった。
「それで。ふたりして、私になんの用事なのかしら」
ジッ、と。彼女の瞳を真っ直ぐに捉えて。
お前の相手は、私だ、と。そんな気持ちを込めて。
「茉莉に、聞きたいことがある。……具体的には、お姉ちゃんのことで」
茉莉は案外、素直に付き従ってくれた。
というよりは、なんとなくこうなることを察していた、と言ってもいいかもしれない。
「……まあ、裕太はともかくとして涼香ちゃんや美琴さんにはさすがに隠せていないとは思ってたけど。思ったよりも早かったわね」
どこか浮かないような、暗い面持ちのままで。茉莉はそう切り出す。
実際には裕太さんも気づいてはいるのだけれども。これも同様、今言う必要性はないだろう。
「ふたりが聞きたいのは、絢香ちゃんの様子についてよね」
私も美琴さんも、その言葉に声を返すわけではなく。ただ、静かに頷く。
「最初に謝っておくわ。ああなったのは、私が原因。……それと、もうひとつ断っておくと、ふたりの懸念してるようなことはないから安心して」
「……えっ?」
「たぶん、私が絢香ちゃんにやったように、ふたりに対してもするんじゃないかって、そんなことを思ったんじゃないの? それに関してはやらない、というか、やれないから心配しないで」
たしかにそれは私や美琴さんの懸案事項だった。茉莉が本気を出してきた結果、お姉ちゃんがノックアウトされてしまった、というのが私たちふたりの共通見解で。それならば同じくやられてしまう可能性があるのではないか、と。
しかし彼女はそれについて、やらない、ではなくやれない、と言った。
「それは、どうし――」
「どうしてか、ってことを聞きたいみたいね。……それについては、私が絢香ちゃんになにをしたのか、ってことを話したほうが早そうね」
暗い表情を変えないままで、茉莉は淡々と話を続ける。
「私はただ、絢香ちゃんに対して。裕太を不幸にするつもりかどうか、と。そう尋ねたのよ。言葉は違うけどね」
「……えっ?」
私と美琴さんの声が重なる。たったそれだけか、と。
言葉が違う、表現が異なる、ということだからそこが肝要である可能性もなくはないが。しかし、返して言うならば話の内容根本自体は大きく変わらないとも言える。
「まあ、加えて説明のために彼女には裕太の抱えている事情も話したけど。逆に言うと、本当にそれだけしかしていない」
茉莉は、ハッキリとそう言葉を言い切る。
その表情からは迷いや後悔という感情こそ取れなくはなかったが、しかし、嘘をついているということはなさそうだった。
「……ちなみに、なんでそんな話をしたの?」
「絢香ちゃんが、裕太にとって大きすぎる負担に見えたから、かな」
それについては涼香ちゃんのほうが詳しいんじゃないの? と。茉莉がそう尋ねてくる。
その言葉で、少なくともひとつのことを確信する。やっぱり、あのときの推測どおり、お姉ちゃんがバスに乗り遅れて茉莉が迎えに行ったとき。お姉ちゃんは被虐を発動させていたのだ。
そして、それを茉莉に見られた。
その後の経過としてなにもなかった、裕太さんからもその場で気づくほどの違和感がなかった、というあたり。おそらくは茉莉は必死で抵抗してくれたのだろう。
そして思い知った。裕太さんがお姉ちゃんを守るために、本能と理性を抑え込むために。どれだけ苦しんでいたのかを。
そして、茉莉はお姉ちゃんに投げかけたのだろう。
裕太さんを、不幸にするのかどうか、というその質問を。
「……その質問で絢香ちゃんがこうなったってことは、たぶん自分でも、裕太のことを不幸にするかもしれないってそう思ったんでしょう」
お姉ちゃんなら、間違いなくそう思うだろう。
そうして行き着いた先が――今も私のポケットに入っているこの手紙だったということだ。
「私だって。できるならこんなことはしたくなかった。絢香ちゃんは大切な友達だし、それでいて、恋のライバルだとも思ってた。……でもね、私にとってはそれ以上に大切なことがある」
茉莉はその拳を握りこみながら。決意のこもった声で。
「裕太が幸せであること。それが、なによりも。私が彼と結ばれるよりも、なによりも大事。だから――」
ゴクリ、と。美琴さんは唾を飲み込み。私は汗がタラリと流れる。
以前から、彼女の抱えている裕太さんへの想いがただの恋情ではないとは感じていた。もちろん、恋情はたしかにあるし、なんならそこから発展した感情であるとも思っていた。
だがしかし、今、確信した。彼女の抱えているその感情の名前――正体を。
「絢香ちゃんが裕太を不幸にするのなら。私はその恋路を、なんとしてでも阻止する」
これは。狂気的とも言えるほどの、狂信だ。




