#104 優しさが深く刺さって
ひとり。裕太さんの家に先に帰ってきた私は。がらんどうの家の中で、静かに息をついた。
「……あれは、少し露骨だったかな」
終礼のあと。話しかけられた裕太さんがなにかを言うよりもはやく、私は適当に言葉を並べて、その場から立ち去ってしまった。
けれど、そうする他なかった。私にとって、今の裕太さんの存在は、あまりにも毒だった。
「いっそのこと、突き放してくれればそれが一番なんだけれど」
裕太さんの性格上、そんなことをはしてこないだろう。
自身の気持ちを押しとどめておくと決めてから、しばらく。身体と想いとが締め付けられるかのような痛みを覚えつつ過ごしながら。そんな中で一番苦しいのは、裕太さんと関わるときだった。
理性も感情もが、彼を求めている。それを圧し殺すのが、いかに辛いことか。
「それにしても、裕太さんの様子は、変わらないままだな」
件の手紙は、涼香を通じて裕太さんへと渡してもらった。だからこそ、辞退については彼も知っているはずだ。
もしかしたら、衣服争奪戦からの辞退が意味するところを察し切れておらず、単純に私がいらない、という報告をしたかのように受け取られているのかもしれないが。
「もし、そうじゃないのなら。……ちょっと、嫌だな」
諦めたはずの恋心だろう、と。そう自身を叱りつけてはみるものの。複雑な感情が湧き上がってくる。
曲がりなりにも半年以上もの間、生活を共にして。そしてことあるごとに行為を伝えてきたつもりだったのだが。それでもなお、彼にとって私の存在は、それほど大きなものにはならなかったのだろうか、と。そんなことを考えてしまう。
「……だめだ、だめだ」
首をふるふると横に振りながら、考えを頭の中から追い払う。
あれからというものの、卑屈なことを考える傾向が強くなっている気がする。今だって、そのひとつだ。
現在地が未だ玄関で立ち尽くしたままだということに気づいて。ひとまず、靴を脱いでリビングに行く。
夕方にはまだ少し早いこともあり、電気をつけずとも、差し込む日の光で仄かに明るい。
気持ちを落ち着かせようと、とりあえずソファに座り込んで。
ジッ、と。自身の手を見つめる。
「私が、裕太さんのことを、殺すかもしれない」
宣告されたその言葉は、納得を以て、私の身体の中へと取り込まれてしまった。
違うといくら叫んでも、私の中にそれを肯定してくる私がいて。
白磁のように真っ白いはずのその両の手に。ときおり、真っ赤な色が染めつけられているように幻視してしまう。
そのたびに、息が詰まるようなそんな感覚に襲われて。
「……ッ!」
学校では、なんとか平静を保とうとして。今のところは維持できている。
家でも、可能な限りは抑え込めている、はず。とりあえずは、他のみんなの前で、こうして動揺しているところは見せていないはず。
しかし、今のようにひとりになったときには。どうしようもなく、抑えきれず。息を荒らげ、心拍の加速を留められなくなることがしばしば起こっている。
「諦めないといけないのに、諦められない……」
この痛みの正体は、明らかだ。
この苦しみの正体も、明らかだ。
「諦めたく、ないよ……っ!」
もう、全てが手遅れだというのに。卑しくも、浅ましくも、醜くも。私は、己の気持ちに踏ん切りがついていなかった。
乖離する様々な感情が涙と嗚咽として溢れてくる。こんな姿、裕太さんに見られたら、余計な心配をかけてしまう。……いや、裕太さんだけじゃない。涼香や、美琴さん。そして、茉莉ちゃんであったとしても、それに変わりはないだろう。
今日ばかりは、ひとりで先に帰ってきて。そして、今ここにいるのが私ひとりだけ、という状況でよかったと、そう感じた。
他の人が帰ってくるまでに、気持ちに整理をつける。その猶予がある。
そんなこんなで、なんとか気持ちを収めつつ。いつもの私に戻ったくらいの頃合いで。
ガチャリ、と。玄関のドアが開く。
ああ、裕太さんが帰ってきた。出迎えに行かないと、と。そう考えは働いたものの、しかし、やっと身体と考えとが自分に戻ってきた、というようなタイミングだったため、うまく動けず。
「ただいま。……って、どうして電気もつけないで、暗いままの部屋にいるの?」
裕太さんが、パチンとリビングの電灯をつけて、ソファに座ったままの私を見つけて、そう言った。
考え事をずっとしている間に、時間もかなり経ってしまっていたようで。季節柄もあり日の入りが早くなった夕方は、帰宅頃はまだ明るかった室内を、真っ暗に変えていた。
慌てて私は立ち上がって。そのせいもあってか、少しふらついてしまう。
裕太さんはそんな私に急いで駆け寄って、身体を支えてくれて。大丈夫か? と、そう尋ねてくれる。
……本当に、優しい人だ。
痛いほどに。
「すみません、少し考え事をしていたら、いつの間にか。……そうだ、夕飯。作らないと、ですね」
そもそも、それを口実に早く帰ってきたはずなのに。結局、裕太さんが帰ってくるまでなにもしていなかった。
裕太さんの後ろからは涼香がひょこっと顔を出してきて、どこか心配そうな顔でこちらを見つめてくる。
……うん、これは、私の失態だな。
「とりあえず、私、着替えてきますね!」
「あっ、ちょっと! ……いや、そういう問題じゃないと思うんだけど」
引き止めようとしてくれた裕太さんに、私はいつもどおりの笑顔を顔に貼り付けて、その場から一旦立ち去る。
彼としては、心配から来た行動なのだろうが。今の私の状態を鑑みるなら、実際には放っておいてくれる方が助かる。
彼の優しさが、棘となって、どんどんと食い込んでしまっているから。
その絡みつき、深く刺さり。離れられなくなるその前に。
部活が終わって、今日は美琴さんはそのまま帰ったので、涼香ちゃんとふたりで家に帰っていると。
「……あれ、暗い」
「それが、どうかした?」
家に、明かりが灯っていなかった。
絢香さんが先に帰ってきているはずなので、てっきり明かりはついているものだと思っていたのだが。まるで屋内に誰もいないかのように、暗く、静まり返っている。
「いや、絢香さん。買い物に行ってるのかなって、そう思ってさ」
急を要するほどに不足している日用品は、なかったはず。もしかしたら、夕食の食材になにか足りないものがあったのかもしれないけれど。基本的には絢香さんはそういうときはなにかしら代用することのほうが多いのだが。まあ、どうにも代用が利かなかったのだろうか。
なにか、変な感じを覚えつつも玄関の前にたどり着き。鍵を取り出して差し込んで。
「……あれ?」
鍵の回る方向が、逆な気がする。違和感を覚えてそのままに鍵を引き抜き、ドアノブに手をかけると、捻り、そして。
「鍵が、開いてる」
そのままに、引き、開けることができた。
違和感の加速する中で、そのままリビングに向かう。
なんらかの気配を感じつつ、扉を開けて明かりをつけると。
そこには、ソファに座ったままの、絢香さんがいた。
なにか、嫌なものを感じ取りつつ。ぞくり、と。背筋が凍るような感覚を感じながら。
そっと、絢香さんへと近づく。
彼女は、少しふらつきながらも。どうしたのかと尋ねた俺の言葉に、考え事をしていたら時間が経ってしまっていた、とそう答えた。
そして、夕飯の準備をするから、その前に着替えてくる、と。そう言って、立ち去ってしまう。
「そういう問題じゃないと思うんだけど」
そんな俺の言葉は、聞かないままで。
今の絢香さんは、夕飯を作るのを忘れていたから、今から作りますね、とか。そういうことをしている場合ではないと思う。
最近、彼女の様子についてはおかしいとは思っていたが、今の彼女については今までのどの状況よりも、見て「おかしい」とはっきり感じ取れた。
立ち上がったときに、思わずふらついてしまっていたり。真っ暗な中でただただずっと考え事をしていたり、ということももちろん、その中のひとつの理由なんだが。
それらよりも、なによりも。
「……涼香ちゃん。俺は、正直あんまり化粧について詳しくはないからさ、確かめたいことがあるんだけど」
「なんです?」
「目元の化粧が崩れる理由って、涙以外に、なにがある?」
絢香さんは、ほぼナチュラルメイクで。決して厚化粧ではない。特に平日、学校に登校する日に関しては、その傾向が強い。そのためもあってか、パッと見では化粧をしているようには見えない。
けれど、彼女の身体を支えるために近づいたその一瞬。接近した彼女の顔。その、目元の化粧が、ほんの少し、崩れていた。……いや、正確にいうなれば、化粧をしていることが、わかりやすく見て取れた。
彼女の性格も相まって、丁寧に整えられた化粧だからこそ。崩れて滲み、色が少し移動したそれが。色が濃く見えたか、あるいは薄く見えたのか。そのどちらかなのかまではわからなかったが。
しかし、至近まで顔が近づいたこともあって。崩れていることだけは、気づくことができた。
「無いことはない。たとえば、目元を強く擦れば崩れることはなくはない。……でも」
「結局それも、状況としてはそこまで変わらない……か」
擦るだけなら、眠気などによるものも考えられるだろうが。絢香さんがわざわざそこを隠す理由もないだろう。
「なあ、涼香ちゃん。とりあえず、ひとまずの行動として、どうすべきだ?」
「……いつもなら、縛り付けてでもお姉ちゃんのことを引き止めるほうがいい。でも、今回は状況が複雑すぎる」
そう。それについては、俺も同意見だった。
ただ、本来取るべき行動と真逆のものになる。だからこそ、俺よりも彼女について詳しい涼香ちゃんにも、いちおう認識の確認をとったのだが。どうやら、間違っていないようだった。
「お姉ちゃんの性格を鑑みると。今の状況で下手に干渉すると、いろいろと気を使った挙げ句、全部自分の内側に押し留める」
「だろうな。……つまりは、なにもしない、が正解か」
「うん。解決策が見つかっていない今のところは、それ以外にやれることが、ない。お姉ちゃんのやりたいように、させるのが一番いい」
もどかしいが、下手に引き止めたり。あるいは言及したりすることなく、流すのが最善、というわけだ。
目の前で苦しんでいることが明らかだというのに、なにもできないというこの現状に、自身の無力さを感じる。グッと拳を握りこみ、歯を食いしばる。
「……でも、私たちだってなにもしないわけにはいかない」
ぽつり、と。涼香ちゃんがそうつぶやく。
「お姉ちゃんのやりたいことを遮るのは得策じゃない。でも、あくまでいつもどおりのテイで、こちらからなにかアクションを起こすことはできる」
絢香さんに勘づかれてしまったら、彼女がよりうちに閉じこもってしまうのであれば。彼女に気づかれない範疇で行動すればいい。
理屈としては正しいが、しかし、それは言葉以上に難しいことだろう。
「できるのか? そんなこと」
「……たぶん、できる。そのためには、裕太さんの協力が必須だけど」
ここまで来て、その前提条件を気にするのは野暮だろう。答えの選択肢は「はい」か「イエス」しか残っていないのだから。
「ん、それじゃあ、こっちも準備しておく。だから、裕太さんも準備しておいて」
「了解。……って、なんの準備をしておけばいいんだ?」
詳細を言われなければ、準備のしようがない。協力は惜しまないが、やり方がわからなければどうしようもない。
そんなふうに俺が彼女に尋ねると。涼香ちゃんはニイッと、小さく笑って。
「早ければ今週末。少なくとも、来週末かな。おでかけの準備を、しておいて」
「……おでかけ?」
涼香ちゃんのその言葉に、俺はただ、首を傾げた。




