自決
時代が変わり、自分自身で何かを決める必要がなくなった。
今日の献立も、就くべき職分も、その生き方さえも。
著しい医学の進歩に合わせ、人は衰えない生き物となった。
死ぬ(はずだった)ほどの傷を負っても、直ぐに仰々しい治療用の機械が飛んできて、命を救われる。健康状態を表す数値に異常が生まれると、間もなくその情報が発信されるのだ。
そういう社会になってから、「問題」というのはどんどん無くなっていった。
ほとんどのことを機械に任せ、物好きが暇つぶし程度にそれらを管理する。
生産性は格段に向上し、食糧やエネルギーにも不安を持つことが無くなった。
そして、安定した生活が保障されることで、犯罪もなくなった。
あるいは、誰も彼も、他者に対する関心が絶えた結果として、国家間でも個人間でも「平和」が実現されたのかもしれない。
そして、私は「ヒト」が「人」で無くなるのを感じていた。
或る日、私はたった一人の知己であるノエル博士の家に招かれた。
ノエルは、こんな世界でも何かに興味を持ち、能動的に生きていた稀有な「人」だった。
「やぁノエル。急に呼び出してどうしたんだ」
「あぁ。来てくれてありがとうな」
彼は少しだけ顔色が悪く、疲弊している様子だった。
「実は、これを送って貰ったんだ」
そう言って、彼は引き出しから一丁の銃を取り出した。
「君、それは」
銃の形をしているソレは、国のマークが刻まれた「自決装置」と呼ばれるものだった。
「……そういうことだ」
国家は、もとい、神は、私達に一つだけ「決定」をする権利を与えた。
老いることがなくなったこの世界で、自分自身を「終わらせる権利」である。
「なんでまた急に……」
私は、彼を止めるべきかどうか、という前に、彼と話をしたかった。
「お前なら分かっているだろ?」
彼は、澄んだ目で私をじっと見つめた。
「こんな社会になってから、何を食べても美味くないし、何をしても楽しくない!」
家の前を通った巡回ロボットの音で、彼は我に返って言葉を続けた。
「俺の世界から、色がどんどん消えていくんだ」
見たことがないほど感情的な彼の前で、私は立ち尽くしていた。
「終わり方ぐらいは自分で決めたいんだ。許してくれ、友よ」
焦燥し切ったノエル越しの窓には、完璧な青空が見えた。
しばらく沈黙が続いてから、私は無理矢理目を細めて、笑って見せた。
「……それが君の望みなら、私は何も言わないよ」
その言葉を聞いて、ノエルは少し驚いてから、ホッとしたような顔をした。
「恩に着るよ」
彼は、「自決装置」の電源を入れた。あの世への案内音声が流れる。
「……私は去った方がいいかい?」
「どちらでも構わんさ」
私は、深く息を吸ってから、自分の荷物を抱えた。
そして、家の扉の前まで来て、「じゃあ」と言った。
準備を進めるノエルは、応えるように「あぁ」と言った後、
「お前が、俺を俺たらしめる全てだった」
とボソッと呟いたのが聞こえた。
ノエルの家からの帰り道を歩いていた。
便利な移動手段はいくらでもあるが、できるだけ遠回りをして、歩いて帰りたい気分だった。
今更になって、彼と出会ってからの思い出が浮かんできた。
最後にいつ働いたか分からない涙腺が緩んでしまった。
苦しいのか、悲しいのか、胸が痛む。
すると、空を飛ぶ機械が私に寄ってきた。
「アナタノ心拍数ニ微少な異常ヲ検知シマシタ。大丈夫デスカ?」
誰もいない道で、機械音が悲しく響いた。