116話・アナタが欲しい
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一体どの程度の時が経過したのか。
体内時計の秒針は延々と回り続け、休まずに注がれる快楽によって時間と空間の概念があやふやになる。
自分が今、何処に存在しているのか分からない。
自己と世界の境界線は溶け合い、この世全ての刺激が快感に強制変換されて『魂』にぶつかる。
何も感じない筈なのに、快楽だけは感じてしまう。
肉体が、心が喜んでいる。
この世界に留まりたいと声高に主張していた。
最早、肉体と精神は乖離寸前。
だけど……僅かに、本当に少しだけ残った理性が、肉体と精神を繋ぎ止める鎖になる。
耐えろ。
魔法は万能の奇跡では無い。
何らかの対価を支払って成立する、一時的な虚像。
どれだけ強力な魔法でも、弱点は存在する。
例えば、魔力。
術者の魔力が尽きれば、強制的に解除される。
あと何秒、何分、何時間耐えればいいのか分からないけど……俺はこんなところで、終われない。
会いたい人が、沢山居るのだから。
「……」
「……っ! まさか、そんな……!」
女の声が聞こえる。
戸惑っている様子だ。
同時に、隠し切れない歓喜の吐息。
「貴方様……なのですか? ワタクシが命を預けるに値する、どんな幻にも屈しない……強く逞しい、強靭な殿方は……!」
瞬間、視界にヒビが入る。
何もない虚空に走る亀裂。
ボロボロと金メッキが剥がれ落ちるように……夢幻の世界は徐々に崩壊していく。
嘘で塗り固められた現実が、消える。
時を同じくして復活する、俺の意識。
仮初めの魂は、本物の魂へと転換する。
「……う、あ、れ……? 俺、何を……?」
パチリと目蓋を開ける。
最悪の寝起きだが、頭の中はスッキリしていた。
海の底に落ちた金塊を拾い上げるように……俺は忘れかけていた記憶を取り戻す。
そうだ、俺はベリィーゼにメイド服を着せて遊んだ後……彼女を部屋に帰して、眠ろうと思った。
けど直前にノックがして、扉を開けたら使用人の女……変装していたラプチャーの術中にまんまと嵌り、奴の作った幻に囚われていた……と、思う。
「……俺の、部屋?」
幻の世界に閉じ込められていたのは覚えている。
しかし、今瞳に映っているのは俺の部屋だ。
家具の配置も一切変わってない。
と言う事は……戻って来れたのか? 現実に。
「そうだ、あの女は……」
直ぐにベッドから飛び起き……ようとして、体が思うように動かず転げ落ちてしまう。
精神への負担が、肉体にも反映されていた。
「いてて……ん?」
「はぁ……あっ……! ああんっ……!」
「……何してんだ、お前……」
転げ落ちた先には先客が居た。
彼女……ラプチャー・アントマリィは、どういうワケか半裸のまま全身をぐっしょり汗で濡らしながら、恍惚の表情を浮かべて床に倒れている。
事後と思われても仕方のない光景だ。
実際、襲われたのは俺だけど。
あ……ちょっとだけ行為の内容も思い出せた。
常人には耐え難い責め苦だったと思う。
けど、ドールとエストリアに毎晩鍛えられていたおかげで辛うじて耐える事が出来た。
責めのエゲツなさは彼女達も負けず劣らずだからな……謎の増精薬を飲まされて一晩中相手をさせられた事もあったし……
「はあっ、はあっ……ふぅ、少し落ち着きました」
「っ!」
ゆっくりとラプチャーが立ち上がる。
口元を三日月に歪めた表情は妖艶で、今にも抱きつきたくなるような色香を放出していた。
彼女が着ていた衣服は大きくズレ、上半身に至っては完全に服の役割を放棄し大きな胸が露出していた。
本人は一切気にせずに悠然と佇んでいる。
俺はまた幻術に囚われないよう目を瞑り、彼女の気配だけを頼りに相対する。
こいつは危険すぎる、直ぐに捕縛しなければ。
だが……
「……!? 魔法が……!」
魔法が使えない。
正確に言うなら、体の中の魔力が乱れている。
魔法を使おうとしても魔力が暴れているので、魔法構築にまで至ることが出来なかった。
おまけに体力もかなり減っている。
正直、立っているだけでも辛い。
幻の世界からは帰還出来たが、思った以上に精神的ダメージを負っているようだ。
「く……」
「どうやら貴方様も、まだ本調子では無いご様子……この機を逃す手は持ち合わせていません」
ラプチャーがそう言った直後。
目を瞑っていても分かる程の強大な魔力が、彼女の方から流れてくる。
何かの魔法を使う予兆かもしれない。
まずい、今の俺はまともに戦う事が出来ないぞ。
どうする……
「フフ、アナタ様は連れて帰ります。そして、ワタクシと永遠の愛を……」
「––––そんな事、絶対させない」
バシャン!
突如発生した水の塊がラプチャーの体を撃ち抜き、彼女の体を壁際まで追いやる。
その水を生み出した本人を見て、俺は歓喜した。
「ドール! どうしてここに!」
「ユウトの部屋へ遊びに来た。けど、鍵が空いていたから不思議に思って……扉を開けたら、あの女が」
「あの女」のところだけ声のトーンが氷河期並みに低下したドールは、杖の先端をラプチャーへ突き付けながら俺の元へやって来る。
常に杖を携えている彼女の性格が幸いした。
「ユウト、あの女は何? 答え方によっては……」
「代表戦の前に俺を暗殺しに来た、ホワイトグリードの一員だ。誓って何もしていない」
「そう。それならいい」
早口かつ簡潔に状況を伝える。
本当は幻の世界であれやこれやとしたが、あくまで幻なのでノーカウントだろう。
「すごく辛そうだけど、大丈夫?」
「大丈夫と言いたいけど、悪い。魔法も使えないくらいに疲弊してる……」
「……ほんとだ、体の中の魔力がぐちゃぐちゃ」
ピトッと、彼女は俺の背中に触れながら言う。
衣服は汗で濡れて湿っていた。
呼吸も荒く、きっと顔色も悪い。
本当なら直ぐにでも治療を受けたいが、その前にやるべき事が目前に転がっている。
俺はドールにラプチャーの捕獲を頼む。
「アイツは危険だ、俺の代わりに捕まえてくれ」
「まかせて」
短い返答の言葉。
彼女は即座に詠唱を始めた。
「我が敵を捕らえろ『アクアバインド』」
今度は人一人がすっぽり収まるくらいに大きな水の塊が生まれ、倒れているラプチャーを包み込む。
彼女はプカプカと水球の中で浮く。
身動きを封じる魔法のようだ。
ドールがラプチャーを捕らえている間に、他の仲間を呼ぼう……そう思っていたが。
「––––」
「そんなっ……!」
ラプチャーが泡を吐きながらも口元を動かす。
すると彼女を包んでいた水球が消失した。
水滴すらも残さずに消えている。
「……『泡沫の夢』。フフ、やはりこの世は砂上の城のようなもの……ならば欲しい物を手に入れずして、何が人生でしょうか」
彼女ははだけていた服を元に戻してから、真っ直ぐに俺を見つめながら礼をする。
その仕草は心の底からの敬意を感じた。
「ですが、今はまだその時ではありません……ユウト様、アナタ様は必ずワタクシの伴侶になってもらいます。では、また」
「待て!」
ストーカーのような捨て台詞を残しながら、ラプチャーは想像以上の身軽さで窓を突き破り、その身を空中に投げ出した。
俺の部屋は地上から離れている。
当然飛び降りればタダでは済まないが……ヒラヒラと空中に浮く、エイによく似た魔獣と思しき生物が彼女を背中に乗せ、物凄い速度で飛んで行った。
「矢野、凄い音がしたけどなんか……あったみたいだな、うん」
騒ぎを聞きつけてやって来た木村は、荒れた部屋と疲れ果てた姿の俺を見て言った。
「木村、皆んなを呼んで来てくれ。一人ずつ事情を説明するのは体力的にキツイから、全員まとめて一気に伝えたい……」
「わ、分かった。少し時間をくれ、行ってくる!」
その後、俺は来賓館に泊まっている全員に襲撃を受けた事を伝え、今後も備えるよう伝えた。
ラプチャーと同じように他の使用人もホワイトグリードの一員が化けているかもと疑ったが、時間をかけて調べたので多分大丈夫だろう。
陛下は翌日直ぐにリフレイ王国側へ抗議したが、才上の「関与してない」の一言で突っぱねられた。
普通ならその程度では食い下がらないが、もうすぐ行われる代表戦に勝てば全てが解決する。
結果的に出場する者達の士気は高まった。
––––そして、一週間後。
フェイルート王国対リフレイ王国。
前代未聞の戦争が、始まろうとしていた。