#100 ハッピーエンド
出前のピザを囲みながら、主に涼香ちゃんと美琴さんが騒いでいた。
裕太はというと、やはり絢香ちゃんの様子が気になるのか。みんなの会話に混ざりながらも、ときおり視線と気持ちが廊下の方へと向いていた。
「ねえ、裕太」
「うん? どうしたんだ茉莉」
「絢香ちゃんのこと、好き?」
私がそう尋ねると、彼は思わず吹き出しかけたのを必死に抑えながら、急になにを、と。
「なんでまたそんなことを急に?」
「んー、まあ、なんとなく、かな? これでも、私も裕太のことが好きなひとりだから、やっぱり気になるっていうか」
もちろん他の理由もありはするが、当然それを彼に言うわけもなく。
適当にはぐらかしながら、私は彼に質問を続けた。
「まあ、好きといえば好き、かな。……難しいところなんだが」
「へぇ、それはまたなんで?」
「好きなのは間違いない。ただ、その好きって感情がはたして恋情から来ているのかがわからないと、そう思ってな」
裕太の語ったその言葉に、私はだいたいを察した。
要は、裕太と絢香ちゃんの距離感が近すぎたのだ。体裁上の関係性はメイドだと言っているが、生活を共にしている現状で。なおかつ、家族という存在に飢えていた裕太からしてみれば、彼女の存在は一種の家族のようなものになっていることだろう。
だから、好きという感情は存在していても。それが恋情から来ているものなのか、あるいは親愛の類から来ているものなのか、とあうことの判断が難しくなっている。
そしておそらく。私を含む他の3人についても、彼からは同じような答えが返ってくることだろう。
私が、それに対して小さくそっか、と呟くと。裕太は少し困ったような表情をして。
「いや、こんなことを相談しちまって。悪いな」
「ううん、いいよ。そもそも私から聞いたことだし」
それに、まだ裕太が絢香さんへの恋情をハッキリと自覚していないということがわかって、少し安心した。
今なら、裕太も絢香ちゃんも。まだ離れられる。
絢香ちゃんにとっては、とてつもない痛みを伴うものだろうが。とはいえ、まだ間に合う。
裕太も、気づく前であれば悲惨なことにはならないだろう。痛む心はあるだろうけど、万が一のことを思えばよほどマシだ。
「私は、裕太が幸せになってくれれば。それだけで嬉しいから。……だから、悲しい結末にだけはならないように、してね」
「お、おう? もちろんそのつもりだが」
なにやら戸惑った様子を見せながら、裕太はそう反応する。
……そう。決して私が選ばれる必要はない。ただ、ひとつ。絢香ちゃんだけ、選ばれなければそれでいい。
涼香ちゃんでも、美琴さんでも。彼女が選ばれさえしなければ。
あるいは、彼女が自ら、戦線から身を引いてくれるのならばそれに越したことはないだろう。
そうすれば、私にとっての目標までたどり着ける。裕太を守り、幸せにするという。私にとっての幸せな結末に辿り着ける。
だからこそ。
もしも、あなたがまだ立ち上がってくるというのであれば。私はそれを、全力で邪魔をする。
私だって、できるならばそんなことはしたくはない。裕太にとってもそうであるように、私にとってもこの共同生活で絢香ちゃんへの情は湧いている。湧いてしまっている。
こんなことをしておいてもなお、絢香ちゃんと仲のいい友達でいたいというのは。私の自分勝手な願望だろうか。
けれど、そうありたいとも願ってしまうのだ。
だから。……どうか、そのまま身を引いてほしい。おとなしく、諦めて欲しい。
裕太の隣でそんなことを考えていると、ふと、視線が向けられていることに気づく。
「…………」
涼香ちゃんが、なにやら言いたげな様子でこちらに視線を向けていた。
その視線は、私と裕太との間を行き来しているようだった。
どうしたの? と、声をかけようとしたとき。それよりも先に、明るく、大きな声で美琴さんが割り込んでくる。
「裕太くんも、茉莉ちゃんも! 早いもの勝ちだよ! 早くしないと、この照り焼きチキンマヨ、なくなっちゃうよ!」
どうやら先程から私と裕太の食指が止まっていたことに、美琴さんがそう指摘してきたようだった。
「あー……すみません。ちょっと、気になることがあるので、みんなで食べちゃっててください。俺は、余り物でいいので」
「えっ、裕太くん!? そんなこと言うと、私遠慮なく食べちゃうよ? 照り焼きチキンマヨ」
裕太がそのままに廊下へと出ていくと、美琴さんは手元にあるピザを眺めながら、美味しいのに……と小さくこぼしていた。
小走りで、裕太は廊下へと駆けていった。
その背中を見送りながら、私は聞こえないくらいの小さな声でつぶやく。
「後悔のないように。不幸な結末にだけは、ならないように。ね」
あなたにとっての幸せが。私にとっての幸せな結末なのだから。
裕太さんたちの居た空間から、自室へと逃げ込んで。
「……っ! はあ、はあ」
心臓が、嫌にバクバクとはやっていた。
なんとかそれを落ち着けようとしても、どうにも収まってくれない。
その理由は、明白だった。
あの場での茉莉ちゃんの宣言。あれは、茉莉ちゃん自身が他のみんなと同じ立場になった、ということの共有に聞こえるだろう。……私以外にとっては。
いや。実際、私にとっても同じように聞こえた。ただ、その言葉の意味するところが、みんなと私とでは大きく違った。
あれは、はっきりとした宣戦布告であり。同時に、私に対する警告だったのだろう。
修学旅行の晩。彼女は、私に向かって言った。
もしも私が裕太さんのことを殺すつもりなのなら、茉莉ちゃんは、それを邪魔するしかない、と。
私はそれに、肯定も、否定もできなかった。
けれど、その時。間違いなく私の中に、それもいいかもしれないと思ってしまった自分がいて。
きっと、その時の茉莉ちゃんは、それをハッキリと確信したのだろう。そして同時に、心に決めたことだろう。
私の恋路を、邪魔するしかない、と。
入り口の扉に背を預けて。キュッと握りこんだ左手に、右手を添える。
拳は、小さく震えていた。
どうすればいいのか、わからない。
どうするべきなのか、わからない。
しかし、自覚をしてしまった以上。裕太さんに合わせる顔が、ない。
私は、私は……、
脳裏によぎるのは、茉莉ちゃんの姿、行動。
彼女は、いつだって裕太さんのために動いてきた。それは、裕太さんと、そして茉莉ちゃんと過ごしてきたこれまでの日常を振り返れば明白だった。
裕太さんの幸せを願うのならば、彼はそういう人と一緒になるべきかのかもしれない。そして、私はそうなるように応援すべきなのかもしれない。
「でも、諦めたくはないよ……」
けれど、彼女に宣告されたその言葉は。間違いなく事実だろう。
このままに私と裕太さんが一緒になれば、まず間違いなく私は裕太さんに依存する。
裕太さんも、頼ってくる私のことをおそらく拒まないだろう。だからこそ、そのままにズブズブと沼に浸かっていってしまう。
そうした先にあるのは、茉莉ちゃんの言うとおり。
――あまりにも甘美で、安寧で。抜け出すことのできない地獄だろう。
そして、そんな地獄に。私は魅了されてしまった。
けれど、それはあくまで私の事情。私だけの、事情だ。
裕太さんを、巻き込むわけにはいかない。しかし、それはつまり。
裕太さんへのこの想いを、諦めることと同義だった。
想像するだけでも悍しいその選択肢に。しかし、既に若干手遅れになっていることを自覚していた。
私がそれを悍しく思うのは。既にその地獄に片足を突っ込んでしまっているからだ。
暖かな温もりを知ってしまっているから。それを求めてしまって。また、喪うのがこの上なく恐ろしいのだ。
「この気持ちを、どうにかするには。やっぱり……」
そう、ひとりごちたその瞬間。
コンコンコン、と。背中を預けていた扉から、突然にノックの音がした。
「ひゃあっ!?」
「うお、すまん。驚かせたか」
突然のことに私が思わず声をあげると、扉越しに裕太さんの申し訳なさそうな声がした。
「いえ、その。……大丈夫です」
「そうか、それならいいんだが」
裕太さんがいるであろう扉の方に、私は改めて向き直る。……扉を開けて、面と向かって話をするべきなのだろうが、今はそれをできるような精神状態ではない。
私が扉を開かないことに、裕太さんもなんらかの理由を察してくれたのか。彼はそのままに話を続けてくれる。
「その、絢香さんが大丈夫かなって。ちょっと気になってね」
「ええっと、夕食については気にしないでください。先程も言ったように、お昼が少し多くてそんなにお腹が空いていないので」
これは、嘘ともそうじゃないとも言い切れない、微妙なところだった。
実際量は多めではあったものの、じゃあ今お腹が空いていないのかというと、減ってはいた。
あそこで嘘をついたのは、ただただあの場に居るのが苦しくなって、逃げてくるためについただけの理由付けだった。
けれど、裕太さんからの返事は少し違ったところにあった。
「いやまあ、それについても気にはなってたんだけどね。気になってたのはちょっと別なところで」
「別なところ、ですか?」
「うん。その、今日の絢香さん。ちょっと様子がおかしかったから、大丈夫かなって。お土産屋さんでのこともそうだし、さっきのことも。絢香さんらしくないなって、そう思っちゃって」
彼のその言葉に。私はギュッと握りつぶされたような、そんな痛みを感じた。
私からの返答がないことに、裕太さんは慌てて「らしくないって、じゃあらしさってなんなんだよって話だよな」というように、ややおどけた様子で誤魔化して。話の話題を逸らそうとしてくれる。
けれど、この件について。悪いのは裕太さんじゃない、私なんだ。
裕太さんのその言葉が、まさしく図星で。
そして、それを明らかな形で受け取られてしまうほどに。ひどい応じ方を私はしていたのか、と。そう痛感してしまったのだ。
「その、なんていうか。俺になにができるかはわからないけどさ。もしもなにか必要なことがあったら手伝うから。そのときは遠慮なく言ってくれよな」
「ありがとう、ございます」
やめてくれ。そんな優しい言葉を、今の私に投げかけないでくれ。
「むしろありがとうは俺のほうが言う言葉だからな。いつもいろいろと手伝ってくれて。そして、一緒にいてくれて。すごく助かってる」
「ふふっ、そう言っていただけると。私としてもありがたいです」
今の私が欲しがっている言葉を、的確に伝えないでくれ。
後が、どんどん苦しくなるだけだから。
「……まあ、そういうことだから。俺はリビングに戻るね」
事情を察してか、あるいはそうでなくてか。互いに表情までを確認することができないこの状況では定かではないが。トントントン、と足音がして、そのままに裕太さんは去っていく。
彼が去り切ったことを確認して。私はそのまま脱力して、その場に座り込む。
辛さが、痛さが。涙としてこぼれ落ちていく。
本当に。察しが良くて、それでいて察しの悪い人だ。
「覚悟を決めないと。これ以上、苦しくなる前に」
これ以上、裕太さんへの想いが積み上がって。それを振り切るのが難しくなる前に。
「……そういえば、アレについては、あらかじめ断っておかないと」
今の私に、アレを貰う資格なんてない。苦しいけど、悔しいけど、貰っちゃいけない。
もしものことがあったときに、裕太さんの作ったものが無駄にならないように。先んじて、断っておかなくちゃ。
ああ、でも面と向かって話せる自信が。少なくとも今の私には、ない。
……仕方ない。手紙にしたためて、涼香には内容を伏せて、持っていってもらおう。
「そういえば、涼香はなんて呼んでたっけ。たしか、ものすごい名前だったのは覚えているけど」
グッと記憶を掘り起こして、名前を思い出す。うん、やっぱりすごい名前だ。
事情を知らない人が聞いたら、勘違いを引き起こしそうなものだ。
そんなことを思いながらも、私はなんとか机へと向かい、便箋とペンを取る。
筆が、重たい。書きたくない。
けれど、書かなければいけない。それが、どれほど嫌なことでも。それが、果たしてどんなことを意味することだとしても。
間違いが起こってしまうその前に。裕太さんへの気持ちを、諦めないと。
ペンを置く。……決して、長い文章ではない。けれど、書くのにとてつもない時間と体力とを要した気がする。尋常じゃない疲労感が、身体を蝕む。
でも、まだこれで完成ではない。私はやっとの思いで便箋を封筒の中に入れる。
「……っ!」
嫌だ。入れたくない。渡したくない。伝えたくない。……諦めたくない。
身体が、必死に抵抗している。理性も、本能も。行動を止めようとしてくる。
けれど、私はそれらを事実で押し潰す。こうしなければ、いけないんだ。
そうして私は、手紙に封をする。……あとは、涼香に持っていってもらえれば、完了だ。
ヒロインレースからの、辞退の手紙を。