隠し事
「お寿司でも食べに行こうか」
養父と喧嘩をしたあと、母は決まって私にこう言った。そして駅前の商店街にある小さな店へ連れて行く。
「特上二人前」
必ず母はこう注文する。
東北の山育ちの母は寿司が一番のご馳走だと信じて疑わない。我が家の食卓では寿司などめったに出ないから、私もこのときばかりは胸も踊る。
「あ、一つはサビぬきで」
母が慌てて付け加えた。
× × ×
六歳のとき私は実の父を事故で亡くした。以来、母は女手一つで私と兄の二人の息子を育てることになる。昼はダンボールの再生工場に勤め、夜は近所のアイス工場の倉庫で働いた。
山育ちの母は体力には自信があったようだが、このような働き方には流石に限界を感じたようだった。その姿を見兼ねて昼に勤めていた会社の社長から、東京で運送業をしている人と再婚してみないかと言われた。
「お父ちゃん、欲しくない?」
あるとき母が私に訊ねた。まだ小学校にも上がっていない当時の私は、やはり父親は欲しかった。だから考えもなしに「ほしい」と答えたのだ。
私のその一言で母は再婚を決意した。
再婚相手は母と同じ年で三つになる娘がいる。これから養父となるその男は、何度か娘を連れて遊びに来た。女の子は私たちを見ると親指をくわえながら自分の父親の背中に隠れる。
娘など育てたことのない母だったが、この子をことのほか可愛がっていた。
母が再婚をすれば私たちは東京で暮らすことになる。私はまだ見ぬ東京という街に多少なりとも興味があった。
しかし、この母の再婚が適切であったのかどうかは分からない。確かに世間では父親がいないよりはいた方が良いだろう。でも、お互い子連れで再婚をすれば何かしら問題も出てくるものである。テレビのホームドラマのようにはうまくいかない。
一緒に暮らすようになって一月も過ぎると、母と養父はよく喧嘩をするようになった。その原因の殆んどが養父の連れ子のことである。
私は母と養父の喧嘩を目の当たりにする度に、また母と兄と三人で暮らしたいという思いを抱いた。
私の実の父はかなりの酒飲みだったが、この養父もまたそれに劣らぬ酒豪だった。喧嘩をするときはいつでも酔っている。
その日も娘に関する母の愚痴からもめた。養父は夕食の膳をひっくり返し、母の頬を張る。そして娘を連れて家を出てしまう。大概は近所にある行き付けの赤提灯である。そこで顔見知りの客に愚痴をこぼし、既に眠ってしまった娘を抱えて帰って来るのが常だった。
× × ×
「今日は活きのいい鮑が入ってるよ」
寿司屋の店主が母に言った。
「あら、美味しそうだね。じゃあ、それ下さいな」
母は嬉しそうに微笑み、そっと私の耳元に口をもって行き、
「内緒だよ」
と、呟いた。